※特殊設定



目の前の皿には白くて柔らかそうなものが乗っていて、何故かふよふよと動いていた。
すぐにこれは夢だと気付いた。
向かいの席には、数年前に死んだはずの僕の彼女が座っていたからだ。
手を合わせた名前がいただきます、と言ってフォークを手に取るのを無感情に眺めていた。

「食べないの?」

名前は、僕と同じくらいか少し年上の容姿に見えた。
記憶の中の姿より成長して、髪もいくらか伸びている。
明晰夢だと自覚していなければ、やたら現実的な彼女を抱きしめていたかもしれない。
腕の中に閉じ込めて、会いたかったと囁いたかもしれない。
けれど、これは僕の夢だ。
そんな意味のないことは出来ない。

「…食欲ない」
「相変わらず、食が細いんだね」

彼女の問いかけに短く答えると、名前は困ったように眉を下げた。
大人びた口調で僕のことを心配する彼女は、当たり前だけれど僕が知っている名前そのままで俯きたくなる。
相変わらず皿の上の白い物体は弾力を感じさせる動きでうごめいていた。
不味そうにも見えないが、食べられるものにも見えない。
彼女が当然のように口にしているこれは何なんだ。

「ヨモツヘグイ」

言い慣れないことを声に出したせいか、発した言葉は響きがぎこちなかった。
彼女は気にした様子もなく、ナイフで切り分けた一欠片を新しく口に運ぶ。
咀嚼して嚥下するそれはどんな味がするんだろう。

「この前、古典の授業で習ったんだ」
「勉強の方は心配なさそうだね。蛍は頭良かったからなぁ」

日本の創世神話では、死んだ女に生きた男が追いかけられていた。
確か、その文脈より少し前に出てきた言葉だ。
古典の授業は基本的につまらないと思っているけれど、この話は描写が壮絶すぎて内容をやけに鮮明に覚えている。
彼女は古事記を習う前に死んだはずなのに、それが常識であるかのように知った口を利いている。
ヨモツヘグイ。
黄泉の国のものを食べると、黄泉の住人になるとされていた。
目の前には、死んだはずの僕の彼女。

「大丈夫。夢の中だもの。食べても現世に戻れない、なんてことはないよ」

そう言われても机に目を落としたままの僕を見て、名前は一度フォークを置いた。
汚れてもいない口元をナプキンで丁寧に拭う。

「今日の献立を教えようか?」

この白くてうようよ動くものの正体が気にならないわけではなかった。
視線で続きを促すと、名前は妙なことを口走った。

「蛍がやりたいこと、目指したもの、なりたい姿。要は、夢だよ」

夢の中で夢を食べるなんて。
言葉の意味合いが違うとしても、なんだか滑稽な行為に思えて皮肉な状況に笑いたくなる。
少し気になって、僕は彼女の皿を指差した。
名前の皿に乗っているものの見た目は、僕に出されたものと同じに見える。

「君のは?君が食べているそれも、夢?」

若くして亡くなった彼女の夢とは、どんな物だろうか。
それは僕の夢以上に尊くて、栄養に富んだ味がするのではないかと予想する。
しかし、名前は僕の予想を裏切り、ますます不思議なことを言った。

「私のは余り物だから」

皿からふわりと浮いて逃げていきそうな白い物体をフォークに突き刺しながら、名前は言った。
淡々とした動きは作業を思わせて、彼女にとってこの食卓は日常風景であるのだと感じた。
日常であるはずなのに、それを食べる彼女の姿はなんだか寂しそうだった。

「余り物?」
「あの日から、ずうっと残されてる」

そこで名前はフォークを置いた。
皿の上は空っぽだ。
出された物を綺麗に平らげて、彼女は悲しそうに僕を見つめている。
その瞳に、ぐらぐらと思考が揺さぶられる。
生きている間だって、彼女にそんな顔をさせたことはない。
罪悪感に胸が締め付けられた。
いつの間にか、僕は彼女のことを、ただの夢の中の存在とは思えなくなっていた。
人型の黒い影のようなものが彼女の脇にやって来る。
空っぽの皿を下げて、新しい皿を置いた。
やはり、新しい皿にも白くて柔らかそうなものが乗っていた。

「蛍が食べ残してきた夢を、私はずっと食べてるの。食べても食べても無くならない。一つお皿が空いたら次のお皿がすぐに運ばれる。私はもう、お腹いっぱい」

ナイフで切り、一口の大きさにして、フォークで口に運ぶ。
その動作に疲れ果てたような口調だった。
彼女に見つめられると、自分が小さな子供に戻ったような錯覚を覚えた。
あの日から。
彼女が示すのがいつのことだか、僕には予想がついていた。
ふと、名前が優しく笑った。
その笑顔が、幼くなった自分の心に染み込む。
君は、死んでからもそんな顔をするのか。
見守るような笑みが愛おしくて、寂しい。

「これからは、蛍本人に食べてもらわなくちゃ。もう大丈夫でしょう?」

瞬きをすると、名前の皿は再び空になっていた。
影みたいな給仕は皿を取りに来ない。
代わりに、僕の目の前には変わらず出されたままの状態で皿が残っている。
白くて柔らかそうなものが、不思議と今なら食べられそうだと思った。
ナイフとフォークをそっと握る。
切り分けて、食べやすい大きさにして口に運ぶ。
フォークを持ち上げかけて、言い忘れていたことを呟いた。

「いただきます」

名前は安心したように笑みを深くした。
白くて柔らかい、夢の欠片を口に含んだと思った瞬間、世界は真っ暗になって終わった。
余韻もなく、夢の味も分からなかった。





目を開くと、暗闇の向こうに自室の天井が見えた。
意識がはっきりと持ち上がるような目覚めに時計を見やれば、まだ朝の五時だった。
二度寝する気分にもなれず、いつものヘッドフォンではなくイヤホンと音楽プレーヤーを引っ掴んで部屋を出る。
夢から覚めて妙にざわめく心中を、近所を走ることで落ち着かせようと思った。
家族を起こさないようにそっと家を出る。
早朝の身を切るような冷たい空気に身震いしたものの、思考はだんだんとクリアになっていった。
意識がはっきりするにつれて、あんなに現実的だった夢の光景が徐々に薄れていくようだった。
彼女の面影が脳裏から完全に消えてしまう前に、靴紐を確かめてから走り出した。
河原に近い土手を無心に走った。
走っているうちに山の向こうがうっすらと明るくなり、眩しい朝日が差し込んだ。
立ち止まり、山向こうの景色をじっと目に焼き付けた。
もう既に、夢の中で名前の言っていたことが思い出せない。
なんとなく、寂しさを覚えているだけだった。
ぼんやりと朝焼けに見入っていたら、妙に空腹感を覚えて腹のあたりに手をやる。
早起きをして運動をしたせいだろう。
踵を返し、家に帰る道を走った。
今日は、いつもより多く朝食を食べよう。
きっと彼女は喜ぶ。

20140306
たくさんお食べ、おかわりもあるよ

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