その海洋生物を初めて見たのは水族館だった。
幼い頃の絵日記に、拙い字とともに残っている。
確か、少し離れた場所にいたイルカの方が子どもたちには圧倒的に人気で、その一つ手前の水槽に張り付いて離れない私を両親は訝しんだものだった。
一目惚れだった。
黒に白で彩られた目に似た模様も、どっしりと構えて揺るがない体躯も、それでいて優雅に泳ぐ様も。
その海洋生物はすいすいと水槽内を一定間隔で遊泳し、同じコースを何度でもぐるぐると廻った。
繰り返し泳いではその鼻先をこちらに突きつけるように向かってきて、ガラスにぶつかると思った瞬間には真上へ昇っていき、またぐるぐると泳ぐのだった。
何十分でも惚けて見入っていた私は両親に引きずられるようにして連れて帰られ、家に着いたら真っ先に図鑑を開いた。
あの海洋生物のことをもっと知りたかった。
そして調べて愕然とした。
シャチという名のその生物は可愛らしい見た目に反して、なかなか衝撃的な生態だったのだ。
魚群やアザラシ、果ては例の人気者イルカまでも狡猾に襲い、その巨体で突進して獲物を捕食するという狩りの仕方は決して子供心に感心を与えるようなものではなかった。
実は怖い生き物だったんだなぁ。
当時の素直な感想はそれに尽きた。
では、私はシャチという生物をそこで嫌ってしまったのか。
答えは否、である。
一カ月後に同じ水族館へ連れて行ってもらっても、やはり私はイルカショーよりペンギンの大行進よりひたすら力強く泳ぎ回る黒と白の姿に見入っていた。
この生き物は見た目より獰猛だと聞くし、こうして何度でも目の前にはやって来るけれど、私を見ているわけではない。
それを分かった上で私はやはりこの生き物が好きだと、その姿を愛していることには変わりがないと思ったのだ。
あちらが我関せずといった様子で無心に泳いでいようと、報われない思いであっても、この生物に恋をし続けよう。
一人娘がすぐそばで奇妙な誓いを立てていることも知らず、隣で両親は欠伸をしたのだった。

▽△

子供というほどの年ではなくなった今、どうしてか私は海の上という生活をしていた。
私が所属する海賊団の船は潜水艦であり、海に深く潜る際には水族館に近い世界に高揚したりもした。
けれど、問題はそこではない。
ウチの船員には偶然にもシャチという名の男がいて、その男がまた獰猛や凶暴といった言葉からかけ離れた人間だった。
初めて会った時は、失礼ながら名前負けだと思った。
いつでも笑っていて、楽しいことが大好きで、たまにハメを外しすぎてペンギンや船長に怒られる(ちなみにペンギンは、名前に反して理知的でクールな男である)。
気が良くて調子も良くて、人から好かれる男だった。
これではシャチではなくイルカではないか、と思ったのを口に出したことはない(私がまともに見に行ったことがない、隣の水槽のイルカ)。
また、彼は初対面から私に分かりやすく好意を抱いてくれていた。
けれどもシャチという生物への理想を覆された私がその好意に応えるはずもなく、そっけない私に絡む彼の図はすっかりウチの中で浸透してしまった。
ずいぶん前から船長もペンギンも、私たちがじゃれあっていても何も言わない。
ベポは仲がいいねぇとのんびり言うだけだ。

好きだよ、と言ってシャチはよく笑った。
どうしてそんなに優しげに目を細めるのか、と私は内心で詰りつつ、馬鹿じゃないの、と言葉で返した。
そんな風に言ったって、シャチはへらりと笑みを深めるだけだった。
なんだか苛々して脛を軽く蹴りつけてやったら情けない声を出していた。
我ながら傍若無人であると思う。

▽△

さっきまで、遠い日の記憶に思いを馳せながら仕事をしていた。
私はベポと同じ航海士であるので、頭ではあの美しい海洋生物を思い浮かべながらもせっせと海図を書いた。
そんな時、シャチが構ってほしそうに部屋へやって来たのを適当にあしらっていたら、件の海図を奪い取られた。
取り返してほしそうにシャチは逃げる。子供みたいにへらへら笑う。
狭い部屋をどたばたと追いかけ回して、揉み合いの末に今はこうして何故かシャチが私の上に乗っかる形でいる(誠に不本意ながら)。
それにしてもこの男、やはり私の恋い焦がれるシャチには程遠い。
私が好きな方のシャチとは、獲物を捕らえた瞬間には鋭い牙で喰らいついている、そんな生物である。
しかし人間のシャチは、事故とはいえ女を押し倒しておきながら、呆けたように何も言えないでいる。
何か言いたそうにはしている。それでも、言わない。
押さえつけるように置かれた手のひらの下には私の手首があって、その頬をひっぱたいてやることもできない。
その手のひらがじわり、緊張と困惑で汗をかいている。

「ここからどうするつもりなの」

沈黙があまりに長く続く上に彼の視線が痛々しいほどに真っ直ぐであるから、耐えかねて声を掛けた。
その場から動かないということは何か望むことがあるのか、と思っての発言だった。
はっとしたように肩を揺らして、シャチはゆっくり言葉を反芻した。

「どうする、って」
「どうもしないなら、そろそろ退いてほしいんだけれど」
「…そうだよな」

曖昧に頷きながら、やはりシャチは退かない。
ぼやぼやした男である。
それでも殺し屋クジラか、と海洋生物の方の呼び名を引き合いに出して心中で毒づいた。
いろんなことを考えて憤慨する私とは正反対に、彼はぼんやりした様子だった。
じいっ、と穴が空くほどに見つめられてほんの少し、違和感が湧き上がる。
彼は、こんな顔をする人だったろうか。

「シャチ?」
「…うん」

何に対しての返事なのかも分からない。
シャチは普段と比べて信じられないほどに大人しかった。
その静寂が次の行動を読めなくさせていて戸惑った。
いつもなら、あんなに分かりやすく笑う男の真意が掴めない。
不意に、手首を縫い止めていない方の手のひらが下りてきて、無造作に頬を触っていく。
その触れ方がまた微妙なもので、何かを欲しがるようではなく、私の輪郭を確かめるような初めて見たものを調べるような、曖昧な感じをしていた。
照れ臭い感情など無かったけれど、無神経に手を伸ばされて黙っている理由もない。

「…なに」
「いや、あのさ」
「はっきりしなさいよ」
「う、ごめん」

私に叱られるとすぐに彼は謝る。
素直というべきか腰が低いというべきか、私の荒れる感情に従うならば後者になるだろう。
わずかに躊躇うような素振りを見せたあと、シャチは眉を下げながらも唇に笑みを乗せて囁いた。

「なまえが、きれいだなって」

こんな風に褒められることも、決して珍しいことではない。
報われないのに褒め言葉や愛の言葉を惜しみなく私へ囁くシャチは、なんだか飼い主に好かれたくて仕方ない犬のようだ。
ああ、またかと想像してから嘆く。
犬だなんて、獰猛なシャチからはあまりにかけ離れている。

「はいはい、ありがとう」
「…なまえってあんまりおれの話聞いてないよな」
「これでも聞いてる方よ」
「そうかな」

そうかなぁ、とシャチは繰り返して言った。
低い視界で辺りを見渡せば、紙の性質に従って丸まっている海図が床に転がっていた。
船長には今日中に仕上げろと言われているし、命令をした当の船長にこんな場面を見られればさすがに叱られてしまうだろう。
そろそろ気が済んだだろうと、彼の手のひらから抜け出した腕で肩を押し返す、が、びくともしない。

「シャチ、退いてよ」

こんな体勢で男の体重と力に敵うとも思えなかったが、抵抗せずにはいられない。
普段ならへらりとした笑みを浮かべている彼が表情を消してしまうと、サングラスに隠れた瞳も相俟って何も分からない。
妙な焦りが湧いてくる。
不意に影が落ちてきて、シャチがこちらを覗き込むように距離を詰めたのが分かった。
なまえ、と呼ばれて再度手首を握られる。先程のような偶然ではなく、意図的に。

「あのさ、なまえ。おれのこと、ちゃんと見えてんの?」
「は…」
「おれが好きって言っても、いつも真剣に聞いてくれないじゃん」

切なそうな声音に思考が停止する。
誰、だ。この男は。
シャチはいつだって笑っていて明るくて、悩みなんて一つも無さそうで。
けれど、今こうして私の手を子供みたいに握っている。
彼は私に好きというだけで満足なのだと思っていた。だって、笑っていたから。
どうして当たり前のことに気付かなかったのか。
この世に好きな相手に好きと言うだけで満足できる人間なんているはずがないのに。
ぎゅ、と手首を握る力がじれったそうに強まった。

「なあ、何とか言えよ」
「…私は分からない。シャチが何を欲しがっているかなんて」
「いっつもそれだもんな。…ずるいよなぁ」

力が抜けたような声で言うと、シャチが身を寄せてきて私の首筋にすり寄った。
柔らかくはねた髪が肌に当たってくすぐったい、けれど、普段のように突き放す気になれない。
現状に不満があるのだと、周りに微塵も感じさせなかったシャチの感情を隠す上手さを思うと何も言えなかった。
肌を掠める震えた吐息はまるで泣いているようで、握る力の弱い手のひらから逃げることはできても、私は拒絶することはしなかった。
矛盾している。今だけ甘やかしたって、彼が喜ぶかどうかも分からないのに。

「なまえ、好きだよ」

お決まりの愛の言葉を、ちっともらしくない調子で顔を埋めたシャチが囁く。
次いで、ちくっとした痛みに私は思わずシャチの手のひらを握りしめた。
首筋に噛みつかれたのだと、すぐに悟る。
跡が残るような力加減ではないけれど、信じられない気持ちで離れていくシャチを見つめた。

「…ごめん」

ふいと顔を背けたシャチは立ち上がると、落ちていた海図を机に拾い上げてから部屋を出て行ってしまった。
呆然としたまま、首筋を手のひらでなぞる。
何も跡は残ってはいないのに、ひりひりした熱が疼くようにその箇所にわだかまっている。

「なんで、シャチが謝るのよ」

ぽつりと呟いた言葉は静かな部屋に響くだけで、聞かせたい相手には届かない。
首筋を押さえたまま、ため息とともに目を閉じる。
瞼の裏を、黒と白で彩られた海洋生物の鋭い牙が過ぎったような気がした。


やわらかい君をいただきます


20131004


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