俺は彼女と付き合えたことを奇跡だと思っているのに、名前は笑って「今までの彼女にも同じこと言ってきたんでしょ」と言う。 言葉は意地悪だがその眦は優しくとろけていて、俺が今は彼女しか見えていないことを分かり切っている表情だった。 実は名前が俺にとって初めての彼女であること、余裕そうに見えたらしい告白の瞬間も心臓がはちきれそうだったこと、そばにいるだけで普段みたいな意地の悪い顔ができなくなること。 それらを彼女から暴かれない限りは自分の胸だけに仕舞っておこうと考えている。 残り少ない甘ったるいシェイクがズズー、と品のない音を立てた。 学校帰りのファストフード店の二階窓際のテーブルは、学生にとってはありふれたシチュエーションのひとつ。 周りは高校生だらけで賑々しい空間に押し込まれても、目の前にこいつがいるだけで特別なんだ。 なんて、恋に恋する馬鹿者みたいなことを思ってみる。 他校のメガネ君を若者だと、笑うことができない有り様だ。 「黒尾のシェイク、何味だっけ」 「バニラ」 「ふーん」 尋ねてきた割に興味がなさそうな彼女にシェイクを差し出すと、ストローをくわえてちゅっと吸った。 薄いピンクのグロスがストローに残ったのを見て、内心どきりとする。 彼女はちょっと眉を寄せただけで、すぐに自分のブレンドコーヒーに口を付けた。 「ごめん。全部飲んだかも」 「いいよ、どうせほとんど残ってなかっただろ。甘いよな」 「甘い」 彼女はコーヒーがそこまで得意ではないらしいが、一緒に頼むチョコパイが一番美味しく感じられるのがコーヒーであるという。 その話を聞いた時、食べ合わせを考えずに気分でとりあえずメニューを決めてしまう自分とは違うのだなと思った。 さくり、また一口チョコパイを食べ進めた彼女の口端についた欠片と、それを紙ナプキンで拭う仕草にむず痒い気持ちになった。 「ピアスを開けたいなぁと思うんだけど」 「おう。いいんじゃねえの」 「黒尾も開けてみる?」 「いつかな」 派手ではないほどに容姿に気を遣う彼女の思いがけない言葉に、惰性ではなくきちんと返事をした。 第一印象が清楚寄りだが中身は茶目っ気たっぷりの彼女にピアスはよく似合うだろうと思った。 その耳元できらりと光る石は何色だろうか、そこまで考えたところではたと気付く。 彼女の頬の上で似たように光るものを以前に見たことがあるのを思い出した。 あれは確か、陽の沈みきった時間帯の教室で、まだ俺たちが付き合い始めたばかりの頃だった。 一人で涙をこぼす彼女を見かけたのは本当に偶然で、扉を隔ててその姿を見た俺は足が縫いつけられたように動けなくなった。 見ない振りをして立ち去ることもできず、駆け寄っていって抱きしめることもできず、驚いた時の人間は本当に無力だという場違いなことを考えてしまっていて。 気を抜いた一瞬のうちに名前は袖でぐいと涙を拭い、泣き顔の余韻も残さない横顔だけがそこにあった。 何一つ悲観していないような瞳はきっと俺とは違う世界を見ているんだろう。 その出来事をきっかけに俺の馬鹿げた思いに拍車がかかったことは事実で、余計に離れられないなと思うようになったことも本当だ。 いつだって慰めなんて必要としていない余裕たっぷりの笑顔が、むしろ俺の余裕を突き崩して心を惹きつけてやまないことを、彼女は知る由もないんだろう。 「なあ、名前」 「なあに?」 頬杖をついて柔らかい声を返す、名前の姿を目に焼き付けていたいと思った。 まばたき一つ逃さず、俺のものになってしまえばいいと考える一瞬がここにある。 だから言葉の方は疎かで、声音は少し情けないものになった。 「俺が社会人になって自分で稼げるようになったとして」 「なに、進路の話?」 「そんなトコ。で、ピアス開けられるくらい余裕できたらの話なんだけど」 「うん」 「その時は俺と結婚してくれるか?」 名前は驚いていなかった。 冗談だと捉えている表情でもなく、俺の顔をじっと見つめ返してくるから首より上が熱くなってくる。 周りは相変わらず高校生ばかりで騒がしいが、俺は名前が唇からこぼした笑い声を確かに聞いて逃さなかった。 「黒尾は本当、気の早い男なんだから」 彼女は俺の言葉を馬鹿にせず、いつもの優しい眦を作って言った。 それだけでいい、と思った。 イエスの返事がもらえなくても俺にとっては十分だ。 俺はいま一番の幸せ者だと胸を張って言える。 20140708 |