「…来ちゃった」

週末だから体はへとへとで、けれど帰りはいつもより早く明日は休みなのだから少し時間をかけて夕飯を作ろうか。そんな金曜日の夜に家を訪ねてきた男が言った。
その台詞は年相応の女の子がいじらしく恥じらう素振りを見せて言えばそれなりに可愛く見えると思うのだが、目の前に立っているのは暗い洞穴を思わせる虚ろな瞳をした洒脱な青年である。
なけなしの愛想でわずかに傾げられた首に可愛げは感じなくとも、どうしてか庇護欲が湧き上がるのは私が物好きだからか相手が計算高いからか。
お邪魔しますも何も言わずに、それきり無言でのそのそと我が家の敷居を跨ぐ男の背中を見つめてしまう。
ふらふらと無気力に歩く姿はソファーに一直線に向かい、ぼふんと倒れ込んだ。
仰向けに寝転がると、横目で私を見てしれっと言いやる。

「ご飯まだ?」

帰宅して着替えたばかりの仕事上がりの人間にそれを求めるのはなかなか酷ではないだろうか。
そうは口に出さずに冷蔵庫から解凍しておいた挽き肉を取り出す。
キッチンから見える彼は額に手を置いてぼんやり虚空を見つめていた。
相変わらず何を考えているのか分からない顔をしている。

「オムレツとハンバーグ、どっちがいい?」
「…ハンバーグ」
「時間かかるから玉ねぎ炒めないよ。いい?」
「……」
「ねえ」
「いい。そっちの方が好き」

一言一言を億劫そうに返す彼の声は気だるそうに低い。
しかし望まないものを作って残されても困るので、メニューに関してはきちんと詳細を尋ねることにしている。
不意に立ち上がった彼はキッチンの横を通り過ぎる際に、「シャワー浴びる。タオルどこ」と簡潔に呟いてそのまま風呂場に向かってしまった。
ちょうど干しておいたタオルを渡してあげると、無言のまま受け取って洗面所へと続く扉を閉められた。
それからは普段と変わらない、一人きりの空間で黙々と料理をする。
多めに作って明日の分にしようと思っていたハンバーグだが、挽き肉は彼のために全部使ってしまうことにした。
細身とはいえ、成人男性である彼はそれなりの量を食べる。
タネを作り終えたので使った器具を片手間に洗っていたら、早々と風呂から上がったらしい彼が、ラフな格好でドライヤー片手に歩いてきた。
ソファーに寄りかかるように座った彼の髪先からは、ぽたぽたと絶え間なく水滴が垂れている。
相変わらず、きちんと頭を拭いていないらしい。
床が濡れるなぁ、と思いはしたものの、何も言わない彼を横目に洗い物を続けていたら、「早く乾かしてよ」と若干だるそうに言われた。理不尽だ。

「いや、いま洗い物をしている最中で」
「はやく」
「…はいはい」

作業を途中で切り上げて、しっかり手を拭いてから彼のそばに膝立ちになった。
受け取ったドライヤーでごうごうと風を吹きつけると、鮮やかなオレンジ色の髪がふわふわ揺れた。
シャンプーのいい匂いを漂わせながら、温風にさらされて冷たいような温かいような感触の髪をゆっくり手櫛で梳いた。
後ろ姿しか見えないけれど、少し斜め下を向いているうなじを見ていると目を閉じている彼の姿が想像できた。
乾かし途中の何とも言えずさらさらな髪につられるように顔を近付けると、ちょうど彼がゆっくりこちらへ身を倒して寄りかかってきた。
腕の中に収まってしまった彼の、少し濡れた髪が頬をくすぐる。ドライヤーの風は何もない空間へ吐き出される。
髪を触られる感触で眠くなったのか、どこか甘えたな面を垣間見た気がする。
その後、結局言葉を交わさぬまま彼と食卓を囲んだ。
彼は美味いとも不味いとも言わなかったけれど、残すどころか作り置きにしておいたポテトサラダと即席のコーンスープに加えて、私のプリンまで平らげていたので良しとする。プリンはまた買ってこよう。
それから私もお風呂に入って、もちろん自分で髪を乾かして、先にベッドに寝転がっていた彼に仕方なく声をかけた。

「一緒には寝ないよ」
「俺は一緒に寝ようなんて言ってないじゃん。俺がベッドで寝たいからあんたがソファーで寝ればって話」
「家主は私なんですよ…」
「ベッドがいいの?じゃ、一緒に寝るしかないね」

無表情で淡々と論理的なようなそうでないような屁理屈を説いて、彼はくるりと私に背を向けた。
このやり取りは毎度のごとく繰り返しているけれど彼に退く気はないし、ソファーに追いやられて体を痛める気はこちらにもない。
すでに他人の体温があるベッドにいつまでも慣れない気持ちで潜り込めば、背中や肩は否応無しに彼と触れる形になる。
いつもならば明日は布団を干してから買い物に出掛けようだとか、何かと休日の予定を考えながら充実した気持ちで眠ることができるのに、それも適わない。
私の方が後に入浴を済ませたせいか、触れあった部分の肌は少し冷たく感じる。
そうでなくとも、彼は普段から低い体温をしているのだけれど。
落ち着かない気持ちで何度か体勢を変えても、眠気はなかなかやってこない。
こちらが寝付けないでいるのに、ずいぶん早い段階から背後に聞こえる寝息はいたって穏やかだ。
この存在を気にしなくてよくなるほどの睡魔がやってくるまで待つしかないのか、そう思った矢先に寝返りをした彼のせいでベッドが軋んだ。
こつんと肩に埋められた鼻先と首にあたる前髪がくすぐったい。規則的に吐き出される息が背中をかすめる。
私の服の裾を握って離さない彼にいろんな意味でこそばゆい気持ちになりながら、疲れ果ててため息を吐いた。
寄り添ってきた彼の頭をつい撫でやると、穏やかだった呼吸が不規則に乱れた。
起こさないようにあわてて手を離す。
何も知らず、何を気に掛けることもなく、彼は心地良く眠っているのだろう。




浅い眠りを何度か経て、ふと目を覚ますとベッドが広くなっていた。
休められていない気のする体を無理やり起こすと、上着を着てアクセサリーを身に付け、その身支度を終えたらしい彼がそばに立っていた。
こちらを見た瞳は昨夜に比べて柔らかく、ベッド脇にかがんだ彼はにっこり笑った。
朝の眠気がまだ残っている彼には、普段と見違えるほどに高揚した様子が見られることがあった。
私の憶測でしかないけれど、寝ぼけているうちは素と少しちがう一面が出ているのだと思う。
物静かで愛想など知らない彼と、陽気でしゃべり好きの彼と。
どちらか一方がいい、とは言い切れない。こういう時の彼は、大人しくて無愛想な時分より何を仕出かすか読めない節があるから。
表情ばかりがあどけなく、相も変わらず暗く淀んだ瞳を猫みたいに細めて、彼は言った。

「また来るよ」

呼ばれた名前とともに額に柔く当てられたのは、唇だったか吐息だったか。
ぐっと距離を詰めた彼はすぐに身を離し、どこか上機嫌な様子でひらひらと手を振ってから部屋を出て行った。
寝起きの重たい頭で、いつも通り何の痕跡も残さずいなくなってしまった彼の姿を思い返した。
「もう来なくていい」とは決して言い返せない私はもはや彼の飼い主のようで、彼のことを否定することも拒絶することもあきらめてしまっている。
他の人に同じことをしていたらやだなぁ、と思うくらいには絆されているのだ。
肌に残らない低めの体温がほんの少し、恋しい。


20130430
来週にはまた戸を叩く野良猫


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