ミョウジナマエ、高層ビルの中、ワンフロア一帯にオフィスを構えるこの企業に入社して二年目。所属、経理部。事務員ときどき、お茶出し担当。志望動機、特にナシ。強いて云えば、商業科出っていうのと、事務員さんの制服が可愛かったから。同じ部署の子は入社してからみんな彼氏ができて……いないのはわたしだけ。県外から上京してきて、出会いなんて沢山あるものだと思ってた。でも実際は、残業漬けの日々。女の子には彼氏とデートなの、課長には結婚記念日だから、そんな風に頼まれればどうしたって断れない。だけどわたしだって、わたしだって、たまには早く帰って飲みに行ったりしたいよー!そんな相手いないけどー!

「(あ、幸村さんだ……)」

帰り際、隣の営業統括部から出てくる幸村さんを見掛けた。幸村さんは入社して確か五年目のスーパーエリートだ。仕事もできるし(社内報を見れば売上達成度ランキングの常連さん)、顔もいいし(この会社だけじゃなく同じビルの別のオフィスの人も狙ってるって噂)、人柄も穏やかだし(会話してる姿を見ればよく分かる)、あとはテニスの腕が桁外れに優れているみたいで、いまは社会人実業団に加入して選手としての道を続けているんだとか。ミラクルハイスペック幸村さん。今日も素敵だなぁ。こんな人が恋人なら最高なのに。
エレベーターに向かうわたしの足取りと、幸村さんのそれはほぼ同じだった。わ、ラッキー。なんて喜んだのも束の間。幸村さんの背後で彼の名を呼び、早足で追いかけてくる女性の姿が視界に映った。同じ営業統括部の黒瀧さんだ。幸村さんと同期で、彼と交際しているのでは、と一部では囁かれている。キツそうな印象も受けるけど、夜会巻きの似合う長身の綺麗な人。

「幸村くんもいま帰りなんだ。ね、よかったらこれからどこか食べに行かない?」

幸村さんと黒瀧さんが、そして反対方向からわたしがエレベーターの前までやってくると、お互いに軽く会釈をして、それからボタンを押し、エレベーターが降りてくるのを待つ。黒瀧さんの目は肉食獣のようにギラギラしていた。営業に向いてそう、と思った。
二つ並んだエレベーター。どちらも動きはゆっくりで、到着の兆しはいまだ無し。遅いなあ。なんだか妙に居たたまれなくなって、どうにも引き返したくなった。忘れ物をした振りなら、いくらでもできるから。

「ごめん、今日は用事があるんだ」
「そう……残念。じゃ、しょうがないから一人で行こっかな」

幸村さんの返答に、ちょっとだけホッとしてしまった。一瞬、黒瀧さんのわたしを見る目が挑発的で、親しげな様子を見せつけているみたいだったから、当の幸村さんが断ってくれたことに、内心安堵せずにはいられなかった。すると黒瀧さんは、口ではそう云いつつも心底面白くなさそうな顔付きで、急に踵を返して営業部の方に戻っていった。立ち去ってくれたことにもホッとしてしまったなんて、彼女が知ったらさぞかし怒るだろう。それから稍あってエレベーターが到着すると、わたしは幸村さんと一緒に乗り込んだ。そう、乗客はわたしたち二人。二人きりだ。

「あ、あの、幸村さん」
「ん?」
「今月の社内報、見ました。また一位になってて……すごいなあって」

同じ企業に属しながらも逆に考えれば接点がそれしかないわたしには、仕事の話題を切り出すので精一杯だった。だってまともに会話したことなんてない。こうやって二人きりになったことだってない。だからそれが、絞り出すことのできた精一杯の一言だった。それにしても、すごいなあって、そんな陳腐な言葉しか浮かんでこないなんて。頭弱いとか、きっと思われたに違いない。

「ありがとう。そう云ってもらえると嬉しいよ」

それでも幸村さんは微笑んでくれて、わたしは嬉しさと気恥ずかしさから口元をマフラーで覆った。心臓が、それはもう痛みを感じるくらいにバクバク脈打っている。経験値、足りなすぎだよね。

「名前、ミョウジさんだよね?」
「え?……あ、そうです、ケド。わたしの名前、知っていらしたんですか?」
「うん。いつも遅くまで仕事頑張ってるから、どんな子か気になって」

仕事熱心だなって、いつも思ってたんだ。
まさか誰かに、しかも部署の違う幸村さんにそんなことを云ってもらえるだなんて想像もしていなかった。残業するしか取り柄がないような、そんなわたしの姿を見ていてくれた人がいたなんて。思いもしなくて、信じられなくて、だけど嬉しすぎて、涙で視界がぼやけた。

「ありがとうございます~……そんなこと云われたの初めてで……感激して涙出ちゃいました~」

こんなこと、わたしにすれば“こんな”では済まされないことだけど、こんなちょっとしたことで泣いてしまうなんて情けないにも程がある。ああでも、やっぱり嬉しい。嬉しすぎる。
わたしがバッグから取り出すよりも早く、幸村さんが自分のハンカチを差し出してくれた。青藍色の上品さ漂うハンカチ。受け取ることは受け取ったものの、わたしの涙で汚すのがあまりにも勿体ないというか申し訳なくて、非常に使いづらい。そんなわたしを見てだろう、幸村さんはわたしの手からハンカチを回収すると、あろうことか彼自身の手で涙を拭い始めた。左手をわたしの頬に添えて、優しくハンカチを押し当てる。大事件と云ってもいい。こんなことがあって許されるのだろうか。本当にもう、夢みたいだ。

「手、冷たかったらごめんね」
「あ、あの幸村さん!大丈夫です、わたし自分でやりますから」
「いいの、やらせて。よく考えれば俺が泣かせちゃったんだし」
「い、いえわたしが勝手に泣いただけで……」

いいの。そう、幸村さんにぴしゃりと制されれば、口をつぐむしかなかった。ハンカチが頬に触れ、涙の跡を綺麗にしてくれる。幸村さんの視線は勿論のことわたしに向けられていて、一方のわたしは自分のそれをどうしたらいいのかよく分からなくなり、目を瞑ることにした。そうした方が、羞恥も軽減されると思ってだ。

「はい、目開けてもいいよ」

作業(?)はすぐに終了し、そんな言葉が降ってきた。まあ、号泣ってほど泣いたわけでもなかったから……。目を開けたら幸村さんがハンカチをコートのポケットにしまおうとしていたので、わたしは物凄い勢いでそれを引ったくった。咄嗟の出来事だ。幸村さんは何事かと目を丸くしている。

「わ、わたしが洗って返します!」

余程の剣幕だったのだろう、幸村さんは思わずといったくらいに吹き出した。それから笑いがおさまると「ごめんね」と恐らく笑ってしまったことに対する謝罪の言葉を口にしてから、「返すのはいつでもいいから」そう気遣ってくれた。残業ばかりのわたしへの気遣いだと、勝手に解釈させてもらった。

「あ、それと」

エレベーターは、一階まで降りてきた。幸村さんと、お別れする時間だ。時間、なんて云い方は随分と大袈裟かもしれないけど。この箱の中にいた時間が、わたしには本当に長く感じられた。もう少し二人きりでいられたらよかったのに。だってこんな機会、もう二度とないかもしれないじゃない。途端に、寂しさが募っていく。

「本当は今日、誘いを断るほどの用事なんてないんだ。黒瀧さん、いつもしつこいから」

内緒ね、幸村さんは口に手を当てる。チン、という音がして扉が開けば、彼は一歩踏み出した。天井高の高い開放感あるエントランスロビーは、時間が時間なだけに人もそういない。外は夜の帳が下りきって、ネオンが煌々と輝いていた。

「じゃあ、また明日」

最後にまた微笑んで、彼は颯爽と歩いて行く。ああ、そっか。ハンカチを奪ったってことは、“次”があるんだ。明日か、明後日か、そんな細かいことはどうだっていい。仕事頑張ってきて良かった!残業も悪くないって、初めて思ったよ。


恋をしたといったら笑いますか//獣
20131204


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