「お、緑間の彼女」 そう呼び掛けられて、不本意ながら私は立ち止まった。 私がじとりと視線を返したのに対して、呼び止めた張本人である宮地先輩はお構いなしという顔をしている。 他に生徒がまばらにいる廊下に立っていても、宮地先輩は目立った。 その高い身長と甘い顔立ちと、蜂蜜みたいな髪の色。 私はその柔らかそうな色が好きだった。 「真太郎は幼なじみです」 「まー、似たようなもんじゃねえか」 彼女と幼なじみのどこが似たようなものなのか是非とも教えてもらいたいところだ。 けれど、このやりとりは何度繰り返したって変化がないし、宮地先輩は私をろくに名前で呼んだことがない。 おい、とか。そこの、とか。 その中でも使用頻度が一番高いのが「緑間の彼女」なのであった。 当初は「誰が彼女ですか」と突っぱねていたのに、今では反応してしまうのだから慣れというものは恐ろしい。 呼び名はさしたる問題ではない、むしろどうでもいいといった様子で宮地先輩が平然としているものだから、私はため息を吐き出した。 「何か用ですか」 「ああ。昼のミーティング、大会議室に場所変更だって緑間に伝えといて」 「…同じクラスの高尾くんに言った方が早いと思います」 「お前がその辺にいたんだから仕方ねーだろ」 確かに、真太郎とは長い付き合いだし、この年頃の男女にしては仲が良い方だと思う。 登下校は、昔から一緒だ。高校からは高尾くんが加わり、私はチャリアカーの隣を自転車で併走する。 かといって、私と真太郎が常に行動を共にするほど親密な関係というわけではなくて。 クラスが違うのだから、四六時中真太郎と一緒にいることはない。 子どもの頃のように、無意味にべったり付き添うこともしない。 それなのにどうしてか、宮地先輩には私と真太郎がよほど仲良しに見えるようで、真太郎のことは私か高尾くんに任せればいいと考えている節がある。 彼のなかでは幼なじみイコール世話係なんだろうか。 もやもやと思い悩んで、私がこんな小さなことにこだわる理由はちゃんとある。 私は、宮地先輩が好きなのだ。 だから彼に名前を呼ばれず、緑間の彼女と称されることに異議を申し立てたい。 「ミーティングの場所、大会議室に変更だって。宮地先輩から伝言」 「ああ、分かった」 だからといって、あなたが好きなので名前で呼んでくださいと本人に言えるはずもなかった。 宮地先輩とそこそこに会話を交わしてから別れ、私は真太郎の教室に赴いて言づてを伝えていた。 真太郎は軽く頷いただけで、次の授業科目の教科書を出していた。 今の一言には一応感謝の意味合いも含まれているのだろうけれど、普通の人にはそれが伝わらない気がする。 なんだかんだ言って可愛い幼なじみの先行きを不安に思いながら、私は少しうなだれた。 宮地先輩にとって私は伝言板のようなものなのかもしれない。 「…元気がないな」 「え?」 「いつもだ。お前は宮地さんと話したあと、どこか落ち込んでいるように見えるのだよ。何か言われたのか?」 予想だにしなかった幼なじみの台詞に、私は勢いよく首を振った。 驚いた。 他人の感情の機微に気付くことができるにも関わらず、それを自分には関係ないからと無関心に生きてきた真太郎がそんな、心配するようなことを言うなんて。 それに加えて、真太郎はこと恋愛に関しては本当に鈍い。 私がささやかな恋の憂いに悩んでいるとは思いもしないだろう彼は、私が心底落ち込んでいるように見えたのではなかろうか。 そうだったら大変だと、私は笑顔を見せた。 取り繕うためではなく、きちんと優しいところのある幼なじみの気遣いが嬉しくて。 「宮地先輩は関係ないの。私が個人的に元気がないだけ」 「個人的に、とは何だ」 「大したことじゃないよ」 宮地先輩に関係がないという点は嘘だったけれど、真太郎が気にするようなことではないと思った。 納得が行かないような顔をした真太郎を説き伏せて、その場は収まったと思っていた。 翌日、宮地先輩に会うまでは。 私は真太郎と一緒に帰ろうと、彼を迎えに来たところだった。 宮地先輩は、体育館の扉に寄りかかっていた。 大きな手のひらで弄んでいたボールは、私を見て床に置いていた。 「なあ、名字」 私は昨日、真太郎が心配をしてくれた時以上に耳を疑った。 宮地先輩が私のことを名前で呼んだ。 でも、それよりも衝撃だったのは、それが嬉しくなかったことだ。 宮地先輩は私の名前を覚えてくれていた。 けれど、私を緑間の彼女と呼んで笑うようないつもの親しみやすさは感じられなくて、宮地先輩は少し傷付いたような顔をしていた。 「お前、嘘言ってんじゃねぇよ」 「え」 「昨日、緑間に釘刺されたぞ。あんまりお前と話すなって」 真太郎の気遣いは昨日の時点で終わらなかったらしい。 恋愛には疎くても、やはり人の感情に聡い真太郎は、宮地先輩に原因があると思ったんだろう。 自分たちの間に挟んでやりとりをすることで私に何か不利益なことがあるならば、と真太郎は私から宮地先輩を遠ざけようとした。 その気遣いは私にとって逆効果だとしても、彼が私のためを思ってしてくれたことだ。 無碍にはできないし、したくない。 「彼氏でもなかったら、あんな風に口出ししてこねぇだろ」 その時、分かってしまった。 宮地先輩は私と真太郎がそういう関係ではないと知っていたから、私を緑間の彼女だなんて呼んでいたのだと。 からかうように、それで会話の弾みをつけるように。 私がムキになって否定するから、面白がって宮地先輩はいつも笑っていた。 そして、そんな風に茶化すこともできない今の宮地先輩のことを考えた。 その寂しそうな顔に、私は期待してもいいんですか。 「今まで悪かったな、伝言頼んだりして。もう話しかけねーよ」 「宮地先輩」 「なに」 「私は真太郎の、彼女じゃないんです」 「…まだ言うか」 さすがにうんざりしたのか、こちらに向き直った宮地先輩は、ぎょっとしたように目を見開いた。 私の顔はきっと真っ赤だったろう。 声も震えていた。 こんな風に宮地先輩の前で取り乱してみせたことなんてなかったから、何か尋常ではないと思ったのかもしれない。 「私は宮地先輩が好きですから」 体中が熱くって、声はかすれて、私の告白は泣く心地に少し似ていた。 その一言を発するのにとんでもなく体力を使った気がして、はあっと強く息を吐いた。 そのまま宮地先輩を見つめ返すのに耐えられず、うつむいて両手をぎゅっと握った。 返事は、なかった。 けれど、ふと大きな影が落ちてきて、宮地先輩が近くまで来てくれたことはわかった。 「本当なのか」 「だから、付き合ってません」 「そっちじゃねえよ」 付き合ってないのは、わかったから。信じるから。 宮地先輩の声は優しくて、私はますます顔を上げられなくなる。 するり、大きな手のひらがうつむいた視界に入って、私の手首を握った。 穏やかな触れかただった。 「こっち見ろ」 宮地先輩の言葉に、なんとか顔を上げた。 好きな人に一番見られたくない顔だったと思うけれど、宮地先輩は笑わなかった。 「私、嘘をついている顔に見えますか」 「…見えない」 今にも涙で濡れてしまいそうな私の目尻を指先で拭って、宮地先輩は笑うというより微笑んだ。 ふわっとした、嬉しそうな笑いかただった。 20130711 |