男の手が私の頬を撫であげた。
こんなにもなめらかで冷ややかで、端正な作りの手のひらが、日常として血にまみれ、臓腑をえぐり、脳漿を散らし、骨を引きずり出しているのだ。
想像するに難くない光景に、私は背筋を震わせるどころかいっとうの安心感を得て目を閉じた。
手のひらに頬をこすりつけ、自らの手で彼が触れてきた肌を覆う。
いつ凶行に及ぶか知れぬ人物が、たとえ今だけの気まぐれや遊びが理由でも、こうして穏やかに触れてくるのならば。
私はそれを甘んじて受け止め、見合うような許容を態度で示すべきだろう。
絶対の安心感など、この世のどんな他人と居ても得られない。
ならば、相手が快楽殺人鬼の彼であろうと同じことである。
むしろ人として揺るがない軸を身に持つ彼は、そこら辺の有象無象より遥かに尊い存在に思える。

「神様を見るような目だ」

手のひらが与える感触と同等の穏やかさを持ちながら、どこか途方もない狂喜をも孕んでいるような声が耳を打つ。
一度閉じてからまた開いた視界で捉えた彼の瞳は常なる底知れない退屈に満ちていたが、そこに一筋の歓喜が光として射し込んでいるのも事実である。
私がひたりと宛がった手のひらのした、彼の指がつつと動き、私の瞼を愛おしげになぞった。
宝石でも見つめるかのような視線は熱を含み、彼が吐き出す息は陶酔に沈んでいた。
いまの彼を頭から爪先まで咀嚼し飲み込んだら、一口目から後味まで甘く甘くとろけそうなのではないだろうか。
馬鹿げた妄想が頭を過ぎるくらいには、彼の興奮と喜悦は瑞々しく、鮮烈に私へと晒されていた。

「あなたは私の神様にはなってくれないの」

「オレはねぇ、世間では悪魔と呼ばれる方の人種だよ?」

「構わないと私が望んだら?」

「んー、ちょっと考えさせて」

とても軽快に言葉を紡ぐ彼だが、そこに彼なりの思惑と哲学がきちんと潜んでいることは見て取れた。
特に宗教心や何かの信念への帰属意識はないゆえに、私自身は結果がどうでもいいような気分でいた。
貴重ではないかもしれないが、彼は明らかに希少な人物である。
少数派の一人。
大衆に溺れて生きている私とは一線を画し、ともすれば生涯に一度として謁する機会すら持てないような別世界の人。
望まれるなら、何かを差し出したっていい。
既に彼からは尊い手のひらを差し出され、柔らかく触れられている。

「神様、かぁ。オレが物語の書き手となったなら、きみは可愛く踊ってくれるかな?」

親指で目の下を軽く押しやり、見開かれた眼球を覗き込んで品定めするように彼はつぶやいた。
彼が注視してくる方の、左目でその姿を見つめ返した。
瀟洒でいて飄々とした身なり、目を奪われる鮮やかな橙色の髪、貼り付けたようによそよそしい笑顔、次々と唇から溢れる甘くて冷たい言葉の数々。
魅力、とはこの人のために作られた言葉のようである。
本当に神様と対峙したような気分を味わいながら、私は頬に宛てられた手の温度を感じていた。
じわりと身に染み込むような低温だった。

「私を欲しがってくれる人がいるなら、その人にすべてをあげようと思っていたの」

誰でもいい。
まだ幼い頃はそんな乱暴な考え方をしていた。
どんな人でも構わないから、私を必要としてくれる人に出会えたならば、この一身を捧げようと。
それから少し年齢を重ねれば分かることだった、誰でもいいはずがない。
ありふれた誰かでは、空虚も渇望も満たしてくれない。
この世の大半のことは、無造作に選び出した誰かが相手では成り立たないようなもので出来ているのだ。

「私は、あなたがいい」

彼を選ぶための十全たる理由は既に得ていた。
答えを待つように見上げていると、彼が引き結んでいた唇をほどき、一瞬その辺りの空気を緩ませた。
いまこの人は笑ったのだ。
どんな感情からかは窺い知れないが、細めた瞳に宿る冷たい光が消えないところを見ると、彼に見初められたような錯覚に陥ることができた。

「いいよ、オレのものにしてあげる」

どんな言葉より私を惹きつける誘惑だと思った。
所有権を引き渡し、支配下に置かれることへの安堵と脱力。
なんて心地がいい。
気分良く感じたのは私だけではないらしく、彼は空いた片手で私の髪をさらさらといじった。
小さい子どもがおもちゃに初めて触れて、その感触を確かめるような手つきである。

「あなたの名前は?」

「雨生龍之介」

「ずいぶんと仰々しい名前なのね」

「神様みたいだろ?」

子どものように声を弾ませる、彼はとても輝いていた。
優しく触れていた手のひらは私の腕をつかんで強く引き、立たされた私は先ほどより近い距離で彼を見つめた。
青年は無邪気に微笑むと私を連れるようにして歩き出した。
私の背後に広がる凄惨な風景には欠片ほどの興味も失くしてしまったらしい。
そうして冷たい手のひらに引かれ、終わりへ終わりへと向かって歩を進める。

20130418
××が死んだ日に神様に遭った


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