ねぇねぇ、今日これからどこ行く? お腹空いたからなにか食べてこー。たとえるならそんな嬉々とした声が、放課後の廊下の遠く近くで交差していた。とりわけ月曜日の今日は、週明け特有の妙な気だるさからようやく解放され、その声もいやましに弾んでいるようにきこえる。あーわたしも早く帰りたい。早く帰ってだらだらしたい。なんて願望をあからさまに表情に出しつつ、踏み板のすこし汚れた階段を上ろうと宙に浮かせた右足は、「ナマエちゃん」と背後からわたしを呼ぶ声に階段手前でのろのろと着地した。上半身だけで振り向き目線をつつと上げれば、クラスメイトの及川がにこやかに立っていた。

「持ってくの手伝うよ。女の子ひとりじゃ大変でしょ」
「え、いいよ別に。これから部活じゃないの?」
「ダイジョーブ、今日休みだから」

わたしが抱えていた人数分のノートと先生が置き忘れていった分厚い教材の残りは、ひょい、とあっけなく奪われてしまう。え、手伝うっていうか及川ひとりで全部持ってこうとしてるじゃん。慌てて取り返そうと手を伸ばすけど、ずっと高いところで腕を上げられてしまっては届くはずもない。そうしている間にも、及川は階段の先にある職員室へと向かうべく歩き出した。だけどそのテンポが心なしかゆったりしているのは、わたしがついてこれるように、とか、じゃあないよね別に。ていうかわたし手ぶらだ。

「なんかごめんね」
「全然。気にしないでよ」

いいなあ。やっぱ身長おっきい。初めて隣に立ってみて、まず腰の位置が違いすぎて自分の標準体型に落胆せずにはいられなかった。それと、途中途中、すれ違う友人と言葉のキャッチボールを交わす及川を見ていたら、彼が男女問わず好かれている理由を改めて理解した気がした。わたしと及川は、まあ及川なんて呼び捨てしちゃってるけど特別仲良くはないしあんまり喋ることもない。みんな呼び捨てにしてるから、わたしも自然と。みたいな。それにものすごくイケメンで、バレーが桁外れに強いから、正直同じクラスになるまでは、自分とは無縁の別世界の人間くらいに思ってた。けど、及川は分け隔てなく相手がだれだろうと平等に扱ってくれるし、喋ってみれば別に普通の人なんだもんね。他の男子とちっとも変わんない。

「及川、今日はこれからどっか行くの?」
「えっなになにそれってデートのお誘い?」
「ちがいまーす」

ただいま、職員室手前のトイレを通過しました。えーなんでー俺ナマエちゃんとデートしたいー。肩を落として唇を尖らせる及川が、この間三歳になったばかりの甥っ子にそっくりでちょっとカワイイとか思った。ちょっとね。そんなことうっかり口にしたらショック受けるかもしれないから云わないでおくけど。逆に自分の予定を聞かれて家帰ってだらだらするって返したら、だらだらする暇があるなら俺とデートしてよ!ていうかなんでデートしてくれないの!意味わかんない!って強い口調で訴えられた。え、なんかわたしが悪いことしてるみたいなんですけど。意味わかんないって意味わかんない。大体デートなら立候補する子たくさんいるでしょ。そう考えて、だけど声に出すのはやめた。たぶん、だれかれ構わず遊んで変に気を持たせたりするようなやつじゃないと思って。

職員室の引き戸を静かにスライドし、左奥の方に視線を飛ばす。コーヒーの芳ばしい香りがくんと鼻を掠めて、見れば担任の佐藤先生はマグカップを口に運びながらパソコンと向き合っているところだった。

「せんせーもってきたよ」
「悪いなミョウジ……ってどうした及川」
「だっていつもナマエちゃんばっかりマジメに頑張ってるから、たまにはお手伝いしなきゃなーと思って」
「なんだ、お前ミョウジに惚れてんのか」
「はっ、ちょっ先生なに云ってんの」
「そのミョウジもここにいるんですけどー」

まあ確かにね、及川が率先して手伝うなんてそうあることじゃないだろうけど。迷惑なことに人をおちょくるのが大好きな担任は、わたしを見てニヤニヤ、及川を見てもニヤニヤ。たちまちいたたまれなくなって、逃げるように職員室を出たわたしたちは同じ道を辿って一階を目指す。あああ、びっくりした。びっくりっていうか、ドキドキっていうか。平気なフリしてたけど、結構恥ずかしかった。さらっと流してくれると思ったら、及川も若干テンパってたから余計にね。

「ねえ、及川すぐ帰る?」
「ううん。あ、もしかしてやっとデートする気になってくれた?」
「バカも休み休み云ってくださーい」
「ばーーかーー」
「は及川です」
「ナマエちゃんひどい!」

階段を下りて、そこから。一歩一歩がちいさいわたしの歩幅に合わせて、及川もおとなしくついてきてくれる。こうして並んで歩いていれば、時たま後輩の女の子たちからこわーい視線が飛んでくる飛んでくる。及川の彼女になる子は命懸けだなぁ。同情しちゃうわ。そうして目的地の自販機に到着したところで、わたしはスカートのポケットにずぼっと手を突っ込み、がま口の小銭入れを取り出した。

「手伝ってもらったお礼。なに飲みたい?」
「え、別にいいのに」
「いいから!どれがいい?コーラ?ファンタ?」

百円玉を二枚投入すれば、ボタンが青色の光を灯す。所々に、売り切れの赤い文字。律儀だなぁ、ナマエちゃん。無口な自販機は感心する及川の選択を今か今かと待っているのに、当の及川はどれにしよっかな〜これ飲もっかな〜やっぱりこっちかな〜なんてえらくのんびり考えている。早くしないとお金出てきちゃうよ。そう云いしな、及川の(男にしては長いだろう)指がボタンをぐっと押した。ガコンガコン、と騒がしく落ちてきたのは桃のネクタージュース。おっそろしく甘いやつだ。うげ。

「及川って意外と甘党なんだ」
「これはたまーに飲みたくなるんだよね。ナマエちゃんも飲む?」
「いらない。甘すぎてムリ」

おつりをしまって、壁に寄りかかりながら、プルタブを押し上げ缶を口にもっていく、そのなんてことない動作をぼんやり眺めていた。ああ、そっか。イケメンは何をしても様になるっていうのは、きっとこういうことなんだろう。及川がCMに出演でもしたら、このジュースも途端に売り切れ続出なんてことになるかもしれない。そのうち生産がおいつかなくなっちゃったりして。

「及川、さっきはありがとね」

え。さっき?だしぬけに云ったもんだから、及川の顔はそう訊ねてくる。目を何度もぱちくりさせて、ちょっとマヌケ面。だから、さっき職員室にいたときのことだって。そう答えてもまだなんのことかわからないらしい彼は、時おり喉を鳴らしてジュースを飲みながら、変わらずマヌケ面でわたしを凝視してくる。

「断れなくて嫌々手伝ってるだけなのに、マジメに頑張ってるって云ってくれたじゃん。うれしかったよ」

マジメにやってるわけじゃない。ただ、わたしがイエスマンだから、先生に都合よく使われているだけ。わたし自身、それはよく理解してる。よく理解してるのに、自分の性格を変えるとなればやっぱり難しい。それなのに及川がああやって佐藤先生に対して喋ってくれたことが、想定外中の想定外で、本当にうれしかった。
壁によりかかるわたしの隣で、及川も同じように背中をくっつけている。放課してだいぶ時間は経つけれど、廊下はまだ鳥カゴのようにざわついていた。ナマエちゃんはさ。缶に顎を乗せ、及川はゆっくりした動作で口を開く。

「嫌々やってるのかもしれないけど、先生はきっと信頼してるんだよ。ナマエちゃんが断れないから、とかじゃなくてね」

及川も、きっとそうなんだ。
『批判したり、蔑んだり、ネガティブなことを云うのは簡単だけど、お互いが共存できるポジティブなことを考えるのが大切なんですよ。』ちょっと前のテレビで、どこかのだれかも知らないおじさんがそう話していた。ひとつの事柄に対しても、角度を変えればいろんな見方ができる。だからこの人はきっと、ただネガティブに捉えるんじゃなくて、一見そうとしか思えないような物事からでも、前向きに捉えられる部分を見つけ出す。及川も同じだ。わたしはただ自分がイエスマンだから、そういう理由で先生にものを頼まれると思ってた。でも及川は、きっとこれまでの積み重ねから、先生の信頼があってのことだと云ってくれる。後ろ向きに考えず、美点として扱ってくれる。そういう意識のし方が、単純にすごいと思った。ただイケメンで、ただバレーが上手なだけじゃない。なんだこの男。同じ次元に住んでいるのが信じられないくらいだ。

「でもそれ、ナマエちゃんだからそう云うんだよ。俺、頑張り屋さんなナマエちゃんのことはいつも見てるからさ」
「うん。ありがと」
「俺、ナマエちゃんのこと好きなんだよね」

一瞬聞き流しそうになって、でもすぐに、時代遅れのパソコンみたくフリーズしてしまう。え、だっていま好きって。俺いまダブルチーズバーガー食べたいんだよねくらいのテンションでさらっと好きって。好きって。その二文字が、ぐるぐるぐるぐる、脳内で反芻する。及川はぱっと壁から背中を離し、かと思えば今度はわたしの顔の横に手をつき、わたしを狭い空間に閉じ込めた。俗に云う、壁ドンだ。

「すきだよ」

ちょっ、待って近い近い!わたしは身を捩り、必死で脱出を試みた。だって及川みたいなイケメンにやられたら冗談でもきつすぎるって!笑えないって!やめてよマジで。顔が熱湯をかけられたみたいに熱くて、廊下の向こう側から女の子の悲鳴が聞こえた。たぶん、絶対、わたしたちを見てるんだ。どうしよう。明日から無事に高校生活を送れる気がしないんですけど。

「返事は今する?それとも明日?」

この状況で明日にしてくださいなんて云って素直に聞いてくれるのか、はなはだ疑問だった。及川の顔がそろそろと近づいて、桃の甘ったるい匂いが伝わって、どうしたって解放なんてしてくれそうもないから、せめてもの抵抗で目を泳がせてみる。あっちを行ったり、こっちを行ったり。でもふと視線を戻したときにばっちり合わさってしまい、そこからは視線すら動かせなくなってしまった。及川の目は笑っているようで、でもギラギラしていて、それが怖いような、ドキドキするような。獰猛な肉食獣に捕らえられた子ウサギの気分だ。どうすればいいの、これ。大体わたし、及川のことそういう対象として見たことなんてないのに。逆になんでわたしなんだろう。もっとハイスペックな子がそこら中にいるのにさぁ。意味わかんない。今しようが明日しようが、返事なんてきっと決まってる。だったら今、はっきり云ってしまった方がいいのかもしれない。及川のことを思えば。なんてこの状況下で悶々と悩んでいたら、及川はまあ、と笑って云った。

「返事が明日でも明後日でも、うん以外の言葉は云わせないけどね」

え、意味わかんない。思わずそう呟けば、じゃあわかるまで云ってあげるよ。すきって。なんて及川は自信満々にわたしから言葉を奪うのだった。

20150204


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