◎謙也くんは高校生


良く云えばフレンドリー、悪く云えばなめられている。生徒たちの新米教師に対する接し方や反応なんて大概そんなもので、それはある意味わたしたちひよっこ教師の避けられない宿命であるような気もする。幸い後者の空気が濃くて授業中に騒がれることも今のところはないし、何より母校で教師としての経験を積めることは心にいくらか余裕と安心感を与えてくれた。

「ミョウジ先生おはよー」
「おはよう」
「ナマエちゃん今日も可愛えで!」
「こら、大人をからかったら駄目でしょ」

勿論、なめられている感が否めないわけではないけれど。

わたしはふと、自分の学生時代を想起する。部活動に精を出したり、ちなみにバレー部ね、好きな人と自転車の二人乗り或いは手を繋いで帰ったり、記憶は朧げになってしまってもそれなりに青春を謳歌していたんだなぁ。今からもう5、6年も前の話になる。昇降口へ駆けて行く教え子に目を細めながら、よし今日も頑張ろうとひとり気合いを入れたときだった。肩をぽんと叩かれ、振り返れば一際目立つ金髪の少年、忍足謙也くんがにこやかに挨拶をしてきた。

「ナマエ先生おはようさん」
「おはよう、忍足くん。昨日も遅くまで練習ご苦労様」

おおきに。笑う忍足くんは歩幅を合わせ、並んで歩き出す。
いつか小耳に挟んだことがある。「NOスピードNOライフ」を座右の銘に掲げる彼は、朝練のない日であればとうの昔に登校しているのだと。だから忍足くんのファンや友人曰く、この時間になっても彼が教室に着いていないのはとても珍しいことなんだそうだ。そりゃあ彼だって、ほぼ毎日行われるハードな練習にくたびれて、遅刻しない程度にゆっくり登校して来ることだってあるだろうに。ほぼ決め付けに近いそれを、忍足くんは窮屈に感じたりしないのだろうか。まあ、たとえどれだけ考えてみたとしても、一教師のわたしに分かるわけもないけれど。
それにしても、だ。
高校生でファンクラブまであるような生徒はそういないんじゃないだろうか。母校であるこの四天宝寺高校で、アイドル顔負けの人気を放つ三人の男子生徒を除いて。その三人とはわたしの隣を歩く忍足くんに、友人の白石くん、そして後輩の財前くん。話によると中学生の頃から凄まじい程の人気っぷりだったそうで、把握している限りでは彼ら三人のファンクラブが校内には存在しており、会員とでも云うのだろうか、まあそのファンクラブに属している女子生徒の数も半端じゃないんだとか。三者三様、人それぞれ好みはあれど、確かに彼らのルックスの良さはずば抜けていると思う。し、正直格好良いとも思う。大人とか子供とか、そういう年齢的なことは関係なく。
残念やなぁ。忍足くんは唐突に呟いた。何が残念なのかと言葉で訊ねる代わりに視線で反応を示せば、彼の二の句はわたしの表情を一層綻ばせてくれた。
「やって今日はナマエ先生の授業あらへんから」
拙いながらも、わたしが受け持つ英語の授業を熱心に聞いてくれる生徒も中にはちゃんといて、忍足くんもまた、その内の一人だったりする。そっか。そうやって残念に思うくらい、授業を真面目に受けてくれていたんだ。彼が発したのは、新米教師のわたしにとって嬉しすぎる一言だった。その言葉がどれだけ励みになるか、きっと彼は知らないだろう。

「忍足くん、他の授業もちゃんと真面目に受けてる?」
「んー……ぼちぼち。眠たくなってまうねん」
「わたしの授業は眠くならないの?」
「ちっとも。一生懸命教えとるナマエ先生が可愛すぎて眠気も吹っ飛ぶっちゅー話や」

可愛いだなんて単語をあまりにも自然に云ってのけるもんだから、わたしは反応していいものか困惑してしまった。仕方ないじゃない、ああいう風に褒められることに免疫がないんだから。結局返答できないまま、彼と別れたわたしは職員玄関で靴を履き換える。このピカピカの上履きが汚くなる頃には、教師としてほんのちょっとでも成長できていますように。

忍足くんの英語の成績ががた落ちを見せ始めたのは、それからすぐのことだった。当初は部活動との両立が大変なんだろうと、彼ならきっと持ち直せるだろうと信じ見守るだけに留まっていたけれど。それがいよいよ看過できなくなってしまい、テニス部の練習がオフの日、彼と面談することを決めたときのわたしの心情は非常に複雑さを極めていた。
一体どうしたのだろう。何か、悩み事でもあるのだろうか。もしそうなら打ち明けてほしい。解決への道標とはなれなくても、彼の心を晴らす最大限の助力はしたいから。とにかく力になりたい一心で迎えた職員会議は、全くと云っていい程頭に入ってこなかった。小川のせせらぎのように、右から左へさらさらと流れていく感じで。わたしは二つ以上のことを同時に熟せない。一つ気にかかる何かがあると、他が一切手につかなくなるのだ。そんなんでよく教師になれたなぁ、とつくづく呆れてしまう。長年勤めているベテランの先生方は、こうして職務を全うする中でも生徒たちのことをしっかり案じているのでしょう?今改めて、尊敬の念を抱いた。そうして碌すっぽ内容を把握できずに会議を終えたわたしは、小走りに3年2組へ向かう。前方の引き戸を開けると、窓際にぽつねんと佇んでいる忍足くん。朱に染まる教室は侘しさを漂わせていた。わたしに気付いた忍足くんは遅かったなぁと一言。ごめんなさい、会議が少し長引いちゃって。謝辞を口にするわたしに忍足くんは首を横に振った。

「そういう意味とちゃいます。俺、ずっと待っとったんです」

ナマエ先生が、こうして話を聞いてくれる時を。その言葉にわたしは、忍足くんが送っていたであろうサインに何故気付いてあげられなかったのか、と不甲斐無さや心苦しさを覚えながらも、一先ず対面になるよう忍足くんを座らせる。
「先生、ひとつ聞いてもええ?」
先に口を開いたのは忍足くんだった。
「先生はどないして教師になろう思ったん?」
面談とは何ら関係のないその質問に、正直なところ答えたくはなかった。けれど彼の真剣な眼差しを受けてしまっては、どうしてはぐらかしたりなどできるだろう。仕方なしにわたしは云った。絶対笑わないでね、と釘を刺してから。
「昔ね、大好きだった先生がいたの。それで、いつかわたしも教壇に立てたらなって」
そんなくだらない理由でと笑われるのも呆れられるのも嫌だった、だから教えたくなかったのだ。ちらり、忍足くんの反応を窺ってみる。すると彼は笑うどころか、そして呆れ返るどころかより真剣味を帯びた眼差しでこちらを見てくるので、わたしは視線を逸らせずに黙って彼を見つめ返した。

「……ほな、俺も教師目指そかな」
「え?」
「俺、ナマエ先生が好きやから。せやから俺も先生と同じ位置に立って、同じ目線で話がしたいねん」

わたしは絶句してしまった。忍足くんがわたしを好きだなんて、まさかそんなこと。もしこれが冗談なら、質の悪い冗談は止めなさいだとか注意のひとつくらい与えられたはずなのに。わたしに好きだと想いをぶつけてくる忍足くんの表情はやはり真剣そのもので、たとえからかわれているのだと思いたくともそうすることは到底許されなかった。先生が好きやねん、彼は繰り返す。
「朝練があらへん日に遅く登校するようになったんは、あの時間にナマエ先生が来るっちゅーことを知ったからなんや」
瞬間、わたしは思わず立ち上がった。その勢いで倒れてしまった椅子なんて気にも留めない。逃げ出せるものなら逃げ出したいよ。お願いだから、これ以上わたしの心を乱さないで。でないと、でないとわたし、

「先生は俺んこと、どう思ってるん?」

じりじりと後退り距離を空けるわたしの手を強く掴むと、忍足くんは返答を求めた。本気でわたしが好きだったから、沢山話し掛けることで意識してもらえるようアピールしてきたつもりだったのだと。先生は、気になったりせえへんかった?質問に質問を重ねてくる彼は、返事を聞くまで食い下がってはくれないようだ。「……わたし、は」確かに忍足くんのことは気になっていた、かもしれない。けれどそれはあくまで成績不振が続いていたからという以外に理由など存在しないはずだし、何よりそれ以外に理由があったとしても素直に認めたくはなかった。と云うより認めてはいけないのだ。何故ならわたしは教師で彼は生徒。自分の気持ちを最優先し、禁忌を犯してしまえば、もう二度と平穏で変哲のない日常には戻れないからだ。いつ誰かに感付かれてしまうかも分からない、そんな不安や恐怖と闘える自信をわたしは持ち合わせていなかった。だから認めてはいけない。彼を好きかもしれない、だなんてことは。

「謙也って、名前で呼んでや。先生」

葛藤するが故に言葉を濁し返答しあぐねていると、今度はそんな要求を突き付けてくる謙也くん。なんて卑怯なんだろう。気付かないように、気付かないようにと心の奥底に封じ込めていたこの想いを、間近に迫った彼の瞳はいとも簡単に暴こうとしてしまうのだから。わたしは俯いた。とくとくと握られた手から伝わる熱に、心ごと溶かされてしまいそうだ。
「謙、也、くん」
俯き、おずおずと呟くのは彼の名前。ああ、云われるがままに彼の望みを叶えてしまった。先生は聞いてこおへんの?そんな謙也くんの問い掛けに、わたしはただただ押し黙ることしかできない。彼のことを名前で呼んでしまった癖に、既に一歩踏み出してしまった癖に、こうやって躊躇うのは保身の為?それとも彼の未来を想って?

「……わたしの、ことも、」
「先生、もっかいちゃんと云うて」
「わたしのことも、名前で呼んで」

か細く震える声でそう紡げば、謙也くんはいつも見せるような無邪気な笑みじゃなく、大人びたそれを携えて応えてくれたのだった。

「ナマエ」

途端何かが弾けるような、神経に電流が走るような感覚に襲われて。ほとんど衝動的に謙也くんの胸に抱き着けば、彼はわたしをぎゅっと抱き締め返し、何度目かの「好き」をくれた。温かい彼の腕の中と彼自身の体温に、最早実感せざるを得ない。かもしれない、なんかじゃないの。本当は、わたしだって謙也くんが好きだったってことを。わたしがあと数年、遅く産まれてきていたら良かったのにね。若しくは謙也くんが、あと数年早く産まれてきていたら。そしたらわたしたち、もっと素直に互いの感情を曝け出せたはずでしょう?何にも囚われることなく、ただありのままに。両想いなのにこんなにも苦しいのは、決して埋められない歳の差や、教師と生徒という危険な立場がわたしを捻り潰そうとしているから。それでも、一度はっきりと自覚してしまったこの気持ちを以前のようにごまかすことは敵わなかった。

「好き、好きなの、」
「俺も、ナマエが好きやで。何があっても、俺が絶対守ったるから」
「……ばかね、それはわたしの台詞でしょう?」

もう引き返せないのならば、せめて彼の手だけは離さないようにこのまま走り出してしまおうか。遠い、遠い向こうまで。


楽園に名前はいらない//誰花

20110510

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