桜が咲くにはまだほんの少し早く、今日はいつもより肌寒い日だった。長く凍える冬も過ぎ去り、春は軽い足取りですぐそこまで近づいているものの、日差しの暖かさよりも肌に突き刺さる空気の冷たさで、表情がみるみるうちに強張っていくのがわかった。顔の表面が、まるで薄い氷で覆われているように。手と手をこすり合わせ、わたしは、歩き出す。

校門に立てられている、紅白で縁取られた看板には、私立青葉城西高等学校卒業証書授与式の文字。さっきからひっきりなしに聞こえる狼煙は、今日のこの、晴れの出船を祝うためのものなんだろう。卒業証書の入った筒を持って笑う人、泣く人、学年の垣根を越えて抱擁を交わす人。みんなそれぞれが、この校舎での最後の時間を送っていた。わたしも、先輩に会いたい。会って、云いたいことがある。だからこうして、探しているの。

「あ、いたいたナマエちゃ〜ん」
「先輩!」

及川先輩が、手を振り歩いて来るのが見えた。及川先輩と、花巻先輩と、松川先輩。及川先輩に至っては制服がやけにぼろぼろで、かねてからの人気ぶりを思い返すとすぐに察しがついた。うわぁ、あの戦場からよく抜け出して来れたなぁ。わたしの表情から考えてることを汲み取ったらしい鋭い先輩は、まあいい思い出になったよ、楽しげに歯を見せ笑っていた。思い出、その一言に先輩たちがいよいよ遠い存在になってしまうことを実感させられて、言葉につまってしまう。

「卒業、おめでとうございます。花巻先輩、松川先輩」
「ありがとーナマエちゃん。色々面倒かけちゃって」
「ねえ俺は無視なの?」
「すいません忘れてました」
「目の前にいるのに!」
「まあ、」

なにかあったらすぐ相談してな、そう云い筒で頭をポン、とたたいてくる松川先輩の変わらないやさしさに、胸の中がくすぐったくなる。先輩たちは出会った頃からずっとやさしくて、おもしろくて、かっこよくて、本当にわたしの自慢だ。過ぎた時間に残るのは、みんなの笑い声ばかりで。もう最後になってしまうのに、ありふれた言葉すら出てこない。これからもお元気で、とか、卒業しても頑張ってください、とか。渡くんあたりなら、もう少し気の利いたことが云えそうなのにね。
あれ、そういえば、

「岩泉先輩は、一緒じゃないんですか?」

背の高い及川先輩の後ろを覗いてみるけど、やっぱりひとり足りない。ああ、岩泉ならさっきじょ、そこまで云った花巻先輩の脇腹に強烈なパンチをかました及川先輩が、花巻先輩の言葉の上からかぶせてくる。岩ちゃんなら、教室の方に行ったよ!忘れ物でもしたんじゃない?あ、ちょうどいいからナマエちゃん呼んできてもらえる?何がちょうどいいのかはイマイチわからなかったけど、わたしは先輩の指令に素直に従うことにした。

「ってーな及川!」
「まあまあ、いまのは花巻も悪い」
「そうだよマッキー。ナマエちゃんも女の子なんだからさ」

*****

先輩の教室まで階段を駆け上がる。スカートから伸びた足は冷たい空気にさらされていたはずなのに、不思議と羽が生えたように軽かった。放課となった校舎がやけに広く、さみしく感じられるのは、単純な話、今日が卒業式だったから。ーーあ、いた。及川先輩の言葉通り、岩泉先輩は教室の中に佇んでいた。忘れ物を取りに来たようには見えない、気もするけれど。まあ、いいのだ。先輩が、いてくれたから。岩泉先輩!背を向けていた先輩が、幽霊にでも出くわしたような面持ちで振り返る。

「うお、びびった」
「あはは、幽霊じゃないですからね。ほらこの美脚」
「自分で云うかよ」

ったく。先輩が小さく笑う。
岩泉先輩の「ったく」が、わたしは好きだった。わたしの幼稚でくだらない言葉や行動のすべてを、先輩のその寛大な心で許し受け入れてくれているような感じがして。その一言を聞けるだけで、いつだって前を向いていける気がした。

「みんなのところに行かないんですか?」
「ああ、わり。いま行く」

机に置かれた筒に手を伸ばす先輩。そこ、先輩の席だったんですか?え〜窓側だし最高の場所じゃないですか。それで一番後ろだったらもう云うことないですね。一方的に言葉を紡いで、ゆっくりと傍まで歩いて行く。そうして塗装のところどころ剥げ落ちた椅子を引いて、おもむろに腰を下ろしてみた。ギシ、と椅子は小さく悲鳴をあげる。

「わたし、三年になったらこの席に座りたいです」
「どうしてだよ」
「ん〜だって、先輩がここに座ってたから」

先輩のにおいがする。そう云えば変態ってドン引きされそうだから口にはしないけど。たぶんこれは、乙女にしかわからない感覚。乙女と、あとは及川先輩くらい。だって本当に、先輩のにおいがするんだもん。だからこの席に、他の人が座るなんて考えたくない。先輩のことも、他のだれかに取られたくないなぁ。

「先輩、ほんとに卒業しちゃうんですね」
「まあな。留年すると思ったか?」
「むしろ留年希望でした」
「希望すんなよ」

世話んなったな、色々と。その謝辞のあふれた一言が、わたしの中のブルースイッチを押してしまったらしい。だらしなく机に突っ伏した状態で、ぐす、鼻をすする。いっそのこと、鼻水でもつけてやりたいくらいだ。ずるずる。

「……これからもお世話させてくださいよ」
「ああ、あいつらのこと頼むな」

あいつら、すなわち部のみんなのことだろう。ちょっと問題児な京谷くんは、いまでも矢巾くんとぶつかることがある。大丈夫です、手綱の取り方はしっかり教えてもらいました。国見くんのやる気の出し方も、この間松川先輩から聞きましたから。わかってます。わかってますよ。でもちがう。いま、わたしが云ってるのはそういうことじゃないんです。机から顔を離し、先輩を見上げる。ああ、だめだ。岩泉先輩がかっこよすぎて、どうしようもなく好きすぎて、涙が出てきちゃう。本当に、留年しちゃえばよかったんだ。

「置いて行かないでください」
「お、おいどうした」
「先輩、どうせわたしのこと忘れるでしょ」

どうせ、わたしのことなんて。わたしは、岩泉先輩にしてみたら、ただのマネージャーだろうから。きっとこの先、先輩の世界はどんどん開けていって、その中で当たり前にたくさん恋をして、いつかは結婚して、しあわせで、わたしのことなんか、記憶の中に置き去りにして。バカやろうだ。先輩なんか。先輩なんか、好きじゃなかったら。

不意に手が伸びてきたかと思ったら、くしゃくしゃと頭を撫でられた。岩泉先輩の大きな掌。みんなとボールを繋いだ手。その鋭い瞳も、みんなを励ましたり、グズ川と怒鳴ったりした唇も、男の人の証である喉仏も、最後の大会で見せた涙も。頭のてっぺんからつま先まで、自分でも引いちゃうくらい先輩のすべてが大好きだ。

「バカだなミョウジ」
「知ってます」
「俺は置いても行かねーし、忘れたりもしねーから」

お前がこの先何を選択して、どこへ行ったって、俺はずっと近くにいっから。……ほら、ミョウジ。先輩はすこし恥ずかしそうに、手を差し出してくる。その掌の意味するもの。重ねて、伝わるお互いの体温。ぶつかる視線。こっち見んなって、顔を背ける先輩。その顔は耳まで真っ赤で。無駄に期待させてるんだったら、承知しないですよ。

教室を出る。階段を一段ずつ下りる。この校舎を先輩と歩く、最後のとき。それなのに、それだから会話もままならないまま、昇降口まで戻ってきてしまった。それぞれの下足棚で靴を履き替え、行くか、先輩の声に一歩踏み出す。

「先輩、このあと練習していきますよね?」
「あいつらのことだからやるだろうな」
「よしっじゃあそのあとは珍道中いきましょ!わたしチャーシュー麺大盛りで〜ゴチになりまーす」
「俺のおごりかよ!…ったく、しょうがねぇな」

外に出れば、またあの寒空が待ち受けているのだろう。桜の蕾はまだ、かたく閉ざされたまま。もうここに、先輩たちはいないけど。早く、春らしくならないかな。


20160425 魔女

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