! 高校生
! モラルがない

雨生くんがカラオケで受付の手続きをしている間、私は入り口付近でずっと俯いた顔を上げられずにいた。フリータイム飲み放題付きで、という声が聞こえてきて、すぐに耳から抜けていく。私は、どうしてこんな場所にいるんだっけ。

「ほら、名字さん。行こっか。512号室だって」

気付いたら、伝票をプラプラと揺らして、目の前に雨生くんが立っていた。微動だにしない私を見かねて、彼は私の手首を握り、引っ張って歩き始める。手のひらを掴まれないあたり、私たちの距離感と関係性がよく分かる。私の恋心はさておき、雨生くんにとっての私は只のクラスメイトに他ならない。
部屋は薄暗く、少し煙草臭かった。画面の横の機械を雨生くんがいじり、音量が引き絞られていくのを、私はソファに腰掛けてぼんやり眺めていた。そう、私たちは何もカラオケへ歌いに来たわけではないのだ。人が無音で喋ったり歌ったりするだけの画面は少し間抜けで、隣室からはこもった騒ぎ声やメロディーが漏れ聞こえてくる。雨生くんは私を振り返ると、学生鞄を椅子に放り投げて言った。

「あー、飲み物何がいい?俺取ってくるから」

彼が部屋を出て行こうとするのを、声も出ないままに咄嗟に引き止めてしまった。私が指先で掴んだワイシャツの裾を、無感情な瞳で見下ろして、雨生くんはため息を吐いた。

「だから言ったじゃん。俺の後つけたりしてもいいことないよ、って」

言うなり、雨生くんは私から少し間を空けて、ソファに座った。その振動に、思わず肩が震える。私の動揺を見逃さなかったらしく、雨生くんは性格の悪い張り付けたような笑みを浮かべた。

「そんなに怖かったんだ?襲われたの」

私はその言葉に、呼吸を乱されたように感じた。膝の上でぎゅっと手のひらを握ると、スカートの裾がつられてわずかに持ち上がった。膝に冷房が当たってスースーする。
雨生くんに告白をしたのは少し前の話になる。彼はあっけらかんと「でも、俺そういうの興味ないんだよねぇ」と私の告白を断った。そういうの、というのが何を指すのかよく分からないまま、私は失恋した。よく分かっていないのに、「そうなんだ、ごめん」とその場を終わらせたのが良くなかった。
とどのつまり、私は彼の返答に納得していなくて、付き合っている女の子でもいるのかと、彼の周辺を詮索した。彼が下校する帰り道をこっそり尾行もした。自分が異常な行動をしていることはなんとなく理解していた。これはストーカーというやつでは、と我に返りそうになったことも何度かあった。ただ、私は教室にいる雨生くんが、誰かと話していてもどこか無気力で、作り物みたいな笑顔の所在を知りたくて、彼に惹かれていったのだ。だから、雨生龍之介という人間の得体の知れなさをいつでも気にしてしまっていて、彼に恋心を打ち明けようが、彼の表面には何の揺らぎもなかったことにおそらく、ショックを受けた。彼のことを少しでもいいから、知りたかった。これは、只の言い訳に過ぎないけれど。
彼が下校中に立ち寄る場所は、お世辞にも治安がいいとは言い難く、汚い裏路地や怪しい繁華街などを当てもなくふらふら歩いていることが多かった。私はおっかなびっくり彼の後をついて行って、ある日尾行に気付いて待ち受けていた彼に言われたことがある。俺の後つけたりしても、いいことないよ。それは気遣いでも忠告でもなく、只の彼の感想に過ぎなかった。
彼が相変わらず無感情だったことで、余計にムキになったのだと思う。私は懲りずに彼の後をこそこそとついて行って、それで。見知らぬおじさんに声を掛けられて、暗い路地に引っ張り込まれそうになったのがつい数十分前の話。

「…なんでナイフなんか持ってるの」

ようやく声が出た。
そうだ。私が恐怖から言葉にもならない悲鳴を上げて、年が親ほども離れた男から逃げようともがいていたら、雨生くんが立っていたのだ。雨生くんは財布を取り出すような軽い仕草でポケットをまさぐり、折り畳まれた何かを取り出した。彼がそれを開くとパチン、と音がする。夕焼けの光の中でそれは銀色に鈍く光っていた。私にのしかかる男に後ろからナイフを突きつけて、雨生くんは言った。刺されたくなかったら失せろよ。
逃げ出した男を呆然と見送る私を立ち上がらせて、雨生くんはこのカラオケまで私を連れてきたのだった。結果的に助けられたけれど、彼に善意や好意はないのだろうと、ナイフの銀色を思い出しながら、私は考えていた。
私が顔を上げると、ごくつまらなそうな顔をした雨生くんがいた。あ、まずいかもしれない。私がナイフについての話題に触れたことに、彼は苛立ちを見せていた。どうしてそんな無駄で意味のない、野暮なことを訊くのか。視線が私を責めているようで、私は彼から離れた位置に座り直そうとする。
私の手首を、雨生くんが握った。さっきと違って、力は強く少し痛かった。男に襲われた瞬間を思い出し、私は肌が粟立つのを感じた。吐き気を覚える。

「やだ、雨生くん、はなして」
「でかい声出すなよ」

雨生くんはちらりとドアのガラスへ目を向けたあと、人影がないのを確かめてからぐいと顔を近づけてきた。目に痛いオレンジ色の頭髪がさらりと揺れて、私の視界を染め上げる。

「やめて、やだッ…」
「黙って」

彼に口を塞がれて、息が止まる心地だった。雨生くんの舌が、爬虫類みたいに私の唇を舐める。好きな人とのキスのはずなのに、私は目からポロポロと涙があふれて止まらなかった。時間はごくわずかだったと思う。私から離れた雨生くんが、彼の頬についてしまった涙の滴を拭って立ち上がる。

「…飲み物、取ってくんね」

ドアを開けて、こちらを振り返り笑う、雨生くんを黙って見上げた。歪に細められた彼の瞳を見て、今こそ彼は本当に笑っているのだと悟り、私は返事もできなかった。

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