「だいじょーぶ?お嬢さん」 まだ幼かった頃の話だ。 家の近くの海で遊んでいる時に足を引っ張られるような感覚があって溺れた。 思い返せば、それは気のせいだったようにも思う。 その時に溺れていたところを助けてくれたお兄さんの印象がとても強くて、他のことはどこか朧気なのだ。 その人は垢抜けた服装をしていて、私を泳いで助けた後なのに平然として微笑んでいた。 しゃがんで合わせられた視界の隅に、キラリと光るピアスがあった。 「あれ、無事だよね?喋れる?」 「あ…大丈夫、です。ありがとうございました…」 「お。礼儀正しいねー、えらいえらい」 浜に上がってもなお水滴を絶えず垂らす髪に対して、構わずこちらを撫でてくる手のひらに軽く目をつむった。 今思えば、不思議なことだらけだった。 子供とはいえ人を浜辺に引き上げておきながら彼は疲れた気配を微塵も見せなかったし、赤の他人である私を助けてくれた割にはこちらを気遣う様子もそれほど感じなかった。 そして、彼の艶やかなオレンジの髪は一滴の水にも濡れていなかった。 不思議なことは尽きなかったのに、生まれて初めて死の淵に立った私は気が動転していてそれどころではなく、家の近くまで送ってくれた彼の明るい笑顔だけが記憶に焼き付いていた。 「あーあ、また助けちゃった。二度目っていうのは君がはじめてだなぁ」 幼い頃の記憶と違わない声色が耳をくすぐる。 私はプールサイドにぺたりと座り込んだまま、ぼうっと青年を見上げていた。 信じられない気持ちでいたのは、あれから十年ほど時を経たというのに彼の容姿が全く変化していないせいだった。 青年はオレンジの髪をさらさら揺らし、首を傾げた。 「一人で泳ぐ練習?危ないよー、友達に付き合ってもらった方がいいんじゃないかな」 「…あの」 「ん?」 「ここ、学校の敷地内で…今は放課後です」 「あ、そう?そうだっけ。ま、そうだよねぇ」 何に納得をしたのか、彼は楽しそうにケラケラ笑った。 膝をついて小さく咳き込む私にふっと影がかぶさり、慌てて身を引いた。 過去とまったく同じように、目線を合わせようとかがんだらしい彼はきょとんとこちらを見つめていた。 その黒く光のない瞳が猫のように細まり、膝を抱えた彼は含むように笑った。 「オレがこわいの?」 「いえ、…あなたは命の恩人です」 「でも、得体が知れない」 心中を言い当てられて、思わず返す言葉に詰まった。 得体の知れない本人は大して気にした様子もなく、普通そうにしている。 ちょっと妙な雰囲気を持っているだけで、見た目が少し派手なだけの好青年だ。 そう自分に言い聞かせて、質問を口にする。 「あなたは誰ですか。どうやって学校のプールまで入ったんですか?」 「お、興味あるんだ。昔の君はぼーっとしてて何も尋ねてこなかったからなあ。心配になったもんだよ」 「茶化さないで」 「はいはい、いっぺんに答えてあげるよ。それはオレが龍神だからさ」 聞き慣れない言葉に意識を停止させ、私はその単語を頭の中で反芻させた。 龍神。 にこにこと笑う青年は確かにそう言った。 「あ、若い子には聞き慣れない?えーっと、水神って言った方が伝わるのかな。オレの専門はどっちかというと海なんだけど」 「な、何を言って…」 「なんか証拠…あ、角出せるよ!固いよ!本物!」 とても理性的な会話には思えない。 けれど、つい立ち上がってしまった私は彼の頭を覗き込んでいた。 好奇心と、嘘であってくれという思いから。 「……」 「耳の上あたり。あるでしょ?はい証拠ー」 「…なにこれ」 「オレの親父はとってもエラい龍神様でね。オレはその第六子。色々あって、嫌われ者の放浪神やってます」 世間話でもするような平静な口調とあまりにふざけた内容に言葉が出なかった。 この人が人間じゃないなんて、と事実を否定したい気持ちはある。 しかし、彼が何かしらの特異な存在ではないとも言い切れない。 どうやってこんな場所までやって来たのか? ここまで目立つ人物が易々とプールに侵入できるのだろうか? その答えが見つからない。 「信じてない顔だね」 「当たり前です」 「目の前にあるモノは、深く考えず現実だと受け止めるのが賢明だよ?そっちの方が人生楽しいって」 「…人じゃないくせに」 「え?あー、はは。上手い上手い。その通りだね」 ちっとも感心していない様子の彼は口端だけで笑むと、「でもね、龍はヒトより賢いんだよ」と恐ろしく冷めた声で言った。 その声色にぞっとした私をよそに、彼はいい提案を思いついたという様子で手を叩く。 「そうか、多少の力を見せればいいんだね?人間って単純だからさぁ、昔はこうやってひれ伏してもらったんだ」 「な、何をするつもり?」 「豪雨をあげるよ」 その言葉が終わらないうち、だった。 ザンッ、と耳にも肌にも痛い強烈な雨脚が襲った。 プールの水面に当たる雨粒がバタバタと騒がしく鳴った。 大粒の雨がえぐるように全身に打ちつけるなか、私はやはり呆然と立ち尽くすしかできなかった。 篠突く雨は彼の体に触れる寸前で弾け、一滴も水をかぶらないまま彼は笑っている。 放送がかかり、グラウンドで部活動をしていた生徒達は続々と校舎内へ避難していった。 交わす言葉さえ聞き取れないような雨のなかで向かい合うのは、私と彼だけになる。 「ちょっと加減しようか」 彼が言った途端、小雨ほどに勢いは死んだ。 先ほどの豪雨が嘘のようである。 異常気象。 そんな言葉が頭を過ぎった。 「降らせといて悪いんだけど、オレって晴れには出来ないの。水の量変えてるだけだから」 「そんな言葉を信じるとでも?」 「まあ、どう思うかは君次第だよ。でも一つだけ、信じた方がいいことを教えてあげよう」 「…何ですか」 「オレの趣味」 やはり、見せかけを装うのが得意なだけの変人ではないだろうか。 危うく信じかけていたところでなけなしの理性が働く。 思い直したのに。 彼が雨のなかで呟いた一言はいつまでも反響して私の中に黒くわだかまりを残したのだ。 「可愛い子をね、死なない程度に溺れさせるのが大好きなんだ。たまに体力が尽きて死んじゃうんだけど、二度も殺さず生かしたのは君しかいないよ?」 雨を生む龍の話 |