「あ、いちごパンツ先輩や」
あるときからわたしは、“いちごパンツ”などという不名誉かつ恥ずかしいことこの上ないあだ名で呼ばれるようになってしまった。そんなあだ名をつけたのも、そしてそのあだ名でわたしを呼ぶのも後輩の財前だけなのだが、よりによってこいつの前であんな醜態を晒すとは。思い出せば今でも自分のケツを蹴っ飛ばしたくなる。
「ええ加減その名前で呼ぶのやめぇや。ほんま恥ずかしい」
「いやですわ〜こないおもろいネタめったにあらへんし」
「もう一生お嫁に行かれへん……」
財前の前で派手にすっ転び、パンツを、しかも今時はいてるJCなんていないであろういちご柄のパンツを、この男に見られてしまったのだ。あのときの財前の顔ったら。それはそれは素晴らしい弱味を握ってやったぞ、とでも云いたげに、口角を吊り上げ笑っていた。あの事件のことは、今でも鮮明に覚えている。というかむしろ、一生忘れられない。
「にしてもいちご柄とか初めて見ましたわ。先輩って結構少女趣味なんすね」
「少女趣味ちゃうわ。は〜Tバックでもはいてくればよかった」
「あるんすか?」
「まさか」
まったく、財前の云う通りだ。一体わたしはなぜ、いちごパンツなんてしょうもない柄のものをはいてきてしまったのか。遡れば、どうしてそんな柄のおパンツを買ってしまったのか。もっとこう、ファッショナブルないちご柄だったらまだいい。わたしがはいていたのは、せいぜい小学生の女の子が好みそうなフツーの、キッズコーナーで売っていそうないちご柄。某いちご100%じゃあるまいし、血迷ったとしか思えない。謙也辺りがしょっちゅう理由聞いてくるから、はぐらかすの大変なんだよ。まあ、Tバックをはいてこようが、豹柄のパンツをはいてこようが、どのみち財前には“Tバック先輩”とか、パンツの柄で呼ばれていただろうけど。でも、いちごパンツって。ないわ〜。
「ほんま、嫁に行かれへんかったら責任取ってもらうで」
「ええっすよ。ほな、付き合いましょ」
「は?」
「俺、ナマエ先輩……やなかった、いちごパンツ先輩のこと好きなんで」
わたしはもう一度、は?と上ずった声を発してしまった。わざわざいちごパンツに訂正したのは目を瞑るとして、財前が、わたしを、好き?冗談やめてよ。どうせまたからかってるんでしょ!そう、噛み付いてやるつもりだったのに。
(財前……耳、真っ赤)
本気の本気なんだって、すぐに分かった。どうしよう。なんかすごい、恥ずかしいんだけど。パンツを見られたときとは違う、照れ臭くて、むず痒い感じ。告白なんてされたことなくて、だから今、告白はされる方もこんなに緊張するんだって、身をもって知った。わたしでさえ、こんなにドキドキしているんだ。財前は、きっともっと、心臓バクバクかもしれない。うん。ちゃんと伝えよう。わたしも、財前が好きって。唇が震えちゃって、言葉につまっちゃって、うまくは云えないかもしれないけど。
「あの……はい。わたしも、財前が好きです」
いつも生意気で、意地悪で、年相応に見えなくて、たまにとんでもなく悪魔みたいな財前が、小さな子供みたいに嬉しそうに笑うから。その瞬間、ピンと張っていた緊張の糸はあっさりほぐれて、わたしも一緒になって笑った。
「ちょお、いちごパンツちゃん。ここ、抜けてんで」
「えっ、あ、ほんまや……ってまたそのあだ名!」
「一生モンやな」
「も〜……」
テーブルの前に隣同士で座る、わたしと光。今日は久しぶりに天気がいい。暖かな日差しと、開け放された窓から入り込む優しい風、揺れるレースのカーテン、薬指のエンゲージリング。ここには、何もかもが揃っている。光に指摘された部分の記入を終えると、わたしたちふたりは、広げられたA3サイズの用紙を覗き込んだ。左上には、婚姻届の文字。付き合って六年、ついにわたしたちも結婚かぁ。
「わたし、財前になるんやね。なんか、実感わかへん」
でも、あとちょっとしたら、わたしはミョウジナマエから財前ナマエになる。免許証も保険証も書き換えなければいけないし、表札も変わる、初めて会う人に自己紹介するときは、“財前ナマエです”って名乗るのだ。うわ、なんか変な感じ。
「なぁ、あんときナマエ云うたこと覚えとる?」
「あんときって?」
「嫁に行かれへんかったら〜、っちゅーやつ」
「当たり前やん。忘れるわけないやろ」
婚姻届を丁寧に折り畳んで、ファイルにしまう。印鑑と必要な書類の確認もばっちりだ。何度も何度もふたりで確かめたのだから、足りないものがあるはずない。あとはこれを、出しに行くだけ。どうしよう、緊張してきちゃった。
「ほんまに、俺でええんやな?」
わたしをまっすぐに見据える光の顔は、六年も経てば随分おとならしくもなったけど、でも、何も変わらない。シャープな輪郭も、見つめられればドキドキしてしまう瞳も、毒吐きな唇も。あの頃と何一つ、変わってなんかいない。もう、今更なに云ってんのよ。馬鹿だなぁ。責任、取ってくれるんでしょ?あのとき、そう約束したじゃない。今になってキャンセルなんて、そんなのできないんだからね。
「ふつつかものですが、よろしくお願いします」
ペコリ、頭を下げる。そしてすぐに、顔を上げる。すると光は、笑っていた。好きですと告げたあのときのように、すごく嬉しそうに、笑っていた。だからわたしも、一緒になって笑った。そうして行こう、と光の手を取り、玄関でお気に入りのパンプスを履いて、外に出る。室内で感じていたよりもずっと暖かな日差しの下、わたしと光はしっかり手を繋ぎ、幸せへの道のりを歩み出した。
悲しみもしあわせもあなたがいい
入籍前のふたり
20130427