またひとつ、メールを送信してから携帯を閉じた。 廊下を歩いていると、焦燥が表情に出ていたのか、道行く生徒たちにそそくさと避けられる。 片っ端から胸ぐらを掴んであいつどこだよ見なかったかと訊いてやりたいくらいだったが、どうせ居場所を知りもしないと分かっているので実行しない。 彼氏の俺にさえ所在が掴めない名前のことを他人が知っているはずはない、そう思う。 ものの数分しか経っていなかったが、再び携帯を開く。 新着メールなし。 舌打ちしたくなる。 俺は弁当箱を片手に持ったままだった。 「私と付き合いたいだなんて、物好きだねえ」 照れも恥じらいもなく、俺に告白された彼女は本当に珍しそうな顔でそう言った。 名字名前は掴みどころがないことでよく知られていた。 その自由奔放さは猫を通り越して花びらか蝶のよう。 たまたま自分の好きな女がそういう性だっただけで、それが理由で恋敵が少ないなら好都合だとかつての俺は思っていた。 しかし、それは付き合うまでの話。 付き合ってしまえば俺にもそれなりの独占欲が生まれるわけで。 そして名前は付き合ってからも恋人の感情など知ったこっちゃないという相変わらずの自由人だった。 まず電話に出ない。メールを返さない。 教室に行ってもいない。クラス合同の体育の授業で必死に姿を捜せばサボっているというオチだった。 そんな調子だから、顔を合わせるどころか声を聞かない日だってある。 下駄箱やクラス前で待ち伏せをするということも試したが、なかなか成果は得られなかった。 するりするりと、まるで影法師のように人目をかいくぐって、名前は生活していた。 気を抜けば見失い、捕まえても逃げ、俺との追いかけっこを楽しんでいるようにすら見える。 おい、これって本当に付き合ってるのか? 何度も自問自答しかけたが、そんなことを考える暇があれば名前を捜した。 ちゃんと会えばあいつは表情を綻ばせて笑うし、俺の気持ちに恋人として応えてくれる。 問題は、ひたすらあいつの居場所を探り当てるのが困難だということだけだ。 たった一つの問題なのに、俺は毎日それに振り回されている。 今日も今日とて、彼女と昼飯を食いたいがために校内を歩き回っている。 「また彼女捜し?王様も大変だね〜」 廊下ですれ違った月島の悪態に、今度こそ舌打ちが出た。 無視だ、無視。 こんな奴に構っている暇があったら俺は名前を捜す。 教室、屋上、保健室、音楽準備室、図書室…と今まで当たってきた場所を指折り数えていたら、背中に腹立たしい声が掛かった。 「あ。そういえば、名字さんなら中庭で見たよ」 「…あ?」 聞き捨てならない言葉に、踵を返した俺は月島にずかずか歩み寄り、胸ぐらを掴みあげる。 俺にさえ所在が掴めない名前の居場所を、他の奴が知っているなんて。 先ほどの考えをあっさり否定されたようで非常に気分が悪かった。 月島は感じの悪い笑みを浮かべたままだ。 落ち着け、相手はあの性格の悪い男だぞ。 俺の警戒心剥き出しの表情を見てか、月島は軽薄そうに言った。 「嘘に決まってるって思う?」 「お前の言うことなんて信じるかよ。そもそもあいつが一定の場所に留まってるわけ…」 「まだ居ると思うよ?だって名字さん、寝てたし。それはもうぐっすりと」 それを聞いた途端、俺は手を離して廊下を駆け出していた。 片手に持った弁当箱がガチャガチャ鳴って、中身が満遍なくかき混ぜられていることは予想がついたけれど足は止めない。 月島の話が嘘だろうと本当だろうと、今の俺に確かめる術はない。 だから、行ってこの目で確かめるしかないと瞬時に判断した。 できれば嘘であってほしいと思うのは、俺以外の奴にほんの数秒であっても名前の寝顔を見られたということが悔しくて許せなかったからだ。 もし、もし中庭で寝ているというのが本当だったとしたら。 無防備にも程がある。 これだから放っておけない。 必死で捜したくもなる。 そばに、置いておきたいと思う。 全力疾走したにも関わらず、息一つ乱れないのは日々の練習の成果だろうか。 辿り着いた中庭にぐるり視線をやった。 一際大きな樹木の陰から伸びて見える足はすぐに見つかった。 こんなところで寝るんじゃねえよボゲ、と怒鳴りつける準備はできていた。 しかし、正面に回り込んだところで頭を熱くさせていた怒りがすっと鳴りを潜めるのを感じた。 目の前には、それはそれは平和な光景があった。 名前はぐっすりとよく眠っていて、腹の上に一匹の白猫を抱きかかえ、頭の脇には黒猫が寄り添う形になっていた。 二匹の色違いの猫は野生なのか迷い猫なのか、何にせよ俺の好きなものだらけで構成された光景は壮絶な癒し効果を発していた。 いけないとは分かっていながら、取り出した携帯で名前の猫たちにまみれた寝姿を撮る。 かわいい。めちゃくちゃかわいい。 これは待ち受けにするしかない。 「つーか、どっから猫…」 校門がすぐ近くにあるとはいえ、一応ここは高校の敷地内だ。 二匹も迷い込んできたというのは考えにくいから、日当たりのいい中庭は猫たちの散歩コースに含まれているのかもしれない。 巡り会った猫たちと遊んでいるうちに陽気に当てられて昼寝をするに至った名前の神経は、正直俺とはちょっと違う。 しかしそんな感覚の違いは些細な問題であって、目の前には相も変わらず穏やかにすよすよと寝息を立てる名前と二匹の猫たちがいる。 さっきまでの焦燥や怒りはどこへやら、俺はくすぐったい気持ちになると同時に、自分がうずうずしているのを感じ取った。 今なら、遠慮なく触れるんじゃないか? それは何に? もちろん、名前と猫の両方に。 目の前の可愛い生き物たちにじっと視線をやる俺は怪しいだろうか。 なかなか捕まらない彼女と、普段なら嫌われて逃げられてしまう猫。 こんな貴重な機会はないだろうと、一歩二歩と距離を詰める。 名前の寝顔がよく見えた。 睫毛に木漏れ日が射してきれいだ、と見惚れていたせいか、俺は片方の猫の変化にすぐには気付かなかった。 うなり声にはっとして見れば、名前の頭の脇で寝ていたはずの黒猫が金色の瞳でこちらを睨んでいる。 そんな声を出されたら名前が起きる、と思ったものの俺にはどうすることも出来ず、黒猫の敵意剥き出しの鳴き声に飛び起きた白猫がまず一目散に逃げ、黒猫が後を追うように走っていってしまった。 ため息を吐き出して、俺は足音を気にせず名前に歩み寄った。 すぐ隣に腰を下ろし、草むらに弁当箱を放り出して細い肩を揺さぶった。 「おい、起きろ」 「……んう」 「名前」 「………かげやま?」 寝起きだからふやけている声音だとは分かっていても、なんだか自分の名前が甘えるように呼ばれたみたいで。 都合良く解釈した思考のまま、身を屈めて名前の上に影を作る。 合わせた唇を離すと、彼女は不思議そうに目を瞬いていた。 ようやく目が覚めてきたらしい。 寝込みを襲ったようで微妙な気分になった。 「…ねむい」 「おい他に言うことあんだろ」 「肩、貸して」 重たそうに上半身を起こした名前が俺の片側に寄りかかる。 横から見た瞳はゆっくり閉じたり開いたり。 話しかけていないと閉じたままになりそうで、声を大きくする。 「こんなところで寝るなよ」 「いやあ、いい天気だったし猫可愛くて…あれ、猫は?」 「……俺を見て逃げた」 「あはは、影山の顔が怖いからだ」 楽しそうに笑い出した名前に少々むっとしたものの、肩にすり寄る姿を見ては何も言えなくなった。 次はいつこんな風に過ごせるのだろうか。 途方に暮れた気分になって、下を向く。 怒らないのかとこちらを覗き込む名前を引き留めておきたい、とまた独占欲が顔を出す。 「お前さ、なんでふらふらすんの?捜す俺の気持ちにもなれって」 「それは、居心地が悪いからだよ」 「悪いのか。居心地」 「影山みたいに私を好きだって言う人、他に知らないから。居場所を作らない方が楽なの」 「だったら俺の隣にずっと居ればいい」 思わず飛び出した言葉はやけにはっきりした調子で、自分でも驚いた。 それでも頭の奥では理解している。 俺が見つけても名前はしばらくの間は逃げない。 しばらくして、タイミングを見計らったように逃げていくのは自分がそこに居続けてもいいという確証がないからだ。 ああ、何だ、お前もちゃんと人間だ。 自由奔放なんじゃなくて、ひたすらに臆病なだけ。 俺と同じで、現状に不安を抱いている。 自分ばかりが追うのではなく、彼女にも不安があるのだと知れば、自然と穏やかな声が出た。 「居心地、良くしてやるから。離れるな」 中庭にそよそよと風が流れて、名前の髪を揺らす。 彼女が寄りかかっていない方の手でそれを撫でてやり、草むらに置いていた小さな手を握りしめる。 名前は握られた手のひらから顔を上げ、俺の目を見てからようやく笑った。 この世の宝物を見つけたみたいな顔だった。 俺はまたくすぐったい気持ちになる。 こいつは、もう俺から逃げることはないだろう。 予感が現実になるように、心の奥底で願った。 20140304 |