阿鼻叫喚。
小さいながらも、教室の中には興奮と混乱の渦が巻き起こっていた。
クラスメイトの雨生くん。
下の名前は確か、かの文豪と同じ龍之介だっただろうか。
騒ぎの原因は彼の手首にあった。
そこからぼたぼたと、結構な量の血が絶えることなく流れ出ては床の染みがじわりじわり広がっていく。
女子に男子、果ては先生や保健委員までが落ち着きをなくして席を立ったり離れたり大声を上げたりと、美術室の中は狂乱に満ち満ちていた。
そんな中でも私が取り乱すことなく席に着いて膝に手を置き、向かい側に座る雨生くんを静かに見つめることができたのは何故か。
それは、見てしまったからだ。
手元を狂わせて自らの手首を彫刻刀で掠めた直後の雨生くんの表情を。
でなければ、私も阿鼻叫喚を構成するただの一人になっていたに違いない。

同じクラスだというのに彼の印象は薄い。
決して饒舌ではなく、その瞳はいつだって退屈を煮詰めたような色に濁っていた。
きちんと会話したことはないが、彼自身の人付き合いが悪いわけではない。
そこそこに、ほどほどに交友関係は広いようだった。
広くて、それでいて薄い人間関係。
浅いというよりも薄いと表す方が、ぼんやりとして希薄を思わせる空気を纏う彼にはより似合っている気がした。
無気力や虚無というものにほど近い表情をしていながら、彼は決して腑抜けた人間のような何も持たない抜け殻ではない。
彼が声を荒らげたり怒りを露わにしたり、また涙を流したりといった姿は一度も目にしたことがない。
なのに、彼は無関心と相反する激情を、見せようと思えば見せられる人のような気がしていた。
周りの他人が目にしていないだけで本当は誰よりも人間らしい一面もあるのだと、茫洋とした暗闇を思わせる彼の瞳に、どうしてか確信めいたものを感じていた。
不自然なほど力を抜いた自然体。
彼は常にそんな風体で世界を傍観していた。

何故、ほとんど交流が皆無に等しい一クラスメイトに対して私がこれほどの考察を持っているのか。
それは私の趣味が人間観察と呼ばれるものに酷似する類だったからだ。
何か引っ掛かると感じた人物を対象と定め、一定期間その人物像を調べ上げ、余すところなく徹底的に注意を払って観察を行う。
何を考え何を感じ、何に対して歓喜して、何を原因に慟哭するのか。
凡人のクラスメイト相手では期待するほどの感情の起伏を見れないことも多かったが、何にせよ観察をして情報を得るたび私は充足感に満たされた。
たとえ正しい方法でなくとも歪んだ形であろうとも、自分は対象への理解を強いられる。
理解とは許容だ。同情だ。慈愛だ。
そして何にも替え難い人間への知識になる。
自分が「理解をした」人間を少しずつ増やすことによって、優しくなれた気がした。
相手のことを知り尽くしている、ならば相手の何かに憤ることはなくなる。
理解とはそういうことだ。
私は優しくあろうとした。
憤怒、寂寥、後悔、嫌悪、嫉妬、憎悪、おぞましく醜い感情は持たないのが一番いい。
人が人を譲歩し許すことで、世界は回っているのだから。
「理解」をすれば、それらの感情は驚くほど楽に捨てられた。
一定の期間を終えて他に観察対象を移しても、以前の対象への興味は失われない。
不思議なことに、その興味は愛情へと変質する。
どれほど醜悪な人格であっても受け入れて理解を示せば可愛いものだった。
私は観察対象を地道に増やしては、私なりの優しい世界を造り上げていた。
そうすることで、安寧と平穏を容易く手にできた。
何もかも予定通りだった。

雨生くんは今年にクラス替えをしてから最初の観察対象だった。
異質であり風変わりである人間を先んじて観察するのは癖のようなものだ。
平凡な人格は後回しにしても気が疲れない。
対象が変質的であるほど、観察に掛ける時間も細心の注意を払うことで費やす神経も割合が大きくなる。
雨生くん相手には手こずったからよく覚えている。
一見しただけでは特におかしな点も見当たらない普通の人格。
しかし不気味なほどに冷めた態度と物怖じしない瞳。
だから真っ先に観察を始めることにしたのだ。
矛盾と虚構が入り混じる彼の在りようは少し恐ろしかった。
順番を優先するにはその理由が揃いすぎているくらいだった。
そして結論から言うと、彼には最後まで理解できる面がほとんど存在しなかった。
私の得手不得手や好き嫌いによる影響からの結果ではない。
変わり者と呼ぶには度が過ぎている彼が相手では、その親兄弟すら真の理解は得られないのではないか。
そんなことまで考えた。

長い長い私の回想は、しかし現実にはそこまでの時間を要さなかったらしい。
雨生くんはまだ向かい側に座っていて、その手から血を滴らせている。
ようやく監督の先生が彼の肩に手を置いて話し掛けている。
とりあえず保健室に向かいなさい、人を付けるから。
そのような旨を伝えたはずが、雨生くんは教師に触れられていることすら認識できていないようだった。
彼の目は自らの傷に釘付けになっていて、よほど痛みに鈍感な人間でないならば怪我をした際にその反応は当たり前だっただろう。
しかし、何となく「理解」できた。
普段なら薄暗いだけで底がない雨生くんの瞳には光が宿っていた。
確かに存在する感動と興奮。
雨生くんの瞳は生きていて、恐ろしいほどに美しかった。
その鮮烈な感情の躍動に、私まで感動を覚える。
やはり彼は無関心と相反する激情をその内に秘めたる人物だったのだ、と。

反応のない雨生くんが自身の怪我に相当のショックを受けていると勘違いした教師が私に目を留めた。
この状況に怯えるでもなく落ち着き払っている唯一の生徒。
その異様さに気付くことなく都合が良いと判断したらしく、私は雨生くんの付き添いをするよう頼まれた。
願ってもやまないことだ。
素直に言われるまま立ち上がって雨生くんの脇まで歩いていくと、なるほど出血量は派手に見えるが致命傷ではないようだ。
これなら保健室で治療が事足りるだろう。
先生が半ば強引に席を立ち上がらせた際、雨生くんは未だ左手を掻っ切った彫刻刀を右手に固く握りしめていた。
それに気付いた教師がやはり力任せに危険だと取り上げて、そこでようやく雨生くんは意識がはっきりしたらしい。
夢遊から現実に急に引き戻されたような顔で、一瞬きょとんとしたあとに真っ赤な血に「うわ」と声を漏らしていた。
唖然としたような彼を保健室に行くように促す。
正直、私と雨生くんの感動に水を差した上に、問題を大きくしたくない一心で尚も口うるさい教師が鬱陶しくて仕方なかった。

煩雑とした教室内に反して廊下はしんと静まり返っていた。
授業中なのだから当たり前かと一人ごちて歩き出す。
彼の容態を心配するような一言も口にしないのは不自然かと思いかけたが、どこか機嫌良く見える雨生くんに追い越され杞憂だと知る。
先を歩く彼の腕から乾き始めてはいるものの、今も垂れる血が廊下に線を描き、後々さらに騒ぎを大きくしそうだと思ったのは言わないでおく。
ただ一つ、ぽつりと。

「すごいね、その傷」

雨生くんがぴたり、足を止めた。
私を振り返った瞳は子供のようにあどけなく、口も無防備に半開きだった。
それまで気にも掛けていなかったのが、唐突に親友の契りを交わしたかのように、雨生くんは弾むような足取りで私との距離を詰めた。
にんまりと彼の唇が満足そうに弧を描く。

「な!すっげーよな!これ」

同志を得たと言わんばかりの情熱と歓喜に私は再び目を見張る。
雨生くんは今、こんなにも感情豊かだ。
ここまで人間らしく生き生きとした彼の表情をどれだけの人間が知っているだろう。
背筋がぞくりとする。
今まさに染み込むように、彼への「理解」が鮮やかに更新されていくのが心地良かった。
雨生龍之介は、こんな顔で笑うのだ。

「俺ってば健康優良児だからさ、今まで大きな怪我ってなかったんだよね」

訊かれたわけでもないのに語り始めた雨生くんは軽快なステップを踏むように、笑顔を貼りつけたまま歩く。
腕を振るものだから、乾いて黒ずみ始めた血の上をまた鮮血が走る。
痛覚など忘れてしまっている様子だ。
歌でも歌い出しそうな彼を目の前に私も嬉しくなる。

「知らなかった、知らなかった!俺びっくりしちゃったよ。世界にはこんなにも美しい色がある!」

それで、あんたはどう思う?
狐のように細められた瞳に問われた気がして、踊るのをやめて立ち止まった雨生くんと向き合った。
怖がるのが道理かもしれない。
気味が悪いと顔をしかめるのが正常かもしれない。
けれど、今の私の高揚にそれらは必要なかった。
いや、正しくは持ち合わせてすらいなかったのだ。
道理も常識も、とうの昔に捨て去った。

「私も、すごく綺麗だと思うよ」

きっと私は満面の笑みをしていたことだろう。
予想外だったのか、雨生くんは暫し黙したあと破顔した。
その笑みは変わらず喜びに満ちている。
あの教室に満ちていた阿鼻叫喚とは性質をまったく違える表情、なのに狂乱を思い起こさせるから奇妙なものだ。
惜しげもなく笑顔を振りまき、握手をしかねない勢いで雨生くんが声を上げた。

「ブラボーだ!」








課題が彫刻だというのに彼が何者かの血を使った絵を提出し、再び教室を混乱と恐怖に陥らせたのはその一週間後だった。

20120131~0202
雨生龍之介の生まれた瞬間
おめでとう龍之介


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