「あはは!今日、風強いね」

子どものような笑い声に、私は筆で絵の具を乗せていたスケッチブックから視線を上げた。いつの間に乗り越えたのか、屋上の鉄柵の向こう側に雨生くんが立っていた。下から吹き上げてくる強い風に、彼の鮮やかなオレンジの頭髪がふわふわと揺れている。
まるで自分には翼があって、うっかり足を滑らせても平気であるかのような振る舞いだった。私は一度だけ、雨生くんが地面まで落下する場面を脳内で鮮明に思い描いてから、スケッチに集中したいところへ水を差されたような気持ちで声を掛ける。

「雨生くん、そこから落ちないでよ。たまたま一緒にいた私が、突き落としたみたいに疑われたら嫌だから」
「名字が? ないない! そんな度胸ないから、疑われたりしないって」

美術部じゃないのに美術室によくいる、変なひと。雨生くんの印象はそれに尽きる。本人は美術部顧問の先生と仲が良いから、なんて言っていたけれど、雨生くんと先生がふたりで話しているところは見たことがない。部活には所属していないはずだが、美術準備室の床や机の上で居眠りをして授業をサボるようなひとだ。初めて彼を美術準備室で見たときは、人が倒れているのかと思って悲鳴をあげたものだ。
私の悲鳴で眠りを妨げられた雨生くんは、最初こそ不機嫌そうな眼差しをしていたが、すぐに人懐っこそうな笑顔に変わってこんなふうに言った。

「いい声だね。君を楽器にしたら、素敵な音色になりそうだ」

その言葉の意味を、深く考えたことはない。けれども、その日から雨生くんは美術準備室で寝ているばかりではなくて、私の行く先々についてくることがあった。仲良くなったわけじゃない。特に会話が弾むわけでもない。それでも、私がスケッチをしている視界の端には、嫌でも目に付くオレンジ色の髪をした彼が、猫みたいに自由気ままに過ごしていた。
雨生くんはぼんやりしていて、なんとなく危なっかしくて、でも誰より世界に飽き飽きしているような空気を持つひとだった。私に対して、見透かしたようなことを言うことも多かった。まだ私たちは出会って日も浅いのに、私という人間の程度を知っているかのような口ぶりで話す。さっきの発言だってそうだ。根拠なく、度胸がないと言われて少し腹が立つ。
せっかく綺麗な青空の風景を描こうとしていたけれど、スケッチブックを脇に置いた。屋上をぐるっと囲んだ鉄柵に歩み寄っていくと、私の視界の中で一番鮮やかな色彩をした彼の姿がだんだん大きくなる。雨生くんの視線を感じながら鉄柵に足を掛けて登ると、思ったより簡単に彼と同じ場所に立ててしまった。

「度胸なくないよ」
「あっそ」

隣に並んだ雨生くんに反論したものの、返ってきたのは冷めたようなせせら笑いだった。たしかに彼の言う通り、今日は風が強かった。私は制服のスカートの裾を押さえるのと、鉄柵に掴まる必要があるから余裕がない。屋上の端っこに立ってみても、怖い思いをするだけで楽しいことなんかひとつもない。やっぱり雨生くんは変なひとだ。

「ねえ。俺がひとりでここから落っこちるよりも、もっと騒がれる方法を教えてあげようか」

ひたり、と雨生くんの手のひらが、鉄柵を掴んでいた私の手首を握る。冷たくて、蛇の舌みたいな印象を抱かせる手のひらだ。その感触にぞわりとしながら視線を持ち上げると、雨生くんはいつもと変わらない笑顔をしていた。

「俺たちがふたり揃ってここから落ちたら、心中だなんだって有ること無いこと、好き勝手に噂されるよ。学校中がその話題で持ちきりだ」

心中などという仰々しい言葉を使っていながら、雨生くんの瞳に興味や好奇心が宿っていないことはわかる。この手を振り払わないのは、はずみで私か彼が落ちてしまったら困るから。それだけだ。

「……それって、雨生くんにとっては面白いことなの?」
「いいや? くだらないことだよな」

ここから落ちることがないように、私は屋上の鉄柵に掴まっている。それと同じだと思った。私の手首を命綱みたいに握りしめたまま、雨生くんは笑って言った。

「早く大人になりたい」

高校を卒業してから、雨生くんの行方は知らない。けれど、どうせ好き勝手に気ままにやっていることだろう。度胸のない私とは違って、彼は退屈さを紛らわせるために何でもしてしまいそうな危うい雰囲気があったから。大学の帰り道に、街頭のテレビジョンの画面に映る「冬木市連続殺人事件」の文字がなんとなく目に付いた。

「物騒だなぁ」

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