「ぶッ」 「違う。そこは当てはめる公式が決まっていると三問前にも教えただろう。お前の脳は鳥並みか」 「み、ど、り、まぁああ…いちいち水ぶっかけんのやめてって言ったはずだけど!?」 「こうでもしないと覚えないお前が悪い」 つーんと澄ましている、無駄に美人な着物姿の男を前に、濡れた顔を乱暴に拭った。 自室の机を水浸しにされるのはこれで何度目だろうか。 家の敷地内にある深い碧色の池。 そこから池と同じ色をした髪を持つ男性がぬらりと現れ出たのは、割と最近のことである。 緑間と名乗ったその男はかつて広大な湖に住まう水神だったという。 今では開発が進められて、わずかに湖の水が残る我が家の池に居ついているのだと彼は言った。 まあ、そんなお伽話のような事情は私には至極どうでもいいわけで。 目前のテストをどうにかすることに必死な私へ緑間は、「そのくらいなら教えてやろう」となぜか教師役を買って出たのである。 曲りなりにも神様なのにずいぶんと俗っぽい真似をするんだな、と考える余裕があったのは束の間、その教え方のスパルタっぷりにひーひー言うはめになったのだ。 それに加えてこの男。 「うあ、藻がついてる藻が!かけるんなら池の水じゃなくてせめて水道水にしてよ!」 「ふん、人間が調整した金臭い水なんぞ触れるのもおぞましいな」 「日本語しゃべれよ」 「お前の脳が足りんだけだ」 腹立つううう…。めちゃくちゃ腹立つ。 どうしてこんな傍若無人な変人神様に付きまとわれなくてはいけないのか。 上手いこと教科書やノートは濡らさないようにしていたらしく、緑間は早く続きをやれと急かしてくる。 いい加減三時間ほどこうして彼を相手にしながら机にかじりついているのに嫌気が差し、おもむろに席を立った。 軽く伸びをして、遊びに行きたいなあ、カラオケとか…そんなことを考えていたら、緑間がずいと目の前に立ちはだかった。 「まだノルマを終えていないぞ」 「もーやだ、息抜きに散歩くらい行かせてよ。いい加減効率悪いし」 「…それもそうだな。では、これを持って行け」 差し出されたペットボトルを受け取ると、中の水がちゃぷんと揺れた。 飲み水というわけではなさそうだし、もしかしてこれは…。 「池の水だ」 「うん、いらない」 「依り代がないとオレはこの家の敷地内から出られない」 「おお、いいこと聞いた。さっそく置いていこう」 「待て」 「ぶふぁっ」 颯爽と横を通り過ぎようとしたのに、また頭のてっぺんから水をざばりとかけられた。 どうすんだよ、部屋拭かなくちゃじゃんか…と、文句を言いたいのは山々だが、首根っこをつかまれてしまっている。 見上げた先の男は空中にいくつか水の玉をふよふよと浮かべながら、私を無表情で見つめていた。 このうちのひとつを頭に当てられたに違いない。 「いいか。敷地の外に出るまではオレもお前に好き勝手できるということを忘れるな」 「…それはわかったから、びちゃびちゃなんですけど…」 「仕方のないやつめ」 着物の袂が私の顔をぐいぐいとこすっていく。 言っとくけど、濡らしたのお前だからな。 先ほど突き返したはずのペットボトルをひったくるように取り返した。 女の子の荷物増やしやがって! 「わかったよ、持っていけばいいんでしょ!」 「最初から素直に従えばいいのだよ」 「うっせー、なのだよ星人」 「なんだその口の利き方は」 「いだだだだだ」 拳で頭をぐりぐりとやられてたまらず悲鳴を上げた。 仮にも神様のくせに物理でも攻撃してくるのかよ…と、ようやく離された頭をさする。 この人相手に無礼を働いたって、罰が当たって死ぬということがないのは、ここ数日で実証済みだ。 神様なんてそんなものなのかもしれない。 とりあえず、出掛けるためにはこのずぶ濡れの格好を何とかしなくては。 「あの、着替えたいから池にでも戻っててくれませんか」 「なぜ」 「なぜじゃねーよ神様は小娘の裸を見る趣味でもあるんですかね」 「今日は天気もいい。外を歩けばいずれ水は乾く。そのままで行け」 「何言ってんの嫌だよバカなの?」 「馬鹿はお前だ。池の水を身にまとうことで、本日最悪の運気を多少補正してやった。まじないのようなものだ」 「へーすごいネー」 「これで家を出た途端車に撥ねられて死ぬということもないだろう」 「………」 なんか、今、すごく物騒なことをさらっと言われた気がする。 眼鏡をついと指先で押し上げた彼の言葉を信じる義理はないが、なんてったって自称神様である。 そこらの占い雑誌よりはよっぽど信憑性の高い発言だ。 水浸しの状態とは無関係の身震いをしてから、私はうなだれた。 「このまま出掛ける…」 「それが一番なのだよ」 「遠出する気も失せた…でも勉強はやだから近所をふらふらしよう…」 「三十分で戻らないと良くないことが起きるぞ」 「あーあー聞こえなーい」 耳をふさぎながらかぶりを振ると、当たり前のようについてきた緑髪の男がにやりと笑う。 …どこまで本当のことを言っているのかまったく読めない。 家を出た途端、彼は私の腕をぐいぐい引いて歩き出した。 身長差と体格差でなすすべもなく引きずられて、戸惑ってしまう。 「な、なに」 「あの自販機でお汁粉を買うのだよ」 「…好きなの?お汁粉」 やけに素直にこっくりとうなずいてみせる彼。 拒否しても、どうせまた水をかけられたりと何かしらの制裁をされることは目に見えていたので、小銭を何枚か投入してボタンを押した。 普段なら買わない飲み物を手に差し出して見せると、出会ってからはじめて彼の表情が緩んだ気がする。 この調子に付き合うのはなかなか難しい。 まあ神様なら多少のことは何とかしてくれるだろう、そう楽観的にとらえた私はのちにこの時の判断を大いに後悔することになる。 その後は学校についてきたり幼馴染高尾との恋路を邪魔されたりと散々なのでした |