あれは悪夢だったんだ。
この数日間、そう考えることにしている。
今日も授業を終えて帰るために廊下を歩きながら物思いに沈んでいた。
周りばかりを気にして歩く私は挙動不審だと自分でも思うのだけれど、どうしても会いたくない相手がいるのだから仕方ない。
クラスは違う。部活が同じということもない。
それなら気をつけてさえいれば大丈夫だと思っていた私は甘かった。本当に。
部室棟の前で彼に出くわした時、危うく悲鳴を上げるところだった。
彼、花巻くんはいたって平静な様子で私の名前を呼んだわけだが。

「あ、名前」
「は、花巻、くん」
「あれ?つれないじゃん。この前まで可愛くたかひろって呼んでくれたのに」

近付いてきた花巻くんが私の手を取り、指を絡めて握る。
さり気なく暗がりの壁際に追いやられて、相変わらず彼にすべて主導権がある体勢に鼓動が激しくなった。
指と指とが絡む仕草に彼との数日前の情事を生々しく思い出し、顔が信じられないくらい熱くなる。
あの時もこうして指を絡めて、花巻くんに組み敷かれて、私はだらしなくシーツの海を泳いでいた。
今となっては忘れたくて仕方ないこと。

「離して!」
「おっと。…なんでそんなに怒んの?」

力任せに彼の手を振り払った私を、花巻くんは理解できないものを見るのと同じ瞳で眺めていた。
この人は、私が怒っている理由を本気で理解していない。
言葉が通じない存在を眼前にしているような途方もなさに、頭がくらくらした。
けれど、ここできちんと話をしなければ、突き放さなければ花巻くんは何度でも私に接触を試みるだろう。
それだけは嫌。どうしても避けたい。

「私はもう花巻くんと会いたくない。話したくないの。だから関わらないで」
「なんで。俺は名前のことが好きなのに?名前は俺のこと嫌い?」

その言葉に、私という軸がくらっと揺らいだ気がした。
この人はどうして心の弱いところを暴こうとするのか。
嫌いだったら、好きじゃなかったら、こんなに必死で突き放そうとしない。
本当はあなたを好きでいたい。
けれどあなた本人がそうさせない。
部室棟から伸びる影に、心がじわりじわりと不安に侵食されていくのが分かった。

「嫌い…じゃないよ」
「なら、いいじゃん。好きだから手つなぐしキスするしセックスするんだよ。何が問題なわけ?」
「だって、花巻くん、」
「ん?」
「この前…したあと、言ったでしょう」

彼に好きと伝えた一週間後だった。
そういう雰囲気になるのは早いとも感じたのだけれど、彼が望むことならば応えようと思った。
良く言えば、好きな人に身を委ねた。
悪く言えば、好きだからという理由で流された。
行為そのものに不満はなかったけれど、終わってみて急速に不安になってしまった私は花巻くんにある質問をした。
そこから全てがおかしくなったのだ。

「私たちはお付き合いしてるってことでいいんだよね、って訊いた」
「ああ。それか」
「花巻くんは」
「うん。別にそんなつもりはなかったけど、って言った」

やはり彼はあの時同様、顔色一つ変えずに言い返した。
この言葉を聞いた時は、足元が急に柔らかく形のないものになったような気分だった。
好きあっているのならば交際をして、それからこういう関係を持つのではないのか。
私と花巻くんの間に交際という過程がすっぽり抜け落ちているというのは、途方もない絶望感だった。
私たちの関係は正しくないとさえ思ってしまった。

「私、あの時すごく傷付いたの。信じられなかった」
「どうして?俺は名前が好きだし名前も俺を好きだし、そういうことするのは当然だろ。付き合う付き合わないは関係ない」
「関係あるよ!わ、私は、付き合ってると思ってたのに」
「名前が納得できないんなら、今から付き合ってるってことにしてもいいけど」
「そういうことを言ってるんじゃない!」

私が声を荒らげるのを、花巻くんは無感情に眺めていた。
私の言葉が響いていないのがよく分かる。
最初から揺らいではいたものの、彼と向き合おう、あわよくば説得しようという私の決心はもうぐらぐらと不安定だった。
何が正しいのかわからなくなる。
彼が全身で、私の言っている意味が分からないと示すから。

「言いたいこと終わり?」
「ち、ちがう…だから、私は花巻くんとはもう関わらないから」
「嫌だ。なんで両思いなのに離れる必要があるんだ?俺は名前とこういうこと、もっとしたい」

やめて触らないで、という暇もなかった。
私をゆるりと抱きしめた花巻くんは、額に軽く口づけて低い低い声を出した。
ああ、本当にやめてほしい。
こんな風にされたら、愛されていると感じてしまう。
私は大切にされている気分になってしまう。
けれども、こんなに愛おしそうに触れてくる花巻くんと、名前のつく関係が何もないという事実が何より私を苦しめる。
それは愛じゃない。
お互いに約束できないなら愛じゃない。
愛じゃないなら、私は悲しくなってしまう。

「泣いてる?」
「ないて、ない」
「かわいいよ」

いっそこのまま手をかけて絞め殺してほしいと思った。
こんなに甘ったるい声を出す人が普通の恋愛観を持てないとは信じたくなかった。
普通に好きあって、普通に恋愛できると思っていたのに、彼にとっては私の考えの方が異常なのだ。
そう考えると恐ろしいようでいて脱力感を覚え、私はこの人から離れることを諦めたくなった。
私を抱きかかえた花巻くんはいつも通り、心地のいい笑顔を浮かべていた。
その笑い方がチェシャ猫にそっくり、と思ったのはずいぶん前のことだ。

「俺さ、シュークリームが好きなんだよね」
「は……、え?」

唐突な話題に目を瞬いた。
先ほどよりは日常的な雰囲気が漂う会話の内容に、私は肩の力を抜きそうになる。
でもそれは、花巻くんが許さなかった。
一瞬の隙を見て、何もかもを舐めとるようなキスを深くされて、呼吸がままならなくなる。
抵抗をしないあたり、私はまだまだ花巻くんが好きで、離れたくなくて、ずるずると流されている証拠だった。

「ふわっふわで甘くて、女の子みたいでさ。名前もちゃあんと、俺好みの女だよ」

だから大好き、と囁かれた私は果たして幸か不幸か。


20140401
しば子さんリクエストのチャラマッキーでした!

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