「あ、真っ黒ジャージ」 見知らぬ他校の人に声を掛けられた。 おそらく年上であろうその人はやけに端正な顔立ちにある唇を綺麗に持ち上げて笑った。 水道でひたすらドリンク作りをしていた私は蛇口をひねり、流れ続けている水を止めた。 試合が行われる会場で他校の人に失礼な態度を取る、なんてことはマネージャーとして一番やってはいけないと思っていたからだ。 「きみは烏野の子かな?」 「はい」 「女の子にもこんな地味なジャージ着せるなんてね。可愛いのにもったいない」 悪意はないのだろうけれど、彼の言葉には少しむっとした。 他人からすればこのジャージは地味なものかもしれない。 けれど、私たちの学校の名前を色で体現しているものだ。 私がマネージャーになった時、誇らしげに背中にある「烏野高校排球部」の字を指差して迎えてくれた彼らのことを思い出す。 あの時本当に嬉しかった気持ちを思えば、どんな色であろうともどんなデザインであろうとも、私にとっては大切なものだ。 表情に苦いものは隠しきれなかっただろうが、できるだけ短く感情を出さないように答えた。 「そんなことないです」 「気に障った?ごめん、他意はないよ」 「いえ」 「俺も自分のところのジャージ好きだもん。似合ってるでしょ?」 そう言ってジャージの裾を引っ張って見せる彼に、この人は何がしたいんだという気分になる。 彼はジャージの前を留めていなかった。 そして試合が近いせいか、1番の下にラインがあるユニフォームを着ている。 この人、キャプテンだ。 澤村先輩とはまた違うタイプに感じるものの、チームを任されるほどの技量と度量があるということだろう。 …話した分では伝わってこないけれど。 「そんなに警戒しないでさ。少しお話しようよ」 「すみません。私、仕事をしなくてはいけないんです」 「そういえば前に見たことないね。新マネちゃんかな?」 人の話を聞かない人だ。 耐えろ耐えろ、失礼のないように、内心で自分に言い聞かせて相手を見つめる。 きれいな青と白のジャージに身を包む彼は、先ほどの言葉を肯定することになってしまうけれど確かに様になっていた。 「烏野高校一年マネージャー、名字名前です。…あなたは?」 「あ、一応訊いてくれるんだ」 「まあ」 「青葉城西の及川徹、って聞いたことない?」 その瞬間、私は手に持っていたボトルを落としてばしゃん、という派手な音を立ててしまった。 ボトルの飲み口から冷たい水が溢れ、どんどん地面を濡らしていく。 私の失態にぎょっとしたらしい彼は「おおっ?」と声を上げ、その身を屈めた。 「落としたよ。大丈夫?」 「…っ!」 「ん?」 「及川さん」が差し出してきたボトルを受け取ることすら適わず、後ずさりした私は水道の設置された壁へ背中を強かに打ちつけた。 なんで、よりによって及川徹と会ってしまうんだ。 日向くんが「大王様」と呼び、影山くんと清水先輩が「この人にだけは絡まれないように注意しろ」とあんなに言ってくれたのに。 顔を知らなかったとはいえ、巡り会ってしまった自分の不運を恨んだ。 私が今までの強気を引っ込めたせいか、きょとんとした表情を一瞬でいやな感じの笑顔に変えて、及川さんはずいずいと歩み寄ってきた。 腕を掴まれ肩をびくつかせる私に、彼は半ば無理やりボトルを持たせた。 水で濡れた右手は、その後も私の手首を解放してくれない。 「なにー?名前ちゃん、俺のこと知ってたの?」 「う、噂だけ…っていうか、名前」 「俺が名前呼んだらダメかな?」 「いえ…」 みんなの話から怖い人、性格が悪い人という情報ばかりを得ていた私は完全に怯えていた。 あの月島くんでさえ、及川さんが部内で話題に出ている時は心底嫌そうな顔をする。 青葉城西と練習試合をした頃、バレーを含めた運動とは縁遠い生活を送っていた私は想像しかできないが、何か彼の気に障る出来事があったのだろう。 影山くんや月島くんから警戒されるような人物というと、私からすればまったく敵う気がしない。 「噂かあ!トビオちゃんってば一体どんなことを吹聴してくれてるんだろうね〜」 「…誰ですか?」 「え?あっ、飛雄はね、影山飛雄のことだよ」 影山くんの名前にちゃんを付けて呼ぶような恐ろしい人と一緒にいたくない。 今すぐここから逃げ出してしまいたかったが、大量の水入りボトルを抱えてみんなのいる場所まで走るなんて無理だ。 貧弱な私には不可能な芸当である。 早いところ私から興味を失ってどこかへ立ち去ってほしい。 そう思うのに、見上げた先の及川さんはへらりと温度のない笑顔を浮かべるばかりである。 このままでは約束を破った影山くんにも怒られる気がして、私の精神面は弱る一方だった。 俯いてはぐぬぬと唸る私を、及川さんは笑った。 くすくすという感じの、イケメンの笑い方である。 「おっかしー。きみの先輩の潔子サン?とは大違いだね」 「え」 「部員がそう呼んでたのを聞いたよ。クールビューティーっていうの?前に話しかけたけれど全然相手にされなくてさぁ」 拗ねたように彼が腕をゆらゆら揺らすと、掴まれた私の腕も一緒に揺れた。 さすがは清水先輩、と先輩への敬意を新たにするより早く、及川さんは私の手首をぐっと握り直した。 逃げることすら敵わない力加減に腰を引きそうになるが、後ろには壁があるだけだった。 「きみは先輩ほど世渡り上手じゃないみたいだから、手を出しちゃおうかな」 新しいオモチャを見つけた、と言わんばかりの眩しい笑顔がふいに近付き、抱きしめられたのと私を探す影山くんの声が響いたのは同時だった。 再び落下したボトルが、侵食するように地面を濡らしていくのを、私は他人事のように見ていた。 20140207 嫌われてから本領発揮する及川さんマジ及川さん |