「…広すぎる」

月曜日になって、健介さんの通う大学へ来ていた。
周りに知り合いはおらず、呟いた言葉は完全な独り言になってしまう。
それほど足を運んだことがあるわけでもなく、加えてここは都内にある割に敷地が横に長く広がっていて、現在地の把握すら難しい。
待ち合わせしていた時間に着けそうにないと見込んで健介さんには、「少し遅れます。ごめんなさい」とだけメールを送ってある。
迷子なんて情けなくて言えやしない。
携帯の画面から構内の案内看板に視線を戻して、ため息を吐いた。

「とりあえず歩こうかな。じゃないと目的地に近付かないし」

健介さんの学部棟をもう一度確認して、私は早足で歩き出そうとした。
そのとき、誰かに背後からぐっと手をつかまれて反射的に肩をびくつかせてしまった。
慣れない土地でこの状況、すぐには振り向けないまま私は今朝の健介さんの言葉を思い返した。

「ウチに来るのはいいけど、たまに部外者の変な勧誘とか入ってきてるからな。声かけられないように気をつけろよ」

どうしよう、と焦ったのは本当に一瞬だった。
その手が優しく私の手首を握り直し、安堵したように深くため息を吐いたのが聞こえたから。
ぱっと振り返ると、健介さんがはあ、と息をついて笑っていた。

「っし、捕まえた。あんまり心配させんな」
「あれ…なんで、ここに」
「お前が時間守らないなんて珍しいから、大方迷ってるんだろうと思って。構内にある案内看板を手当たり次第に巡ったってわけ。早めに探しにきて正解だったな」
「すみません、予想大当たりで」
「いや、見つけられてよかった。気にすんなよ」

私が勝手に迷ったというのに、まるで自分に非があるみたいに健介さんは「迎えに行けなくて悪かったな」と、こちらを覗き込む。
優しい言葉に私は目一杯に首を振った。
いつも家で一緒に過ごしている彼が隣にいると、見知らぬ場所であってもこんなに心強い。
とめどない安心感から先ほどまで感じていた居心地の悪さが取り払われて、私もゆっくり息を吐き出した。
すると、少しうつむかせた私の頭に、健介さんの手のひらが乗せられる。

「なんだよ、そんなに不安だったのか?ほら、オレはここにいるぞ」
「ちょっともう…やめてください」

からかう口調とともに強めに髪をかき混ぜられて、つい大きな声で返すと安心したと言いたげに健介さんは目を細めた。
その柔らかい表情に、不覚にも先ほどとは違う意味で動揺してしまった。

「そういえば、講義の方は…」
「終わった終わった。自主勉してただけだからもう帰るぞ」

迷いなく歩き出した健介さんに慌ててついていく。
慣れた足取りに、彼はここに通っているのだと改めて実感する。
私にとっては目新しいものばかりでも、きっと健介さんには見慣れた風景で、もしかすると住んでいる家の次に彼にとって近しい場所なのかもしれない。
そう思うと、ただ漠然と知らなかった場所が急に身近に思えた。
この大学に溶け込んでいる姿も、私が知らない健介さんの一面なのだろう。
走り寄って隣に並ぶと、私に合わせて歩調を緩めてくれる。

「次に近いのは春日んとこだっけか。で、最後に宮地の大学に寄るんだったな」
「あっ」
「なんだよ?」

色々あったせいで忘れていたことを、彼の名前を耳にして思い出した。
昨日、隆平さんが教えてくれた話。
健介さんなら何か教えてくれるのでは、と思いきって彼を見上げる。

「隆平さんから聞いたんですけど、あの、管理人からの約束事って…」
「約束事?あー、あれな」

いきなり何の話だという顔は一瞬で、健介さんは微妙な面持ちになる。
少しほのめかした程度ですぐに思い当たるなんて、よほど徹底されているものなんだろうか。
想像をめぐらせては、申し訳なさに肩が重くなる。

「私は話題の当人らしいのに、そのことを今まで知らなくて。良かったら教えてくれませんか?」
「…言っていいもんなのか、あれって」

どう受け取ればいいか分からない言葉を呟いて、健介さんは悩んでいる様子だった。
そうして不意に辺りをきょろきょろと見渡す。
思わずその視線を追うも、いわゆる大学風景の、学生がちらほらと歩く姿が見られるだけだ。

「ま、いいや。隠すことでもないしな」
「いいんですか?」
「いいけど、ちょっとこっち来い。あんまりでかい声で言いたくねーから」

内緒話のように健介さんは身をかがめて、私の耳の近くでこそっと言った。

「あの管理人、お前のこと大事にしてるじゃん?」
「人並み以上に過保護だとは思います」
「だからな、そのー…有り体に言うと。お前に手を出したら許さない、とは言われた」
「…は?」
「ぶっちゃけると、もっと直接的な表現だったけどな」

あー恥ずかしい、と離れていった健介さんはそっぽを向いた。
私はしばらくぽかんとしてから、自分が思っていたより大きな声で言ってしまった。

「そ、そんなくだらないことを約束させたんですか、あの人!」
「くだらないってお前なあ…心配してるんだろ」
「そんなのいらないお世話ですよ。あーもう、私こそ恥ずかしいです」

こんな知らなくてもいいことで無駄に思い悩んだり、その内容をわざわざ健介さんに言わせてしまったり、隆平さんの言った通りのとんだ杞憂だったのだ。
頬を押さえている私をおかしそうに笑って、健介さんが言った。

「愛されてるってことだろ」
「本当、今はそういうのいいですから」
「そう言うなよ。オレもあいつらも、要はその人と同じなんだから」
「同じって」
「お前が可愛くて仕方ないって思ってるんだよ」

聞き捨てならない言葉を残して、再び健介さんが歩き出す。
呆然としていると、「置いてくぞ」と機嫌の良い声が私を急かした。

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