行ってくるね、と作り笑いを浮かべた友人を見送った。 正面の席が空いてしまった喫茶店のテーブルはやけに寂しくて、休日特有の喧騒のなか、まるで僕が世界でひとりぼっちになったような感覚がした。 ガラス越しに視線をやれば、可愛く着飾ってきれいに髪を整えた名前が暗い面持ちで歩いていくのが見えた。 どんな時でも恋人にはきちんとした格好で会わなくちゃ、というのが彼女の考え。 あんな男のために時間をかけることないのに、というのが僕の思い。 「今日、きっと私はふられる」 さっき彼女がそう口にした時から、どうもコーヒーが不味い。 砂糖をひとつ、黒くて底の見えない液体に沈めればいくらかマシになった気がした。 名前の彼氏は浮気をしているそうだ。 気付いていながら見ないふりをする彼女を長いこと眺めてきた。 そういう時の彼女は蛹のようだった。 様々な行動が減って、口数も少なくなり、ソファーやベッドの上で膝を抱えていることが多くなった。 まるで自分を守る殻に閉じこもっているようだ。 俯くことで露わになった細いうなじを眺めて思った。 頭を占めるのはやけに冷めた思考で、わずかな憐れみを持って彼女の頭を撫でた。 どうして君はどうしようもない人とばかり恋をするんだろうね。 頭の中で繰り返してきた言葉は、今回も喉の奥で消えた。 「それで、どうするの」 「ちゃんと話をしてくるよ。なんとなく、結果は予想がつくけれど」 さして食べたい気分でもないパンケーキをフォークでつつきながら尋ねると、彼女は意外にもさっぱりした口調で返事をした。 気丈な振る舞いが相変わらず上手い。 正直なところ、僕には彼女の傷心がバレバレだった。 いったい何年一緒に過ごしてきたと思っているんだ。 名前の一途すぎる性格も、だからこそ痛い目を見る恋愛も、すぐ近くでよく見てきた。 僕にとっては数ある失恋の「またか」で済ませられることでも、彼女にとっては一回一回がかけがえのない恋だ。 それを踏まえた上で、僕は言葉を選んだ。 「じゃあ、行ってらっしゃい」 言外にここで待っていると告げれば、彼女は作り笑いを浮かべて言った。 行ってくるね、と。 店員がパンケーキのくずしか残っていない皿を下げて、テーブルの上はますます寂しくなった。 早く出て行けと急かされているような気分。 ヘッドフォンで音楽を聴いてしまいたい衝動を抑えながら、窓の外を再び見やった。 噴水の前で名前と男が話をしていた。 あんな恋人の溜まり場みたいなところで別れ話をしなくたっていいのになぁ。 他人事みたいな気分は、目を凝らすことでだんだん薄れていった。 男が二、三歩前に進み、彼女が怯えた表情を見せる。 音までは聞こえてこなくとも、彼女が男に何かしらの言いがかりで非難されているのは雰囲気で伝わってきた。 名前は反論をしようとして開きかけた口を閉じた。 柔らかそうな唇に歯が食い込んで、彼女が唇を噛みしめる。 泣きそうな顔。 あ、ダメだ。 思った瞬間、伝票とコートを引っ掴んで席を立っていた。 急く気持ちで支払いを済ませ、喫茶店を出る。 名前と男の周りを人々は避けていた。 遠くからでも険悪な雰囲気と醜い罵詈雑言はよく目立っていて、自然と眉間にしわが寄る。 手を伸ばせば届きそうな距離を空けて、名前の背後で立ち止まった。 僕に気付いた男が怪訝そうに喋るのをやめたが、それに構わず名前の腕を引き、抱きしめる。 いつだってこうして守ってあげられたらいいのに。 振り返らずとも僕だと分かったらしい名前が吐き出した息は熱く、震えている。 ああ、間に合って良かった。 「そこらへんで、やめてもらっていいですか」 僕が男に呼び掛けた声音にあまり敵意は含まれていなかったと思う。 けれど友好的にも聞こえなかっただろう。 ただただ、名前がかわいそうに思えた。 抱きしめた腕の中の女の子にじっと視線を落としていると、男は戸惑った顔をしながらも強がった口調で言う。 「…なんだよ、そっちにも男いるんじゃねえか。清々したぜ」 そのまま去っていこうとする男に、「ちが、」と言いかけた名前に抱きしめる腕の力を強める。 彼女と僕は結局、男の後ろ姿が見えなくなるまで黙り込んでいた。 途切れていた人混みが僕らを気にせず歩くようになった頃、名前がはあっと息を吐いた。 ひくり、と抱いた肩が震える。 「ごめん、ごめんね…蛍」 「いいよ」 やっとのことで絞り出した彼女の言葉はふにゃふにゃの涙声で、やっぱり僕はため息を吐くしかなかった。 呆れたわけでもなく疎んだわけでもなく、彼女が傷付くことを少しは防げたという安堵から。 泣き顔を隠すように正面から抱きしめ直すと、弱くて愛しい彼女がしがみついてきた。 背中をゆっくりさすってやる。 「…ごめん」 「謝らなくていいよ」 「でも、ダメだった。最後まで耐えられなかった」 「うん、仕方ない。帰ろう」 名前が嗚咽混じりに吐き出す息はあったかい。 それは悲しみに満ちていて、彼女の恋が終わった証拠だ。 僕はひっそりと目を閉じて願うしかない。 その涙はあの男のためじゃなくて、僕という存在に安心して流れた、悲しくない涙だったらいいのに。 20140211 その縁を手にした鋏で切ってあげたい |