空は青いが、あの抜けるような青さの夏空にはまだ遠い。 たまに蒸し暑い日はあっても、本格的に気温が上がるのはまだまだこれからだ。 私は寒いのが苦手だから、冬より夏の方が好きだ。 子供の頃の記憶を呼び覚ます独特の匂いがして、体温ごと風に紛れてしまいそうな気がする。 ふと、私の隣でペットボトルのお茶を飲む彼はいかにも夏が苦手そうだと思い当たって笑みが浮かんでしまう。 見た目通り、といえばそれまでだけれど、彼には綺麗な名前があるのだ。 「ほたるなのにね」 「…蛍だけど」 「ああ、ごめん。呼び間違えたんじゃないから怒らないで」 ひっそりと漏らした言葉は月島くんにしっかり拾われていて、彼の名前がケイという読み方をすることを注意されてしまった。 少し不機嫌そうにする彼の腕を引いて歩き出す。 坂ノ下商店の軒先から出ると、日差しが私たちをさあっと照らして一気に暑くさせた。 先ほど買ったばかりの冷えたペットボトルの蓋を閉める月島くんの袖を引く。 「見て見て。飛行機雲が伸びてる」 「それがどうかしたの」 「ほら、二つも。珍しいかなって」 空模様を窺うのに理由なんてない。 けれど、理由のないことはしない月島くんからすれば不可解な言動なのかもしれない。 それでも私が嬉しそうに教えれば、一緒になって空を見上げてくれる。 曖昧な笑みを浮かべて、良かったねと言う。 そういう些細なことを大切にしたいのだ。 「君は、よく空や雲を眺めてるよね」 遠く後方にある、坂ノ下商店の軒先にぶら下がった風鈴がチリンと鳴ったのが聞こえた。 まだ初夏なのに、烏野バレー部のコーチはずいぶんと気が早い。 それとも、あの風鈴は年中吊り下げられたままなのだろうか。 今までなんとなく気にしていたことをなんとなく口にした、という感じで話す月島くんと目を合わせる。 眼鏡の奥のきれいな色の瞳が私を捉える。 その唇からふ、と笑いが漏れて、わざとふざけるような声で尋ねられた。 「鳥にでもなりたい?」 「なりたい、かも」 「へえ?」 興味深そうに声を低めた月島くんにはきっと分からない。 月島くんを含めたバレー部の人たちはみんな、どこか遠く高いところを見据えていて。 夢にまで見るような目標も、何もかも投げ出したくなるほどの困難も、一つとして縁のない私のような人間からすれば、今にも飛び立ちそうな鳥に見えてしまうこと。 きっと月島くんは知らないし、伝えても伝わらないことだ。 熱の中にいる人は外に出てみるまで自分がいた場所の熱さは分からない。 「こういう空を飛んでいけたら、きっと気持ちいいよね」 そう答えたところで、ちょうど下りの坂道に差し掛かった。 ぐっと気温が上がる夏の少し前、過ごしやすい一瞬の季節。 坂道から吹く向かい風が心地良くて、私は両腕を翼みたいに伸ばしてみる。 強く吹く風が両腕で切られていく感覚が気持ちいい。 そのまま坂道を駆け下りようとしたのはほんの思いつきで、深い意味なんてなかった。 私は駆け出した二、三歩で腕を掴まれ、たやすく後ろへ引き戻された。 両腕の下を通ったのは初夏の風ではなくて、後ろから私を抱きしめる月島くんの腕だった。 「だめだよ」 低く落ち着いた声が耳のすぐそばで響く。 私は腕を下ろして、私を捕まえて離さない手のひらの上に添えた。 どうして彼が、わずかに不安を滲ませた口調で話すのか、分からなかった。 「飛んでいったら、だめだからね」 道端で立ち止まる私たちはどんな風に見えるのだろう。 そう気にかけても他に誰かが通る気配もなかった。 そうか、と納得する。 抱きしめられた心地よさより、抱きしめてきた月島くんのことを思う。 確かに月島くんは、私が離れていくとしたら引き留める性格だと思った。 自分もついて行く、と言い出すタイプではない。 たとえばの話、私がどこか遠くへ行くとか、引っ越しをするということを話したらあっさりと別れ話をするような、そんな人だ。 それは薄情なわけではなくて、真っ先にお互いが一番傷付かない方法を取ろうとする、臆病な本心があるからだ。 彼の考え方は薄情ではないけれど、少し寂しい。 何も言わない月島くんの手の甲をそっと撫でた。 「わかった。どこにも行かないよ」 口約束をして、今だけ安心させることは簡単だ。 いつか私が彼の名前を、何のてらいもなく蛍と呼べるような日が来る頃には、「別れよう」じゃなくて「ついて行く」と言わせてあげるようになれたらいい。 離れることなんて考えられなくなるくらい、月島くんのそばにいたい。 そうでなければ、彼の方が先にいなくなってしまう気がした。 20140517 |