持つべきものは"牛島若利"であることをわたしはよく知っている。何か困ったことがあって誰かを頼りたい時や助けてほしい時は、迷わずこの男を選ぶべきだと。そう確信していた。この瞬間、若利が放った一言を聞くまでは。

「若利ーごめん教科書貸して!」

昼休みが始まって、サンドイッチとチョコチップメロンパンをコーヒー牛乳で流し込んだわたしは時間に余裕があることを確認してから、ルーティンワークのように通い慣れた3組のチームメイトの下を訪ねた。十中八九いるだろうというわたしの予想を裏切ることなく、目的の人物もとい若利はピンと背筋を伸ばし行儀よく着席していた。トイレに行くか、職員室や移動教室で離れるか、あるいは告白のために呼び出されるか。用さえなければ、若利が席を立つ姿なんてそうそう見ない。廊下だったり教室だったり、方々で友達と談笑することももちろんあるだろうけど、行けば大体座って何かをしていることが多かった。動きに無駄がないというか、きっちりしすぎというか。だから用があるとき、ないときでも姿を見つけやすくて大変助かるのです。

「また忘れたのか?」
「昨日予習してそのまま机に置いてきちゃったの」
「ミョウジの口から予習という言葉が出るとは思わなかった」
「わたしだって予習くらいしますー」

喧嘩売ってんのかこいつ。たまたま若利の前の席が空いていたから少し乱暴に椅子を引いて無遠慮に腰を下ろせば、若利はシャーペンを走らせる手を止め、そうか、と口角に微笑を浮かべた。決して歯を見せ豪快に笑うタイプじゃない。だけど若利が心から笑う時は、こうしてやさしい目をして、口元をほころばせる。最近、どういう訳かそんな表情が脳裏に焼き付いて離れなくなってしまった。あーやだやだ。天童にゲスられるのも時間の問題かもしれない。

いまは何やってるの。予習?若利の手の下に広げられたノートに視線を落とし、そう訊ねる。ああ、と彼から返ってきたのは二文字の飾り気のなさすぎる言葉。そうして再び動き出したシャーペンがさらさらと淀みなくノートの上を進んでいくその様を、すごーい、なんてボキャブラリーに欠けた言葉を何度か零しながら見つめていた。ズラリと並ぶ、理解不能な数式たち。若利の頭の中を一度でいいから覗いてみたいと心底思う。

「あなたの思考回路もこんな数式みたく複雑になってそうだよね、若利サン」
「いや、そんなことはないと思うが……。好きなものは好きと言うし、嫌いなものは嫌いだ」
「へー嫌いなものあるんだ」
「ミョウジは俺を化け物か何かだと思っているのか?」

うん、と頷けば、若利の口から呆れたようにため息が漏れ聞こえた。頭もよくて、長身で、足はめっちゃ速いし、バレーの実力なんか今更語るまでもない。こんなにありとあらゆるものを兼ね揃えた人間が化け物じゃなくて同じ人間なのだとしたら、明日からどうして生きていけと言うのだろう。横向きの状態で足を組み、左手で頬杖をつきながら、いまこの至近距離にいる人間離れした超高校級エースの顔をじいっと凝視する。いま流行りの塩顏とは程遠いけれど、顔だって悪くないのだ。これで顔面偏差値が低ければ(わたしには)まだ救いようがあったのに。

「あれ〜先客だ」

唇を尖らせながら目の前の端正なお顔とにらめっこしていると、聞き慣れた声が聴覚を震わせた。ひょこっと現れたのは天童で、気付いた若利も、彼の名前を呼んで反応を示す。にらめっこを中断したわたしは、ぐりんと首を動かして特徴的なツンツン頭を見上げた。

「天童もなんか借りに来たの?」
「そーそー。数Cの教科書忘れてきちゃってさー」

頭の後ろに手をやって、てへ、なんて茶目っ気溢れたポージング。「類は友を呼ぶだな」若利の口からそんな一言が重々しく吐き出されたので、わたしと天童は顔を見合わせてから示し合わせたように声を揃え、気をつけまーす、と頭を下げた。確かに最近忘れ物が多いとは十分自覚している。けど、若利やさしいから。呆れたような顔をしても、絶対助けてくれるから。なんて言ってしまったらどんだけため息をつかれるか分かったもんじゃない。それに、忘れ物を口実にしてるだなんて本人に知られても困るだけだ。

わたしは再びノートを覗き込んだ。頭の痛くなる数式の羅列は置いといて。

「いっつも思ってたけど、綺麗な字だね」
「そうか?」
「確かに。若利君の字、俺好きだよ」
「ありがとう」

まるで書道の先生が書き記しているかのような美しい字。それが若利の左手から生み出されてるというのも、あまり不思議な感じはしなかった。逆にこれが超絶汚い字だったらと思うと、そっちの方が想像つかない。ほら、ここ。わたし若利のこの部分好き。指でトントンとノートを叩けば、しゃがみ込んだ天童がその大きな双眸だけを動かして、人差し指が指し示す文字に視線を送る。

「このはらいと止めの部分が綺麗で好きなの。わたしこんなに上手に書けない」
「ナマエの字は丸っこくて女の子って感じの字だよね」
「ミョウジの字も綺麗だと思うが」
「でもこの字キライ。上手に書けないから」

若利のシャーペンを借りて、隅っこに苦手な字ばかりを文章のように綴っていく。式、子、文、要。それから、ミョウジナマエ、牛島若利、天童覚。いまこの席にいる三人の名前も綴ってみた。島も上手に書けないなぁ。すると今度は天童がシャーペンを握り、わたしが借りたスペースとは反対側に同じように名前を書き記していく。天童の字も、またちょっと癖があって、天童らしさを感じるというか。こうして見れば、やっぱり若利の字が一番模範的で美しい。自分たち三人の字体と名前を見比べながら、わたしは思わず肩を落とした。……若利も天童もいいよね。またしても唇を尖らせるわたしに、クエスチョンマークを浮かべ、小首を傾げる若利。

「二人とも、苗字かっこいいんだもん。わたしなんてミョウジだよ」
「なんで?いいじゃんミョウジ。俺なんかよく温泉って言われるよ」
「そうだ。そんなに落胆する必要がどこにある?」
「でもさぁ、牛島とか天童とか、五色もかっこいいじゃん。牛島ナマエ!天童ナマエ!みたいな」

名前のインパクトは、それだけでも自分を覚えてもらえそうな気もするし。いいなぁ。かっこいい苗字。なりたいなぁ。「だったらなればいい」若利が紡いだ言葉に、今度はわたしが首をかしげる番だった。

「牛島ナマエになればいい」

天童の手から落ちたシャーペンが、カシャン、と大きな音を立てて床に叩きつけられる。天童は若利のシャーペンを落とし、その若利はとんでもない爆弾を落としていった。目を見開いたまま、フリーズすること10秒。ようやく再起動したわたしは、はぁぁ、盛大にため息をつく。この男はどんだけ無自覚天然なんだろう。いや、無自覚だから天然なのか。天然だから無自覚なのか。よくわからない。

「 若利、そういうこと気安く言わない方がいいよ」
「そういうこと?」
「牛島ナマエになればいいってやつ!」
「なぜ言わない方がいいんだ?」
「なぜって……」

ーーあのねぇ。わたしは頭を押さえた。若利に片想いをしている身としては、そんなことを気安く口にされてもただただ悲しいだけなのだ。所詮はいつもの天然発言の一つってだけで、深い意味なんてないことを理解しているから。わたしのピュアな恋心も知らないでさ、天然だからってなんでも許されると思ったら大間違いだからね!そんなこと言われたら、普通女の子は勘違いしちゃうでしょうよ。呆れを声に出すわたしに、ややして若利の声帯は空気に振動を与えた。それは言葉となり、わたしたちの耳に伝わる。

「勘違いなどしなくていい」
「はい?」
「初めから、そういうつもりで言っているのだから」

頬杖をついていた右手から、顔がガクッと落ちてしまった。それから両手で口元を押さえる天童の姿が、視界の隅に映り込む。えーと、あの、若利くん?あれこれとかける言葉を探してみるものの、一体なんて返したらいいのか。肝心な時に仕事をしない役立たずなわたしの唇。

「すくなくとも、天童ナマエにも五色ナマエにもさせるつもりはない」

連続して投下される核爆弾級の発言に、わたしの心と体はもはや瀕死寸前だった。心を揺さぶっている張本人の若利は、またあのやさしい目をして静かに、そして何よりも愉しそうに笑っている。さすが超高校級エースは言うことが違うね〜、わたしたちの間で茶化す天童の言葉も頭に入ってこない。わたしは若利のことをまだろくに知らないらしい。


20160608 魔女

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