「私、日向くんが好き」 体育の授業中に怪我をした月島くんを保健委員として引き連れながら、私はぽつりと口にした。 月島くんは一度まばたきをすると、同情に近い笑みを浮かべて言った。 「物好きだね」 「そう思う?」 「そう思うよ」 第一体育館を出て、保健室や特別教室のある棟へ向けて進む。 月島くんだってこの学校の生徒なのだから、保健室の場所くらい知らないはずがない。 けれど、引率者と負傷者という肩書きを前にしては、自然と私が彼の二歩先を歩いていた。 校舎に入り、暗い窓ガラスに目をやると少し後ろを歩く月島くんとガラス越しに目が合った。 手持ち無沙汰な気分で外をぼんやり眺めていたのは彼も同じだったらしい。 「どんなところが、好きなの」 授業中の校舎は静まり返っていて、それは廊下も例外ではない。 いつもとは雰囲気が違う空間にいるからだろうか、月島くんはらしくないことを口にした。 他人の恋愛事情なんて、聞いてと頼まれても嫌がって聞かない性質だと思っていた。 「まず、明るいでしょう」 「騒がしいだけじゃない?」 「向上心があるよね」 「まあ、ムダに必死ではあるかも」 「気軽に話せるし、話しやすい」 「能天気な上に君と身長が近いからね」 「本当に、いい人だと思うよ」 月島くんの皮肉気味の相槌を物ともせずに話し続けていたら、最後のところで彼は黙り込んだ。 私の言い方に含まれているものに気付いたのだろう、その長い脚の大きな一歩でいともたやすく私の隣に追いつくと、眉根を寄せて声を低めた。 「ちょっと待って。日向のこと好きなんでしょ」 「うん。いい人だからね」 「…どういう意味での、好き?」 「チームメイトとして」 私が答えると、月島くんは呆れかえったようだった。 気に掛けて損した、と言いたげに歩みを速めるので、私はなんとかそれについて行った。 保健室にたどり着くと、月島くんは開けにくそうに左手でドアを引いた。 彼の利き手である右手はだらりと体の横に垂れたままだ。 小指の爪が割れて、うっすらと血が滲んでいる。 そのために授業を抜けてここまで来たのだ。 「先生、いないんだけど」 「あ。ほんとだ」 彼の言うとおり室内に人の気配はなく、自分で薬品の並んだ棚を探ろうとする月島くんの袖を掴んで軽く引く。 「座ってて。左手じゃ危ないから、私が探す」 「…たいした怪我じゃないんだけどな」 私に面倒を見られるのが複雑なのか、渋る月島くんを引っ張ってきた椅子に半ば無理矢理に座らせる。 積極的に体育の授業に参加するタイプの人でもないから、彼は戻ろうとは言わなかった。 雑然とした机や空っぽのベッドを暇そうに眺める彼を横目に、救急箱を棚から取り出した。 彼の対面に座って必要な器具を取り出す私に、月島くんは無機質な声音で話しかけてきた。 「慣れてるね」 「部員の手当てもマネージャーの仕事ですから」 「ああ。西谷さんが常習犯のやつか」 「はっきり言う人だから有り難いよ。この前まだまだ下手くそだなって言われたから、期待はしないでね」 「してないよ、最初から」 傷の具合を見るために、月島くんの右手をそっとすくい上げた。 急に触れたからだろうか、彼の中指だけが、ぴくりと震えた。 長くて細い、男の子にしては華奢な部類の指先をじっと見つめると月島くんが居心地悪そうに呼吸をする音が耳につく。 「血は出てるけれど、ひどい割れ方はしてない。爪が少し欠けたかな」 「だから言っただろ。たいしたことないんだって」 私が消毒液を手に取るわずかな間にも、月島くんは手のひらを引っ込める。 それを目だけで追いかけ、視線を持ち上げると彼と静かに目が合う。 「それでも、私はあの場を離れてよかったと思うよ」 落ち着いた声で言い放つと、月島くんは言葉に迷う素振りを見せた。 二人の間に流れた気まずい空気を紛らわしたくて、私は明るい声音で続けた。 「さっきの話の続き。私、影山くんも好きなんだ」 「………」 「月島くんって、結構露骨に表情に出すよね」 「ホント物好き。アレのどこがいいの」 きれいな顔が歪むと迫力があるなあ、と思いながらガーゼで包んだ彼の指先に消毒液を吹きかけた。 染みるだろうに、その痛みを表情には出さない月島くんは感情のコントロールが出来る人だ。 自分が見せてもいいと思った部分しか、表には出さない。 「そうだなぁ、影山くんは努力家だね」 「無駄にアツいだけじゃん」 「日向くんと同じくらい自主練を頑張るし」 「それはただのバレー馬鹿」 「ああ見えて優しいよ」 「嘘つけ」 さっき以上に否定にかかる月島くんのしかめっ面に笑いを堪えながら、この間影山くんが重い用具の片付けを手伝ってくれたことを話す。 面白くなさそうに聞き流す月島くんは、空いた左手で自分の膝をぱしんと叩いた。 「何なの、さっきから。口より手を動かしてよ」 「ごめんごめん」 「それに、包帯の巻き方が本当に下手くそ」 「まあまあ、あとひとつだけ聞いて」 くるくると白い布を巻きながら言う私に、月島くんはため息を吐いた。 右手を掴まれている状態では彼も逃げようがない。 「私は山口くんも好き」 「ああ…割と仲いいよね」 幼なじみには比較的穏やかな物言いをするあたり、月島くんと山口くんの付き合いの長さが窺い知れる。 その証拠に、珍しく月島くんから私に尋ねてきた。 「いつもどんな話してるの」 「普通の、何でもないことだよ。苦手な授業の話とか、購買に売ってるどのパンが美味しいとか」 「ふうん」 「最近、嶋田さんとの特訓が調子いいんだって」 「…楽しそうでいいね」 僕にもそんなこと話さないのに、と月島くんの表情が物語っていた。 それはきっと山口くんがレギュラーである月島くんを思いやっての結果なのだろうけれど、気心の知れた二人の間に余計なフォローは無用と思って口を閉じる。 話の途中ですでに手当ては済んでいて、包帯をテープで留めた指先を確かめるように月島くんはニ、三度指を曲げ伸ばしする。 私が巻いた下手くそな包帯を少しずらして直しながら、彼は言った。 「それで、結論は?今言った奴らみんな、チームメイトとしての好き?」 「うん」 「そんなにいい奴らには思えないけど」 向かい合って座っていても、なかなか月島くんと視線は合わない。 冷めたように言う彼に、首を振る。 ちゃんと聞いてほしい。 そういう思いでじっと見つめると、月島くんはふいに視線を寄越してきた。 「月島くん。三人がチームメイトで良かったね」 「…なんで」 「月島くんにとっては気に入らないところがあるかもしれない。でも、あの人たちは頭ごなしに意見を否定したり、努力もしないでやっかんだりしないよ」 私はそこで、月島くんの右手に目を落とす。 白い包帯が巻きついた指先は少し痛々しい。 言わんとしたことを察したのか、彼も自分の手のひらを見ていた。 「月島くんに、わざと怪我をさせるような人はいない。本当にいい人たちばかりだよ。だから私はみんなが好きなの」 私と彼はきっと同じことを考えていたと思う。 先ほどの体育の授業で行われたバスケットボールの試合を思い出していた。 鈍い音がしたと思って男子のコートを見れば、月島くんが混雑したゴール下で転んで手をつくのが見えた。 月島くんは何でもそつなくこなす人だ。 それは勉強においてもスポーツにおいても同じで、彼にとっての普通は時に他の人の普通を上回る。 体育の授業でも持ち前の長身と運動神経を発揮してバスケ部員以上に活躍する月島くんのことを、やっかんだクラスメイトが事故に見せかけて突き飛ばしたのだとわかった。 すぐに起き上がった月島くんは右手を庇いながらも、何の主張もせずにそのままコートに居続けようとしたから、私は自分が持っていたボールを放り出して先生に駆け寄ってしまったのだ。 月島くんが怪我をしたから保健室に連れて行きます、と。 「言っておくけれど、僕はお節介だと思った」 「うん」 「女子の言うままに授業を抜け出して、軟弱な奴だと思われたじゃないか」 「うん」 「君がバレー部のマネージャーじゃなかったら許されなかったよ、たぶん」 「…ごめん」 「その情けない顔、やめてよ」 月島くんの口調は言葉ほど冷たくなかった。 頬の左側の髪がさらりと揺れたと思ったら、俯く私の表情を窺うように月島くんが指先を伸ばしていた。 包帯で巻かれた小指があるその手をそっと両手で包む。 私は重たい息をようやく吐き出した。 「バレーができなくなるような怪我をするかと思ったの」 「…何度も言うけれど、たいしたことないから」 「うん。本当によかった」 「ねえ、名字さん。他の一年の奴らのこと、好きなんでしょ。僕のことは好き?」 わざわざ尋ねるところが意地悪だなぁ、と思った。 もう手当ては終わっているのに、手に触れられても逃げない月島くんにわずかな期待とめいっぱいの愛おしさを覚える。 「好き…、大好き」 「チームメイトとして?」 「チームメイトとして、じゃない」 「そう。君は本当に物好きだね」 こんな僕を好きだなんて。 月島くんの左の手のひらが、私の頭をそっと撫でて、次に頬を撫でた。 「でも安心した。他の奴を好きじゃなくて」と穏やかな声が落ちてきて、思わず顔を上げると笑っている月島くんがいた。 いつものような意地の悪さを見せない、少しだけ困ったような笑い方だった。 この人は、私にこの表情を見せていいと思ってくれたんだ。 そう感じて、私はどんどん呼吸の仕方を忘れていく。 20140407 |