俺たち男子にとって、年上のお姉さんというのは女神のような神々しい存在なのだ。おそれ多くも、その女神に憧れ以上の、つまり恋をしてしまう不届き者だってこの地球上にごまんといるわけで。かくいう自分もその一人なのだが、俺が心を寄せてしまった相手は、あろうことか姉貴のふたつ下の後輩であり、家庭教師を務めているナマエさんなのである。
ナマエさんのことは、よく家に遊びに来ていたからなんとなくは知っていた。一見すると清楚で、だけど肉付きのいい体からはフェロモンがだだ漏れで、やっぱり同級生には感じられないエクスタシーを、彼女は秘めていた。それが家庭教師をやってもらうことになったのは、姉貴の一言がきっかけの、まさに青天の霹靂というやつで。

「こんばんは、蔵ノ介くん」
「こんばんは。今日もよろしくお願いします」

ところがこの女神、優しい面持ちとは裏腹にドえらいスパルタ。解き方が分からないとか以前に、集中してないと厳しいお言葉が返ってくる。集中してない、というより、集中できないのだ。ナマエさんがこんな間近にいると思うと、アホみたいに緊張して。こうして至近距離で見るナマエさんの横顔は、とても美しい。あとは、車を片手でバック駐車するときの、あの余裕そうな横顔も好きだ。照り付ける太陽によく映える、小振りで真っ赤な車。いつか乗ってみたいなんて思ったけど、男が助手席ってのもなんか恥ずかしいしなあ。どうせなら、自分の運転する車に乗ってほしい。万が一醜態を曝してしまわぬよう、初心者マークが外れる頃にでも。

「蔵ノ介くん、きみが見るのはこっち」
盗み見していたのがバレてしまい、ナマエさんは笑顔で頭を掴み、机の上の問題集へと向けさせる。おかんより怖いわ、このオネエサン。四天宝寺のバイブルがこのザマだ。おののきながらも、おとなしくシャーペンを走らせる。そんなに難しい問題でもないから、真面目に取り組めばすぐにでも終わりそうなのだが。それをしないのは、一分一秒でも、ナマエさんといる時間を伸ばしたいがため。週二回の一時間半なんて、練習中に姿をくらました千歳を捜すよりも、あっという間すぎる。許されるなら、もっともっと、こうして近いところでナマエさんを見ていたい。

「せや、蔵ノ介くん。受験合格したら、きみに褒美をやろう」
「褒美、ですか?」
「うん。好きなものひとつ、まあものやのうてもええけど、買うてあげるわ。プラモデルでもメンコでもええよ。あ、高すぎるのはなしやで」
「メンコって……俺小学生ちゃいますよ」
「あはは、せやなあ」

明らかに子供扱いされて、ちょっと凹んだ。プラモデルにメンコかい。同じ学校の子にキャーキャーラブコールを送られても、ナマエさんからしたら所詮はガキンチョってことか。だけど願い事を叶えてもらえるなら、それを糧に、いま以上に頑張れる気がする。ちなみに俺の望みは、考えるまでもなく、既に決まっていた。もちろん、余裕ぶっこいていられるほど受験戦争は甘くない。俺が受けようとしているのは、府内でもかなり難関とされる進学校なのだから。それでも、願いが叶うそのときが楽しみやなあ、と期待に胸を弾ませながら、俺は問題集をめくった。


二月下旬、いよいよ本番の日を迎えた。暦の上に春は立ちながらも、吐く息の白さからはまだ暖春は窺えず。見慣れない校舎の正門をくぐり、昇降口で用意した上履きに履き替えると、リノリウムの廊下のその先に続く、試験教室へ向かった。……ここだ。ドアを静かにスライドさせれば、多種多様な制服に身を包んだ受験生が、各々の席に座していた。単語帳を開いていたり、携帯を開いているやつもいる。自分の席に腰を下ろし、俺はまずいの一番に、制服のポケットからお守りを取り出した。これはナマエさんが、最後の授業の日にくれたものだ。しかし、お守りに記されているのは“安産祈願”の文字。なんちゅーベタな。そういうそそっかしいところも、彼女の魅力のひとつだとは思うが。

「(…よし、頑張るで)」
見事に進学先がバラバラのテニス部のメンツとは、さっきまでラインで叱咤激励し合っていた。あいつらなら、絶対大丈夫や。俺は、そう信じている。やがて時間になり、試験監督が入って来ると、室内に漂う緊張感はより濃さを増す。大丈夫、自信を持って。蔵ノ介くんなら、絶対できるから。まるで呪文のようなナマエさんの言葉。何度も心の中で唱え、試験監督の「始め」という一言を合図に、寝転んでいたシャーペンを握った。

「もしもし、ナマエさん。いま、ちょっとええですか?」
入試からちょうど一週間。おかんと見に来た、合格発表。高校に着いた数分後には掲示板に合格者の番号が貼り出され、さくら咲く、おめでとうやね。おかんは、そう云って笑った。
『大丈夫やよ。結果、どうやった?』
『なんとか受かりました』
『せやろなあ!声がウキウキしててんもん。おめでとう、蔵ノ介くん』
『ナマエさんが教えてくれはったからです。ほんまにありがとうございます』
『なに云うとるん。もー……なんか嬉しくて泣きそうになってまうやんか』
すぐに報告したかったから、電話という手段を選んだ。けど、本音を云ったら、いますぐ会いたい。会って直接、おめでとうが聞きたい。身勝手な心情が理解されるはずもない、頭ではそう分かっていても。いまから、会って話せないだろうか。

『蔵ノ介くん、まだ高校の近くにおるんやろ?これから予定ある?』

“ドライブせえへん?”
彼女の優しい声色の後ろで、ドアを閉める音がした。次いで、キーを回す音。もちろん、断るわけがない。おかんにはともだちと会うてくる、と適当に告げて、校舎を背に少しだけ歩き出す。やましいことはないのに嘘をついてしまったのは、多分ちょっと、後ろめたい気持ちがあるからで。ナマエさんは姉貴と仲のいい後輩で、数ヵ月の間、俺の家庭教師を務めてくれただけの人。俺のことを弟くらいにしか思っていなそうな、何歳も上のお姉さん。何か進展を望むのは、不謹慎なのかもしれない。
「(せやけど、約束は約束やしなあ……)」
彼女を待っていた俺は、よく知るエンジン音に顔を上げる。ナマエさんだ。エンジン音を聞き分けられるなんて、我ながらすごい特技だと思った。横付けされた車の助手席を開けようとして、あ、と躊躇する。助手席は彼氏だけとか、ないんかな。俺、後部座席の方がよくないだろうか。するとナマエさんは、俺が憂慮しているのを知った上でか、何ボケーッとしてるん、と歯を見せて笑った。
初めて乗った、彼女の車。彼女と同じ、バニラの甘い香りがする。よく見れば、いつもはおろしていることの多いナマエさんの髪が巻かれていた。主張しすぎない、綺麗なゆる巻き。俺の視線に気付いたナマエさんは、今日はなあ、と嬉しそうに語り始めた。

「蔵ノ介くんの合否が決まる特別な日やからな。わたしも気合い入れてきてん」

また、そうやって。高みから俺を見下ろして、余裕に満ち溢れた表情で、俺の心をかき乱す。そんなの、冗談だって知ってる。なのに、もしかしたら、なんて勘違いをしてしまいそうにもなる。狡いなあ、ナマエさんは。
郊外に抜けてみたり、彼女が適当に車を走らせている間は、他愛ない話をして二人きりの時間を過ごした。それで、そろそろ戻ろうかって流れになって、そうですね、と俺は素直に従った。甘ったるすぎないバニラの匂いも、微妙な音量で流れる誰か分からない女の人の歌声も、揚々とハミングするナマエさんの横顔も、全部が心地よくて、時間の経過を忘れてしまいそうになる。

家の近くまで戻ってきたところで、ナマエさんは思い出したように云った。
「買うてほしいもんは?決まった?」
このタイミングでその話題を切り出すところも、やっぱり狡い。いままでは、その話に触れさせないようにしていただろうに。それをいま、云わせるのか。自宅まであと数百メートルという、このタイミングで。
「ものちゃうんですけど、ええですか?」
「なんでもええよ。で?」
「あの、俺……ナマエさんとどっか遊びに行きたいです。遊園地でも、水族館でも、ナマエさんが行きたい場所でええんで」

俺の叶えてほしいことに対する返答は、「うん。ええよ」の一言。あっさりしすぎて軽く流されたような気もしたが、「ほな、春休みの間に遊園地でも行こか」と餌を与えてくれたから、沈みかけた心はたちどころに浮き上がる。単純すぎやろ、俺。そうこうして、車は家の前まで戻って来てしまった。具体的な日取りを決めるまでには至らなかったので、残念ながらそれはまた今度。

「あ、待った蔵ノ介くん」
惜しみながらも車を降りようとする俺を引き止めるナマエさん。首だけを動かして彼女の方を見たら、彼女の顔が思いの外近いところにあって、キスを受け入れる女の子のように、反射的に目を閉じてしまった。

「はい、あげる」
唇に触れたのは、温かくて固いもの。目を開けたら、小さなペットボトルのホットレモンが、押し当てられていた。……しまった。つい、目を瞑ってしまった。
「なんや、キスされる思たん?」
意地の悪い笑みを浮かべるナマエさんは、やっぱり狡くて、一枚も二枚も上手だ。一瞬の痴態は、きっとこの先ずっと、ネタにされてしまうのだろう。恥ずかしいし、格好悪いし、最悪だ。

“またあとでメールするね”
別れ際、車を降りた俺に助手席の窓を開けてナマエさんは云った。いたずらで奔放な俺の女神の“あとで”が、今日なのか明日なのか明後日なのかは知らないが、俺のことだからきっと何度も何度も、センター問い合わせをしてしまうのだろう。ああ早く、彼女に似合う大人の男になりたい。

花と横顔//誰そ彼
20130329

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