名字名前のことは知っていた。 高校に入って同じクラスになった、人よりわずかに物言いがはっきりしている平均的な女子生徒。 そんな彼女は、僕と行動を共にする山口にたびたび話し掛けていた。 二人の口振りから知り合いであることは予想がついていたから軽い話題提供のつもりで、ある日山口に訊いてみた。 「名字さんと知り合い?」 「う、えーと………幼なじみ」 普段はよく喋る山口がやけに溜めてから言葉にしたため、なんとなく微妙な関係なんだろうと察しがついた。 特に興味もなかったから、「ああ、そう」とだけ返せば、山口は安心したようにあれこれと別の話を続けた。 クラスメイトの奴らの中には、「幼なじみ」という言葉ひとつからあることないこと騒いで囃し立てるような輩がいるんだろう。 僕はそういうのを馬鹿馬鹿しいと思っていたので、深く聞き出すこともしなかった。 山口自身の心情はともかくとして、名字さんはめげずによく山口に会いにきた。 その様子を傍から見て、ああこの子は山口と仲良くしたいんだろうな、以前と違う関係が寂しいんだろうな、と考えた。 大概が会話の不成立になるため、少ししょげたように去っていく名字さんを見ても最初は何とも思わなかった。 そして、名字さんを追い払った山口も毎回冴えない顔をしていることに気付くのに時間は掛からなかった。 彼だって、周りの反応さえなければ幼なじみと普通に接したいのではないか。 邪険にするのは本意ではないという顔をするから、そんなことまで考えるようになった。 両片思いってやつなんだろうか。 僕にしてはらしくもなく、お節介で下世話な予想に行き着いたのは、幼なじみという関係の二人が会話をするたび小動物みたく落ち込んでいたせいだと思いたい。 言いたいことは言えばいいのに。 そう思ったけれど、僕と二人では価値観が違うし、男女の差もある。 何より、そういう込み入った事情に割り込んでいくのは心底面倒臭いことだ。 なんだかもどかしい関係だなと内心で思うだけに留めて、それらの考えを口に出したことはない。 転機は、名字さんの落とし物を拾った時だったと思う。 部室の扉を開けたら廊下にまっさらで綺麗なタオルが落ちていて、これはたった今誰かが落としたものではないのかと、何気なく辺りを見渡した。 すると、廊下の先をよろよろ歩く名字さんを見つけた。 荷物が多すぎて前方を窺うこともままならない様子を見て、すぐに彼女の物だろうと予想がついた。 別に放っておいても良かった。 彼女は顔見知りでも何でもないただのクラスメイトで、僕とは山口という共通の友人がいることくらいしか接点がない。 それでも気まぐれを起こしてしまったのは、一生懸命に歩く姿と、教室で見かける寂しそうな後ろ姿を重ねたからだろう。 「名字さん」 そうして、初めて彼女の名前を口にした。 初めて話し掛けたというのに、彼女は当たり前のように振り向いて、当たり前のように僕に笑いかけた。 憂いの表情ばかりを傍から眺めてきたせいか、名字さんの笑顔は新鮮で眩しく映った。 そのことが妙にくすぐったく、さっさと体育館に向かおうとしたら思いがけなく彼女に呼び止められて。 礼を言った挙げ句に僕を「いい人」だなんて形容するから、きっと変な顔をしてしまっていただろう。 「月島くんはいい人だね」 いい人?誰が?この僕が? こんなのは気まぐれだ、とか。 別に君に優しくしたわけじゃない、とか。 いくらでも言い返すことはできたはずなのに、どれも喉がつっかえて言葉にはならなかった。 人のことをかき乱しておいて、あっさりいなくなった名字さんに翌日からちょっかいを出してしまった理由は自分でも判然としない。 たぶん、いろんなことを認めたくなかったんだ。 初めて他人から「いい人」だなんて不名誉な言葉をもらったことも、名字さんの笑顔がやけに頭に浮かんで離れなかったことも。 彼女に意地悪をして、とことん嫌われて「いい人」だなんて二度と言えないようにしてやろうと思っていた。 あわよくばこっちを見てほしかった、という深層心理は気のせいだと決めつけて。 そうして無意識に抑え込んでいたせいか、僕の本心は一番厄介な形で外に出た。 名字さんに余計なことをべらべらと喋って、醜態を晒した。 素直に言えばいいものを、遠回しな言い方をしたせいで正しく伝わったかどうかも分からない。 それが昨日のこと。 今は、とても後悔している。 「…山口と仲良くなりたい子が、僕に見向きもしないのは当たり前じゃないか」 だって僕はあいつじゃない。 自室のベッドで仰向けに横たわった口から出た声はなんだか掠れていた。 感情に任せて、結果的に二人の関係を邪魔するような発言をした自分はなんて打算的なのだろう。 何よりもやもやしたのは、名字さんが僕の気持ちを否定しなかったことだ。 今までのことを許す、と彼女は言った。 僕はその言葉をどう受け止めればいいんだ。 嫌われたくて、本当は好かれたかったはずで、彼女の一言にこんなにも翻弄されている。 認めたくない、認めたくない、認めたくない。 意味もなく唸っていると、着信音とともに枕元のスマートフォンが震えた。 普段なら見覚えのない番号は無視するはずなのに、即座に出てしまったのは気まぐれと自暴自棄な気持ちが半々だったせいだ。 「…はい」 「こんばんは、名字です」 「……は?」 「たっちゃんと同じ反応しないでよ」 涼やかな声は鼓膜を通してすうっと頭に染み渡り、僕の思考を鈍らせた。 名乗った名字と、一人の女の子しか口にしない山口の愛称は、彼女が何者なのかを十二分に伝えてくれた。 問題は、僕に名字さんと話す準備ができていないということだけだ。 「名字さんが、僕に何の用?」 「機嫌悪いね。もしかして起こしちゃった?」 「質問を質問で返さないでよ。いいから、用件は」 いつもの落ち着いた調子を取り戻そうとすると、どうしてもぶっきらぼうな口調になる。 名字さんはそんなことに構う様子はなく、とても明朗に話す。 もともとはっきりした喋り方をする人だったけれど、今日は特に吹っ切れたような声色をしている。 一人きりの自室で彼女の些細な変化にも気付いてしまって、好きな子から電話をもらったという事実がじわりじわりと僕を苛む。 この部屋、こんなに暑かったっけ。 「用件、言うよ。まずは、月島くんの言う通りだった」 「何が」 「月島くんがきっかけを作ってくれてるって話。あなたがきっかけになって、たっちゃんといい感じに話せたの」 「…そう。それ、別に僕に報告しなくていいから。切るよ」 「月島くん」 またいつもの、山口の話。 こんな気分でそんな話題を聞いたらまた余計なことを言いそうだったから、僕は会話を切り上げようとした。 電話を切る操作をしようとした僕を、名字さんの透き通った声が止める。 「切らないで。最後まで、私の話を聞いて」 言葉は丁寧なのに、懇願ではなく命令に聞こえるところが彼女らしい。 僕は黙って彼女の言葉を待ち、名字さんはそれを了承と受け取ったらしい。 「やっぱり私は月島くんのこと、好きじゃない」 「…そう」 なんだか昨日の「嫌い」よりグサッときたのは何故だろう。 直接顔を見て話しているわけでもなく、自分の部屋というパーソナルスペースで名字さんの声を聞いているからだろうか。 僕の方こそ、と言い返すことすらできなかった。 「でも、嫌いでもないと思う。これが私の出した結論」 「何それ。どういう意味?」 「月島くんのことは、これから好きになろうと思います」 「…好きって、何」 「そのままの意味。じゃあ伝えたからね。おやすみなさい」 「ちょっと、……切れてるし」 問い質そうとした時にはすでにツーツー、と空しい音しか聞こえなくなっていた。 人には切るなと言っておいて、なんて勝手な奴なんだ。 困惑とイライラを溜め込んだ結果、僕はその捌け口として山口に電話を掛けていた。 「名字さんから電話掛かってきたんだけど」 「あ、話せた?良かった!」 「…番号教えたのはお前か」 「え?あっごめん!でも名前が、知りたいって言ったから。ホントごめん!」 山口はなんだかんだ僕の扱いを分かっている気がする。 そんな風に言われると責める気が失せるどころか、少し嬉しいとさえ思ってしまった。 名字さんは僕と話すと決めて、番号を聞いてくれたのか。 じわりと熱いような気がする頬に手のひらをやる。 黙り込んだ僕に、山口はおそるおそる話しかけてきた。 「どんなこと、話せた?」 「…よくわかんないよ。嫌いじゃないとか、好きになるとか、普通口で言う?名字さんって、ホントめんどくさい」 僕がそう言うと、電話の向こうで山口が笑いを堪える気配があった。 さすがにむっとして、声を低める。 「なに」 「いや、ごめん。ツッキーも名前と同じこと言うんだな、と思って」 僕はその時、山口がおかしそうに笑う理由がわからなかった。 ただ、楽しそうに穏やかに山口が言うのなら、それは別に悪いことではないのだろうなと予想ができた。 けれど、「明日直接名前と話してみるといいよ!あ、ちょっかいは出さずに!」という言葉を最後に一方的に電話を切ったことは許さない。 明日山口を責めてやろうと思った。 20140419~0512 (オシロイバナに夢見る) |