暑い、と言いかけた言葉をぐっと飲み込んだ。
ただせかせかと動いているだけのマネージャーが、全力で練習する選手の前でそんなことを口にするべきではないと思ったからだ。
熱気と湿気でぼんやりした頭でコート内へ視線を向けると、選手が代わる代わる出入りをしてレシーブ練をしていた。
その中で一番元気なのはおそらく、「もっときびきび動けぇ!」とみんなを叱咤する烏養コーチであり、自分に言われたような気がした私は慌てて腰を上げる。
そのはずみで持ち上げたカゴの中にあるドリンクの容器がガチャガチャと鳴ると同時に、ちょうど高く上がったボールが視界に入った。
少し不安定なレシーブを返した人物がコートから出てくる。
その人物、月島くんは私と目が合うと歩み寄ってきて、わずかに下がっていた私のジャージのファスナーをきっちり上まで引き上げた。
細い指が首もとから離れていって、「お疲れ」と小さく言われたのに対して「つ、月島くんこそ!お疲れ様!」となんとか返す。

これは推測、なのだけれど。

気温が高くなってからというもの、月島くんの機嫌が悪い。
私と顔を合わせる時はだいたいがしかめっ面をしていて、つい先日には「部活中はずっとジャージ着てて」と謎の言い渡しをされた。
これは何かで彼を怒らせて嫌がらせされているんだろうか、と何度もジャージを脱ぎ捨てたい衝動に駆られつつ、怒らせた心当たりがない私は月島くん本人に理由を問うこともできずにいた。
直射日光をよく吸収する真っ黒のジャージは部室と体育館を行き来する私の体力を確実に削っている。
いらない用品を部室に置いてきた帰りに腕まくりをして、気休めに手のひらで自分をあおぐ。
体育館の扉から覗き見えた光景は選手たちが休憩する姿で、タオルを配る清水先輩を手伝わなきゃと私は駆け足になった。
瞬間、立ちくらみのような感覚を覚えて思わず扉のところで踏みとどまってしまった。
ああ、少しまずいかもしれない。
体育館は屋内ではあるものの、涼しいなんてことはなく、むしろ熱気のこもり具合が室温を高めている。
気分の悪さを紛らわすように深呼吸していたら、ふっと頭上から影が落ちてきた。
顔を上げると目の前に影山くんが立っていて、私は驚いてまばたきをした。

「名字、どうかしたのか」
「ああ…あの、ちょっとくらくらして」
「なんでそんな暑苦しい格好してんだ」
「いろいろあって…」

へろへろの口調で言い返す私を見かねたのか、影山くんは不可解そうに口を尖らせる。
詳細を聞くまでもないと思ったらしく、彼の指先が伸びてきて、先ほどの月島くんのように私のジャージのファスナーに手をかけた。
ファスナーはきちんと一番上にある。
ということは、影山くんはファスナーを下げる動作をするに違いないわけで。
立っているのもやっとな私を気遣っての行動だとは分かった、けれど。
それをされたら、月島くんの言いつけを破ることになってしまう。
彼以外に言いつけを破られるのはいけないことのような気がして、私は口を開いた。

「待って、」

言いかけた私の声は、バチン!という痛々しい音にかき消され、私のそばには影山くんの手を叩き落とした月島くんと、憮然とした表情の影山くんが立っていた。
私は月島くんを見上げて、その目の冷たさに情けない声を上げそうになった。
これは、今までの不機嫌が可愛いくらいに、怒っている。
口角だけを爽やかな笑みに形作り、月島くんは刺々しい口調で言った。

「人の彼女気遣ってくれてどぉ〜もアリガトね王様。でもそれいらない親切だから」
「あぁ!?」
「行くよ」

私の手のひらをすくい上げて、月島くんはそのまま歩いていこうとする。
私は振り向きざま、「ごめんね影山くん!」と色々な意味を込めて謝った。
影山くんは相変わらずむっとしていたけれど、それは私に怒っているわけではないと次の言葉で分かった。

「それよりお前、大丈夫なのかよ!」

私は目をぱちくりとさせて、彼のつっけんどんな優しさに笑った。
笑って手を振ると、影山くんはどこか納得した顔で練習に戻っていった。
そうしている間にも月島くんはどんどん私の手を引き、余ったタオルを片付けている清水先輩に声を掛けた。

「具合悪いみたいなので、部室に連れて行きます」
「…そう。名字さんをよろしく」

短く返すと、清水先輩は穏やかな声で「早く良くなってね」と言ってくれた。
それにお辞儀を返した途端、またふわりと腕を引かれる。
月島くんの手の引き方は、抗えない何かがあるけれど決して乱暴ではないのだ。
部室に着くと、月島くんは私を空いた椅子に座らせて、両肩に手を置いて俯いた。
私は彼が相変わらず怒っていると思っていたので、続けて聞こえてきた長い長いため息に驚く。
月島くんはしばらく顔を上げなかった。
代わりに、やはり乱暴ではないが抗い難い力が両肩を握りしめる。

「月島くん?」
「なんで早く言わないんだよ」
「…えっと」
「体調、悪いって。僕に一番に言えばいいだろ。信用されてないわけ?」

拗ねているような、もしかしなくとも落ち込んでいるような、その声音に私の緊張はほどけていく。
月島くんは怒っていない。
私を心配してくれているのだと分かった。

「…ちがう。言いたいのはそんなことじゃなくて」

私が黙って聞いていると、月島くんはもどかしそうに自身の前髪をくしゃりとかき混ぜた。
彼の表情は見えないけれど、目線が合わないのはきっと言葉にするのも気恥ずかしい本音を吐露してくれているからだと思った。

「すぐに気付けなくてごめん。…君が体調崩したら、元も子もない」

そして、またため息が空気を揺らす。
珍しくつむじが見えているふわふわの金髪はこんな時でもきれいで、私は目を奪われると同時に、月島くんの言葉に心も奪われている。
体中の細胞ぜんぶが、月島くんに向いている。
彼の声を、その仕草を、私にくれるものを、全部取り逃さないようにと。

「でも影山に先越されたのは、ほんとやだ」

しばらく時間を置いてようやく呟かれた言葉は子供のような幼さを含んでいた。
普段日向くんや影山くんをからかって、子供のようだと笑って、他の誰より大人びて見える彼の、はじめて見た一面だった。
私が最初に恋した月島くんは窓辺でぼんやりと音楽を聴く姿だったけれど、今の方がずっと強く彼を好きだと思った。
私は、私の視線をひとりじめし続ける月島くんのきれいな髪にそっと手を伸ばした。
彼の頭を撫でるのはこれが最初で、できれば最後にならないといいなぁと思いながらゆっくり指を滑らせる。

「影山くんは心配してくれたんだから、何も悪いことはないよ。月島くんが謝ることもないから、大丈夫」

私ができるだけ柔らかく放った言葉に、月島くんは黙って顔を上げた。
瞳は気遣うように優しいのに、口元が不満を表すみたいにへの字に曲がっている。
月島くんはそうっと私のジャージのファスナーに手をかけた。
ジィ、と軽い音とともに胸元が楽になった気がした。
中にはきちんと烏野高校指定のシャツを着ているのに、彼は気まずそうに顔を背けた。

「ジャージ、脱がなかったんだ」
「月島くんに言われたから」
「…ばかじゃないの」
「そういえば、もういいの?何か怒ってて、その罰かと思ってたんだけど」
「はあ?」

怪訝そうな彼に、私は説明した。
この暑いなかジャージを着ていろという命令は罰ゲームなのかと思った、と。
目をぱちぱちさせた月島くんは首を振り、「鈍感」と囁いた。
その言葉は観念したかのように甘さを帯びていた。

「あんな薄着でむさ苦しい部活連中のなかにいてほしくなかったんだよ。余裕がない男の嫉妬だから、笑えばいい」

私が微笑ましさに笑ったことは、言うまでもない。

20140831

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