こんなふうにイラつくのは日向と影山との対戦以来だ。
いや、もしかしたらあの時以上かもしれない。

放課後の決まった時間、一度時計を見てから部室の扉を開けた。
バレー部の部室前を通りすがる女子の集団、その中でも最後尾のひときわ小さな姿を目に留める。
テニスラケットを大事そうに抱える彼女のポニーテールへ後ろから手を伸ばす。
シュシュに指先を引っ掛けた時に彼女がようやく振り向いたけれど、もう遅い。
彼女がこちらへ体ごと向き直る前に、すでに抜き取った髪留めは手の中にあった。
わずかに指先に触れたなめらかな髪の感触に妙な胸騒ぎを感じながらも表面には出さないようにして、ほどけた長い髪を押さえてこちらを睨む彼女を見下ろす。

「隙あり〜。学習しないね。バカなの?」
「…月島くん。それ、返して」
「やだ」

片手で髪を梳くようにしながら、もう一方の手を差し出してくる彼女に即答する。
相手の眉間のしわが深くなると同時に、自分の笑みが深くなるのがわかる。
このやり取りは決して初めてではない。
むしろ、ここしばらく毎日行われていると思う。
それなのに避けることも気付くこともできない彼女のぐずっぷりが見ていて楽しいのだ。
こちらの笑顔を見て気を悪くしたらしい彼女はため息を一つ吐くと、手首から別のシュシュを抜き取った。
どうして女テニって髪留めを腕に付けたがるんだろう。
そのまま僕に見向きもしないまま、彼女はバレー部の部室に向かって呼びかけた。

「たっちゃん、髪結んで!」
「えーっ!またかよ〜」

中にいた山口が、呼ばれて嫌そうな顔をする。
あの顔は、あれだ。
年頃の男子が昔から付き合いのある女子に絡まれて、鬱陶しいような恥ずかしいような思いをしている顔だ。
部室に踏み込むことさえしないが入口付近で大声を出す名字さんに、山口が辟易した様子で出てきた。
その際に部員や僕からの視線を確認することを忘れないあたり、山口の性格がよく表れている。

「名前、あんまり大きな声出すなよっ。みんな見てるだろ!」
「いいじゃない、別に」
「良くないから言ってんの!…髪くらい自分でやれって」
「自分でやると左に寄って不格好になるの。ほら部活に遅刻しちゃう、早く!」
「しょーがないなあ、もう」

このやり取りもお約束だ。
だいたい強気な名字さんに世話焼きな山口がすぐ折れる。
そこからはもう慣れた手つきで彼女の髪を手に取る山口と、どこか嬉しそうにする名字さんがいるだけなので何も面白くない。
最初に髪留めを奪ってから名字さんが僕に反抗的な目を向けてくるまでは楽しいというのに、後半はいつもイライラする羽目になる。
二人のことをじっとりと眺めていると、日向がそわそわしながら部室から出てきた。

「なあなあ、月島っ」
「…なに」
「山口とあのコ、仲良しだな!」
「そりゃ仲いいに決まってるでしょ。あの二人、付き合いの長い幼なじみだし」

どうしてか楽しそうに話す日向に舌打ちをしたい気分になる。
あの二人が仲良しで幼なじみだからって、僕からしたら何一つ面白いことなんてない。
山口は名字さんの髪を結び終えたらしく、彼女は手を振って去ろうとしているところだった。
後ろ姿をじっと眺めてみたけれど、彼女はこちらに一瞥もくれやしない。
あれだけ分かりやすく意地悪しているんだから、もっと敵対心を持ってくれていいのに。

「へえ〜、幼なじみ…。いいなぁ、付き合っちゃったりすんのかな!?」
「勝手に妄想して勝手に盛り上がんのやめてくんない。うざいから」
「なっ、なんだよ!なんでそんなに機嫌悪いワケ!?」

きらきらした瞳を見せる日向が本格的に鬱陶しく思えたので、そこで話を切り上げた。
彼女に手を振り返すでもなく、あいまいな笑みを浮かべて突っ立っていた山口に右手を差し出す。
指先には彼女のシュシュが引っ掛かったままだった。

「山口。これ、名字さんに返しといて。別に僕はいらないから」
「あ、うん」
「名字さんも本気で取り返しにくればいいのに。面白くない」

淡い水色のシュシュを受け取った山口は、何かを考えるようにそれを手のひらで弄んでいた。
ふと、こちらを見上げた山口は普段より幾分か低く落ち着いた調子で話し掛けてきた。

「…あのさ、ツッキーはなんであいつにちょっかい出すの?なんだかツッキーらしくないよ」
「別に。山口には関係ない」
「ご、ごめんって!」

僕の不機嫌な様子を一瞬で感じ取ったらしく、山口はすぐに謝ってきた。
これもいつも通りのことだ。
毎日行われる部活の前の、なんてことはない戯れ。
だけれど、僕にとっては案外重要なことだった。
そして次の日。
やはり僕は彼女と部室前で対峙していた。
僕が馬鹿にするように見下ろして、彼女が怒ったように見上げてきて。
昨日とひとつ違うのは、たまたま山口が掃除当番で遅れていて部室にいないということだろうか。
いま、この場に彼女の髪を結んでくれるような親しい間柄の人はいないのだ。

「私、あなたのことが嫌いなの」
「うん。僕も名字さんが嫌い」

ようやく口を開いたかと思えば、名字さんは忌々しげに言った。
僕も彼女の届かない位置へ髪留めを持ち上げながら、淡々と言い返した。
悪態には悪態を返すに限る。
嫌いだから意地悪をする、というのはもっともらしい原理じゃないか。
頭ではそう考えているのに、自分の口から出た「キライ」はとても薄っぺらくて嘘臭くて、それが彼女に伝わらなかったか不安になった。
しかし名字さんは気付いた様子もなく、部室を少し覗いてすぐに踵を返した。

「どこ行くの」
「部活に出るの」
「その鬱陶しい長い髪で運動するつもり?うわあ、邪魔そう」

誰のせいでこんなことに。
足を止めて僕を見た彼女の目がそう物語っていた。
その場で彼女は予備のシュシュを取り出し、手早く髪をまとめ始める。
自分で結んでいるところを初めて見たが、持ち上げた二の腕の細さの方が気になってしまう。
出来上がりは本人が言っていた通り、お世辞にも綺麗とは言えないポニーテールだった。
構わずテニスコートの方へ向かおうとする彼女の腕を掴んだのは、ほんの少しの自棄とありったけの勇気からだった。

「待ちなよ、髪型ぐっちゃぐちゃだよ?」
「…ほっといて。たっちゃんがいないなら自分でやるしか」
「僕が結んであげる」

彼女の振り払おうとする手つきは、僕の一言でぴたりと止まった。
彼女自身、見映えの悪い髪型で人前に出ることには抵抗があるのだろう。
探るような視線を向けられて、内心の焦りを押し隠して軽薄な笑みを保った。

「僕がほどいたから僕が結ぶ。道理に適ってるデショ」
「…全然」
「まあ、いいからさ。こっち来て」
「ちょっと!」

さすがに周りから丸見えの廊下で行動を起こす度胸はなく、開いたままのバレー部部室へ彼女を引っ張り込んだ。
いつもより話し込んでいたせいか、部室内にチームメイトは一人も残っていなかった。
名字さんが男子特有の部室の汚さや壁のグラビアポスターに引いている隙に、手近な椅子を引っ張ってきて彼女を座らせた。
文句を言うのも諦めたらしく、黙って前を向く名字さんの髪にそっと触れた。
想像以上に、細くて柔らかい。
やましい気持ちよりも先に、こんな彼女の髪に日々触れて平然としている山口を思い出して、胸のもやもやが増した。
ああもう、イライラするなぁ。

「やるなら早くして」
「…はいはい」

相手が幼なじみでなくとも、彼女の態度は変わらないらしい。
ただ、少しだけ落ち着かない様子で僕の手つきにくすぐったそうにする名字さんには、ちょっと優越感を覚えた。
二人きりの部室はやけに静かで、不意に口を開いた名字さんの声は大きく響いて聴こえた。

「月島くんは、どうして私に構うの」
「君に構ってるワケじゃないんだけど。大好きな幼なじみに構ってもらえるきっかけを僕は作ってあげてるんだよ?感謝してほしいなぁ」
「…そんなこと思ってたの?」
「うん」
「余計なお世話。そもそも、たっちゃんが私を避けてるんだから仕方ないじゃない…」

目に見えてしょげる彼女の姿は、なんだか面白くない。
僕が最近まで彼女という存在をよく知らなかったことから分かるように、山口はずいぶんと前から彼女に関わるのを避けているんだろう。
きっと噂になったり周りにからかわれたりするのが嫌だから。
山口は何が不満なんだろう。
噂になったって気にしなければいいじゃないか。
だって、相手は名字さんなんだから。
綺麗に結いあがったポニーテールから手を離し、人知れずため息を吐く。
よく見える項と、露わになった細い肩が僕の目の前にある。
彼女の呼吸に合わせて上下する肩に両手を置くと、名字さんはびくっと震えた。
はじめて触れた彼女の肌はうすく、体温をシャツ越しに伝えてくる。
その背中に額をとんと押し当てると、さすがに異変を感じ取ったらしい彼女が声を上げる。

「っ、は、はなれ」
「いやだ」

常日頃彼女に感じていたもどかしさを込めて言えば、思った以上に威圧感のある声になった。
彼女の抵抗が止む。
なんとなく、もう引き返せない予感がして口を開く。

「なんで気にするのは山口ばっかりでこっち見ないの。すごく、すごくイライラする」

一息に言い切ると、しんとした空気が身を襲った。
自分の言葉足らずな表現を後悔する。
こんな言い方じゃあ何も分からない。
彼女は何も分かってくれない。
次の言葉が出ないまま、しばらくして今度は名字さんが深く息を吐き出した。
心臓がバクバクと鳴って、呼吸が上手くできない。

「月島くんって、意外としょうもないんだね」
「…うるさいな」
「でも、いいよ。髪も結んでくれたことだし、今後の付き合い方次第で今までのことは許してあげる」

なんで上から目線なんだ。
反論したかったけれど、ここで言い合いになってしまえば普段と何も変わらない気がしてぐっと堪える。
椅子から立ち上がって、姿勢良くこちらへ向き直った彼女は確かめるように結われた髪を撫で、勝ち誇ったように笑った。

「月島くんって、髪を結ぶの上手なんだね」

思いがけない褒め言葉に目を瞬かせる。
彼女との間にある身長差が一番縮まったような気がした瞬間だった。

20140121~0406
(心はロベリアの花)

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