「健介さんは、マンションに入居した時のことって覚えてますか?」

電車の中、目的地に向かっている最中だった。
吊り革につかまる健介さんを私が見上げる形で席に座っている。
目的地まで二人でゆらゆらと立ったまま揺られるつもりだったのだけれど、さっき一つだけ席が空いたのだ。
「お前座れよ」という健介さんに、「いえ、せっかく二人でいるんですから」と返したら、少しの間黙り込んでしまった。
しばらく言葉に迷ったような表情を見せたあとに、「いーから、座っとけ」と彼は私を座らせた。
それが腕を引くとかではなく、私をひょいと抱き寄せるようにして座らせたものだから、たいそう驚いた。
力持ちなのは清志さんばかりではないんだなあ、と風邪を看病された日のことを思い出す。
冒頭の私の言葉に、少し背中をかがめた健介さんは不思議そうに返してきた。

「どうした、急に」
「隆平さんとちょっとだけ昔話をしたので、健介さんはどうかなって」
「さすがに一年前くらいのことは覚えてるっての」
「そうですよね」
「それでなくとも、お前との出会いは衝撃だったからな。いろんな意味で」

笑みとともにため息をこぼして、健介さんは言った。
彼が今の住まいにやって来たのは、まだ春と呼ぶには早い季節だった。
知り合いのよしみで紹介され、すでに広いあの部屋に一人で住んでいた私は、ある日管理人に呼ばれて健介さんと対面したのだった。
てっきり同性の人を相手にルームシェアの相談をすると思っていたのはあちらも同じだったようで、初対面だというのに私たちは戸惑いの心境がぴったりシンクロしていたに違いない。
健介さんも当時のことを思い出しているのか、私たちの間にわずかに沈黙が流れる。

当時の健介さんは、入居に関する書類や手続きより何より、私から視線を外せなかったようである。
これからどのくらい一緒に住むかも分からない同居の相手が、異性であると思えば当たり前だ。
私だって彼がどんな人であるか気になって仕方なかったし、第一に私の存在を理由に入居を断られるのではないかと思っていた。
私たちの互いを探るような空気を読み取ったのか、今日は簡単な説明だけで正式な返事は後日でいい、と管理人は言った。
それもそうか、とうなずきかけた時に目の前の彼が勢いよく立ち上がり、すごく驚いたことを覚えている。

「一日もいりません。オレに一時間だけ考えさせてください」

健介さんは書類をかき集めると、事務所兼管理人室である話し合いの場を飛び出していった。
それを呆気にとられて見送った私に、管理人は事情を語った。
彼は地方を出てきた学生の身であるし、ルームシェアのように家賃を折半できる物件を強く望んでいて、他の条件は二の次で探していたらしい。
空きがあれば良かったのだが、現在このマンションは私が住む階以外は満室である。
それならばと一応私を呼んで話をしてみたのだけれど、予想以上に真剣な答えをもらえそうだと管理人は話した。
今思えば無責任な話ではある。
まさか健介さんが真面目に取り合うとは思わず、この話を持ち掛けたのだから。
きっちり一時間後、戻ってきた健介さんは約束通り返事をした。
管理人ではなく私へ目を向けて、彼ははっきりと言った。

「お前さえ良ければ、オレと一緒に暮らしてほしい」

あらゆる意味で衝撃的な一言だったのは確かだ。
その証拠に、私は一字一句間違えず覚えている。
それに対して、どう返答したか。
結果は今の私たちを見れば分かることだろう。

「あの時、一時間どこに行ってたんですか?」
「適当に近くのコーヒーショップ入って、書類と向き合って考え込んでた。生活がかかってる問題だったからな」
「健介さんは、会った時から健介さんでしたよね」
「なんだそりゃ」
「私こそ、いろんな意味で忘れられない初対面になりました」

緩いカーブの線路に差し掛かり、電車はゆっくり曲がって揺れる。
バランスを取るようにこちらへゆらりと身を傾けた健介さんは、あの日と変わらない様子で笑っていた。
いつだって平気そうに、何でも自信を持って決めてしまうところがすごいと思う。

「いや、オレの方が驚いたって。家賃を折半できるマンションってのを探して来てみれば、格安だけど同居人が女って紹介されるし」
「その場で何とかなるだろ、で返事を済ませた健介さんには敵いませんよ」
「…そんなこと言ったか?」
「言いました」
「家探しに必死だったんだよ。上京したてで右も左もわからなかったからな」

あの時、先ほどの一言に続けて、「細かいことは何とかなる、これから融通を利かせればいい」と言い切った健介さんを見て、ああ、この人はこういう性格なのかと感心した自分を思い出す。
不安や緊張がないわけではなかった。
何せ年上の男の人と二人暮らしのような生活をすると決まったのだから。
それから私が彼を「福井さん」ではなく「健介さん」と呼ぶようになった頃、約一カ月を経て今度は隆平さんがやって来たのだ。
三者面談のような形で顔をつき合わせる席で、隆平さんは私たちの仲を終始気にかけていたようである。
男女がそれまで二人で暮らしていたのだから勘ぐるのも無理はない。
それからしばらく時間が空いて、さらに清志さんが加わり、今のメンバーになったのだ。

「懐かしいな。最後に来たのが宮地で」
「今では一番馴染んでますけどね」
「宮地が来てしばらくは、ずいぶんお前と仲が悪かったよな」
「…そうでしたっけ」
「そうだよ」

健介さんの言葉に首を傾げると、彼は呆れるように言った。
今じゃすっかり古株のような顔をしている清志さんも、実は入居してから一番日が浅い。
とはいえ、それはあくまで比較をした場合の話だ。
彼らとは、こうして過去や思い出を語り合えるほどの時間を一緒に過ごしてきている。
そう思うと、感慨深いものがある。
ふと思い出したように健介さんが「あ」と漏らしたので、私は顔を上げた。

「そういえば、宮地のやつ」
「清志さんがどうかしました?」
「あいつ、さっき不機嫌じゃなかったか?覚えのない八つ当たりとかされてないよな?」
「うーん…いつも通りでしたけど」

いつも通り、髪をぐしゃぐしゃに…今日に限ってはされていないけれど、清志さんとは普段と変わらない会話をした。
少し様子が変だとは感じたものの、特に苛立った感じはなくて、むしろ吹っ切れたような表情をしていた。
私の言葉にしばし考えるような仕草をしてみせてから、健介さんは小さく小さくつぶやいた。

「…ふーん。あいつも少しは大人になったかな」
「え?」
「何でもねーよ。ほら、次の駅で乗り換えだ」

当たり前のように差し出された手に引かれて、普段なら降りない駅のホームを歩く私の思考から、小さな疑問はすぐに隠れて見えなくなった。

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