そいつは常にホールの最前列に座っていた。
そうしてピアノを聴き終えたら、いつだって立ち上がり、涙を流して細い手のひらでいくらでも拍手した。
多くの観衆に混じって、その音のみがオレに届くことはない。
ただ、本当に幸せそうにピアノを聴く彼女の姿は印象的だった。

いくらガキの頃ったって、自分が演奏するコンサートのチケットが高いことくらい知っていた。
ただでさえ高値のチケットは、最前列となると途端に値段が跳ね上がる。
どうせいいとこのお嬢さんが親のコネで観に来ているんだろう。
当時はそう思って特に気にも留めなかった。
オレのピアノを聴く観衆がいればいい。
その観衆が涙するようなピアノを弾ければ文句なし。
観衆の中身には興味がない。
オレは一心にピアノを弾き続けた。
そいつは何年経っても最前列に居続けた。
ある時、気が付いた。
彼女の両隣には、縁もゆかりもなさそうな老夫婦が二組座っているだけで、彼女の身内と思しき人物は劇場内に見当たらなかった。
あの年で、自分の稼ぎでチケットを買っているのだとわかった。

演奏が終わり、他の観衆が立ち去ってもスタッフが機材を片付けても、彼女は余韻を楽しむように一番遅くまで劇場に残っていた。
その頬にいつまでも流れる、幸福と感動の結晶のような涙を、彼女は拭いもしない。
いつからか、演奏中に劇場内を見渡すことが癖になっていた。
定位置にいる彼女を確認し、まだ楽曲の中盤にも至っていないのに涙する姿を認める。
オレは笑う。
演奏の前には必ず「涙しろ」と心中で観衆に語りかける。
それにしたって、早過ぎるだろうが。
ピアノを弾いている間は常に考えている。
今日こそ演奏を終えたら、ステージを飛び降りて彼女の涙を指先で拭ってやろうと。
その瞬間まで、オレの指先はただ鍵盤の上をひたすら走る。


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