彼が底知れぬ昏い瞳をしていたのはいつからなのか。 記憶を辿ってみれば、それは出会った頃まで遡るだろう。 祖父の代から家族ぐるみで付き合いのあった雨生家と私の家族が美術館へ出掛けたのは、まだ彼と私が小学生の頃だった。 子供たちが豊かな感受性を幼い頃から培うことを良しとしていた両親たちは、美術展の絵画よりも互いの教育方針を話題に華を咲かせていたようである。 彼のお姉さんや私の兄弟は色鮮やかな風景画や花の絵にしか興味を持たないようで、先を行く彼らとはかなり早い段階ではぐれてしまった。 印象派のぼやけた色使いを昔から好んでいた私は、入口付近の展示でいつまでもまごついていた。 人の入れ替わりの激しいスペースで、ふと見かけたのは雨生家の男の子、雨生龍之介だった。 彼もまた入口付近で足を止めていたのは同じで、壁の端に当たる薄暗い一角で一枚の絵を前にじっと佇んでいた。 いくら家同士の付き合いがあるとはいえ、どんな時でも私たちは話し好きな母親たちの斜め後ろで会話が終わるまでぼんやりと立ち尽くすばかりが役目であり、仲がいいとは到底言えなかったし、話したこともろくにないのに互いの顔だけはしっかり覚えているという、奇妙な関係だった。 中間地点のソファーで話し込む両親たち、姿が見えない兄弟、自分よりいくらも年齢が高い美術展の客層。 そんな環境だったからこそ、気まぐれを起こしたのかもしれない。 私はそっと近付いていって、彼に声を掛ける前に一度絵画を見上げ、そのまま目を離せず絶句した。 子ども心におぞましい絵だと思った。 晩年、精神を病んだかつての巨匠が描いたそれは日本語で、『監視』と訳された一枚の男の絵であった。 色合いは毒々しいくらいに鮮やかで、背景を彩る黒はどこまでも暗く、印象派の淡い色使いの中では一段と浮いて見える。 うずくまり、顔を覆って泣いているらしい男の表情は窺えない。 絵の正面に当たるこちら側に背を向けた彼の、上半身裸の剥き出しになっている背中が一際異様な状態をしていた。 男の剥き出しの皮膚の大半を占める、異常なほど大きな目がその背中に付いていたのである。 気色悪いほどリアルな質感を持つ背中の目はぎょろりと正面を見据えていて、その瞳は明らかに憎悪や殺意といった恐ろしい感情を彷彿とさせた。 その目尻からだらだらと、鮮血が流れ出している様がますます見る者を不快にさせた。 画家がこの絵に込めた心情や周囲がつけたこの絵の価値は知る由もなかったが、生々しいほどに鮮烈に描かれた醜悪な絵に見入る人は少なかった。 雨生龍之介はおそらく、そんな絵に先ほどからずっと見入っていたのである。 想像したらぞっとして、私は完全に彼へ声を掛ける機会を見失った。 それなのに縫い付いたように足は動かず、ふと人の気配に振り返った雨生龍之介としっかり目が合った。 常に淀んでいる彼の瞳が、その時ばかりははっきりと自分を捉えたので、心底慄いた記憶がある。 「なに?」 「あ、…あの、龍之介くんはこの絵が好きなの?」 どうしてそんな、聞かずともいいことをわざわざ尋ねたのか。 自身でもその時分の正気を疑いたいくらいだったが、たぶん、訊かずにはいられなかったのだ。 今なら彼は私の質問に、無関心ではなく誠実に情熱的に答えてくれるのではないか、そんな風に意味もなく期待した。 最初の一言目を発してすぐに視線を絵画に戻していた彼は、やはり抑揚のない調子で言った。 「うん、好きかもしれない」 「そう…」 「特にあの色が綺麗だ」 彼が指差した先には、男の背中にある目の縁からあふれて背骨に沿ってつたう血の涙があった。 この絵の中で一番おぞましい部分を的確に指してくる彼の感性に、私はひやりとした。 こちらを見つめ返してくるような巨大な瞳を前に、射すくめられたように動けなくなる。 もしかしたら絵の瞳よりも、手前の暗く淀んだ瞳に私は怯えていたのかもしれない。 その双眸は何でも見通すかのように弧を描き、はじめて見たはずの彼の笑顔から目を離すことができなかった。 「そうだね、綺麗な色だね」 描かれた事物よりも色彩のみへと必死に意識を向けて絞り出した声は震えていたと思う。 慣れない嘘をついた自分はきっと滑稽なほど戸惑った顔をしていたんだろう。 それでも満足げに笑んだ雨生龍之介は、私へ手を伸ばしたのである。 何が関係のきっかけになるかなんて分からない。 その証拠に、私と龍之介の曖昧な関係はゆるゆると続いていた。 たまに彼の部屋で温度のない唇を重ね合わせたあと、決まって彼は私の首を絞めた。 たいていは戯れのように指を絡めたり手のひらを押し当てたりする程度だったが、一番ひどい時は意識が飛ぶまで力を込められたこともある。 意味のないキスと、慈しむように首を絞められること。 彼と交わすことはその二つだけだったが、違和感を覚えることはなかった。 そういう性癖なのだろうと決めつけて、何かを詮索することもしなかった。 私は彼を好いていたし、私の首に手のひらを当てている時だけはわずかに恍惚に歪む彼の口端を見ると安心した。 まだ必要とされている、そう勘違いに耽ることができた。 その頃から、私は首元を隠す服装ばかりをするようになった。 他人に手の跡を見られて、余計な疑念を抱かれることを恐れた。 龍之介の唯一のコミュニケーション方法を、私は尊重した。 それが彼の本来望むべきところではなく、今の今まで生ぬるい扱いをされていたことはついさっき知ったのだけれど。 「…あれぇ?吐いちゃった?もっとよく見てほしかったんだけどなー、俺の作品」 目の前で愛らしい笑みを見せる青年は、私の知る龍之介ではなかった。 人気のない廃墟に呼び出され、のこのこと彼について『工房』とやらに案内された私は陰惨たる光景に嘔吐を抑えられなかった。 子供の頃に見たあのおぞましい絵画の方がまだマシと思えるような、狂気、殺戮、人の命を弄んだ結果。 彼が感じるアートとは、恐ろしい方向へ成長していたらしい。 龍之介を見上げようとすると、かつて人だったモノが視界を掠め、再びぐるりと意識が吐き気に染められる。 頭を下げてえずく私をしゃがみこんで覗き込んだ龍之介は変わらず笑顔を崩さなかった。 楽しそうに目尻を緩ませる龍之介は確かに私が好きな彼であり、これほど高揚に満ちた表情を私ははじめて目にするのだった。 「名前、いい表情だね」 「…あ、」 「俺が知ってる中で一番可愛い顔だ」 吐瀉物にまみれた人の顔を見て何を言っているのか。 躊躇いなく私の顎をつかみ、ぐいと引き上げた手のひらにふらつきながら立ち上がった。 足元が、ぐらぐらと不安定に揺れる。 目の前の龍之介だけを注視していないと、周囲の惨状のせいでその場に崩れ落ちてしまいそうだった。 龍之介は私の体を片手で支え、顎をつかんでいた手のひらでやんわりと首を包んだ。 いつもの扱いにじんわりと安心感がにじみ出て、泣きそうになる自分はそろそろおかしくなっているのかもしれない。 私を見下ろしてにっこりと笑う龍之介は言った。 「なんで俺がこの場所へ名前を連れてきたかわかる?」 「し…知ら、ない」 「準備が整ったからだよ!」 唐突に上げられた大きな声に、体がびくりと揺れた。 興奮したように語ってみせる龍之介の瞳は今までにないくらい輝いていて、その手のひらがぐいと導くままに、再び人とは呼べないモノへ視線を向けさせられて、思わず強く目を瞑った。 嘔吐感に跳ねる喉を手のひらに感じ取ったはずなのに、彼は気付いていないらしく愛情をこめた瞳で作品を見つめていた。 陶酔したような視線は興奮を保ったまま、彼が語る。 「俺さー、気に入った女の子はお持ち帰りして殺しちゃうのが癖なんだけど」 「殺し…?」 「うん。でもなんか、名前を前にすると少しだけ惜しい気がして。これほど長い付き合いの子も他にいないし、首絞めるていどで今まで置いてきたわけ」 名前が苦しむ顔ってよくてさぁ、会った後はいつも二、三人殺しちゃったかな。 嬉しそうにこぼす龍之介が不意にこちらを振り返り、何とも言えない恐怖感が背筋を震わせた。 しかしその手は私の口元を静かに拭い、いつものように押しつけるだけの口付けをされる。 理解に苦しむ行動が相次いで、私は何も言い返せないまま龍之介の言葉を聞く。 「ねー名前さー…昔、美術展行ったの覚えてる?俺らの家族も一緒でさぁ」 覚えていないはずがない。 龍之介との出会いであり、私の人生が歪んだ道をたどり始めたその最初の日を忘れることは、死ぬまでないだろう。 首をつかまれた苦しい状態で何とかうなずくと、龍之介はため息混じりにつぶやいた。 「あの時、名前は綺麗な色だって絵を褒めたけど」 「……」 「嘘なんだろうなって、なんとなくわかってた」 「ご、めん」 「ん?ああいや、悪い気はしてないんだって。名前は俺を理解しようとしてくれたじゃん」 晴れやかな笑みを見せる龍之介には、少なからずほっとした。 その手のひらに引き寄せられて、低く冷めた声が耳を穿つまでは。 「まあ、無理だったみたいだけど」 固く冷たい床に引き倒された。 とっさについた手のひらはざらりと砂にまみれて薄汚れた床をすべる。 私の上に馬乗りになった龍之介は、先ほどの調子を感じさせないほどの満面の笑みに戻っていた。 むしろ冷めた声音を聞き慣れていて、性行為すら要求されずそばに置かれていた私としては今の状況が恐ろしい。 びくびくしながら見上げた先、龍之介は一瞬だけ困ったように眉を寄せた。 「何…するの、龍之介」 「言ったじゃん。準備が整ったんだよ」 「一体何の、」 「名前を一番綺麗にするための、って言ったら?喜んでくれる?」 龍之介は優しい優しい声をしていたが、頬を撫でていく手のひらには鳥肌が立った。 かつて、これほどまでに彼が大事そうに私へ触れたことがあっただろうか。 そんな覚えはない、ということはこれが最初で最後である。 最悪な想像が頭を過ぎり、私は悲鳴を漏らした。 「ひっ、い、嫌、やめて」 「大丈夫。俺ね、旦那と知り合ってから一段と上手くやれるようになったんだ!名前のことも、今なら満足のいく形で作品にできるから」 「やだ、離して…龍之介…」 「…かわいい、今すっごくかわいいよ。名前」 言っていることは理解できなくても、自分の身が危険に晒されていることだけはわかった。 彼が取り出した医療用のメスに似た器具を前に、いよいよ私は泣き出した。 顔を覆う手のひらの隙間から見えた龍之介は、とても嬉しそうに頬を赤らめた。 首なんて、いくらでも絞めてくれていい。 だからお願い、この悪夢のような状況を終わらせて。 私が絞り出した弱々しい声は、龍之介が笑顔で振り下ろしたメスでぶつんと途切れ、そこから何も分からなくなった。 20130325 全部愛してあげるからね |