――財前光 東京支社への異動を命ずる
記された名前を見て、やっぱりな、わたしは密かに肩を落とした。

通常、異動が行われる時期は一般の企業と同じで四月と七月、そのおよそ一ヶ月前にこうして発表されるのだけど。当然、良くも悪くも例外はあるわけで。正直、財前が本来の時期を待たずしていってしまうことはなんとなく予想していた。これだけ社内で一目置かれている優秀な人材を、本社が見過ごすわけがない。

二年前、新卒として入社してきた財前光はまさに“能ある鷹は爪を隠す”というやつで、非常に頭のキレる人間だった。いつも淡々と、声色なんかいつ聞いたってやる気のカケラもなさそうな癖して、仕事は正確だし、迅速だし、周囲の社員を瞬く間に追い抜いてしまうくらいプロ意識は強かった。仕事ができて、おまけにイケメンとくれば、まあ女性陣からモテることモテること。事務員さんも取引先の人も掃除のおばさんも、みんな財前の前では目をハートにしていた気がする。

「よろしくお願いします、ミョウジさん」
仕事人間のわたしにとって、この男は脅威の中の脅威だった。
わたしの方がずっと先輩で、それなりの地位も肩書きも手にしていたけれど、いつ自分のポジションを奪われてしまうのか、あの頃はヒヤヒヤしたものだ。もっとも、財前はより質の高いものを作り上げたいという意欲こそあれど、肩書きにはさほど興味がないようなので、それを知ったときは大層安堵したのを覚えている。そりゃあわたしだって、男が圧倒的に多いこの会社の中で上層部から高い評価を得られるくらいには業績を残してきた。でもそれは、“女にしては”とか“女のくせに”とか、所詮そんなもの。同期で入った子たちのほとんどが寿退社で去っていく中、仕事が恋人のわたしはきっと周囲からすれば“売れ残り”や“余り物”のような残念な存在なんだろう。見返してやろうと思えば思うほど孤独に呑まれている気がして、時々ふと、虚しくなる。それでも辞めるなんて選択肢は端から持ち合わせていない、それが仕事人間の性なのだ。

「ミョウジチーフも生でええですか?」
「うん、ありがとう」

会社近くに店を構える大衆居酒屋の座敷を貸し切り、今日はこれから財前の送別会が行われる。普段は会社の飲み会に参加しないわたしも、幹事がしつこかったのと、こういう時くらいは、という気持ちでやって来た。部署内のほとんどが集まっているようで、無口な財前がそれだけ慕われてきたのがよく分かる。その財前はちょうどわたしの斜め向かいに座しており、乾杯のドリンク待ちの間から既に両隣の事務員さんたちにせっせせっせと話し掛けられ、まったく忙しそうだ。人数分の生ビールが運ばれると、部長がゴホンと咳払いをひとつ、それから乾杯の挨拶のために立ち上がる。

「――では、財前くんの東京支社での活躍を祈り、乾杯!」
「乾杯!」

取り分けたサラダや揚げ物を突っつきながら、ビールのあとは芋焼酎をロックで。
「(やっぱ赤霧島は美味しいなあ)」

しかし、まあ。開始して一時間もすれば、酔いもいい感じに回ってくるわけで。熱燗は出るわワインはやるわで、周りもかなりヒートアップしている。もう自分の席なんか関係なくて、みんなあっちへ行ったりこっちへ来たり。わたしもみんなと同じだけ飲んでるし、酔ってるつもりなんだけど、いかんせん場馴れしていないからか、あんなハイテンションにはなれそうもない。仕事以外にどんなことを話したらいいのか分からず、結局独りぼっちで飲んでいる始末だ。みんな楽しそうでいいな、なんて。ぐい、とグラスを空にする。次はなに飲もう。

「ミョウジさん、隣ええですか?」
「どうぞ。なんかもうお疲れだね」
「まあ……あっちこっち振り回されて、しまいには主役そっちのけっすから」

くたびれた様子の財前が隣に腰を下ろし、持っているグラスの中の赤い海が小さく波打った。カシスオレンジだろうか。甘いカクテルが苦手なわたしは匂いでもうギブアップだ。鳥軟骨の唐揚げを口の中に放り込むと、財前はわたしのグラスに視線を移す。何飲んではるんですか、という問いに芋ロックと返せば、財前はあからさまに顔をしかめた。

「ほんま酒強いんすね。芋とか絶対飲めへん」
「まあ自分でセーブしながら飲めるから泥酔したりはしないかな。財前は強い方?」
「いや全然。この間も藤原さんに潰されてしばらくグロッキーでしたわ」

へえ。お酒弱いんだ、意外。あ、なんかちょっと、勝った気分。酒の強さなら、わたしの方が上…かな?こんなことで競ったって、なんの利益にもならないけど。
「財前はみんなとよく飲むの?」
「たまーに、気が向いたら行く感じっすね。やって、」

“あんたがおれへんと、おもろないですし。”

しれっとした顔でそんなことを云われ、動揺のあまりグラスを座敷に落としてしまった。「(空で良かった…)」はいはい、とかなんとか大人の余裕を見せ付けるつもりだったのに。男性経験ほぼ皆無のわたしには、さっきの一言は強烈かつ刺激的すぎた。財前は隣で腹抱えてめっちゃ笑ってるし。しかも今あんたって云ったよねあんたって。ほんと、生意気なやつ。なぜだか無性に悔しくて、梅酒ロックの予定を変更し、今度はウィスキーをロックで注文した。白州の18年。それきたらこいつに飲ませてやる。生意気な発言はもう少しお酒が飲めるようになったらしなさい、ってね。


 送別会が開始して数時間が経過し、そろそろこのどんちゃん騒ぎも収拾がつかないところまできていた。これ以上店員さんに迷惑を掛けるわけにもいかないので、幹事にどうにか二次会会場へ移動するよう促してもらい、ぞろぞろと外へ出る。生温い風が頬を撫で、足早に去っていく。今日は暖かいから、酔いざましにはなりそうもないな。二次会は、適当なところまで出たらドロンしよう。多分あの騒がしさなら、わたし一人いなくなったって誰も気付きやしないだろうし。帰宅の計画を立てつつ移動を始めたみんなに続こうとすれば、突然背後から腕を引っ張られた。

「財前?どうしたの……ってあんた、大丈夫?」

腕を掴んだ張本人である財前は、いったい何杯飲んだのか知らないがわたしの腕を支えにフラフラ揺れていた。目が完全に酔っ払いのそれだ。

「そんな状態じゃ危ないと思うし帰ったら?家はどこ?」
「誰が帰る云うたんですか…俺、まだぜーんぜん酔ってへんし……ね、ミョウジさん」
「ね、じゃありません。酔っ払いはみんな酔ってないって口を揃えて云うの。あなたは十分酔ってるから」

呂律も回ってないし、二次会行ってもすぐ酔い潰れるだろうことは一目瞭然だ。しかし困った。わたし財前の家の場所なんて知らないし、そもそも本人がまだ帰らないって云い張るし、おまけに顔色悪すぎ。誰かなんとかしてと助けを請うも、みんなの姿は豆粒程度にしか見えなくなっていた。会計終わってお店出るまでうだうだもだもだしてたくせに、こういうときだけは行動が早いんだから。ちょっと前まで財前にべったりだった事務員さんにまで見捨てられ、道のど真ん中で酔っ払いにしがみつかれたわたしに突き刺さる、通行人の視線がとても痛い。こうなったらタクシーに無理やり突っ込むしかないかな……ほとほと困り果てていると、財前がはっと顔を上げた。

「せや、どっか別の場所で飲み直しましょうよ」

云うが早いかぐいぐいわたしを引っ張り歩き出す財前。さっきまでの酔っ払いはどこにいったんだ、そう思わずにはいられないくらい足取りはしっかりしていて、どこへ行くつもりなのかわたしは連行されるがまま。やがてたどり着いたのは所謂ラブホテルというところで、まさかこいつ確信犯じゃなかろうかと、いかにもな外観のそれと財前を交互に見つめた。わたしの心中などお構いなしにどんどん先へ行く財前は、勿論のことわたしの腕をホールドしたままである。そうしてピンクピンクした、これまたいかにもな雰囲気の部屋へと通され、いよいよ操の危機を抱いた。

「(なにか殴れるもの!鈍器は駄目だし、えーっと……)」

四方八方に目を游がせていると、財前はやにわにベッドへダイブし、そのまま動かなくなった。恐る恐る近付いて名前を呼べば、なんかむにゃむにゃ云ってるだけで。

「ちょっと、眠いの?」

返事はない。だから家に帰りなさいって散々云ったのに。飲み直そうだなんてこんなとこに連れてきて挙げ句勝手に寝るなんて、取り残される身にもなってよ。ベッドに腰掛け、頭を小突く。仕返しだ、このあんぽんたん。

「…ほんと、ムカつくわ」

髪を撫でると、サラサラして気持ちがいい。財前はもう、夢の中だろうか。

わたしは財前が嫌いだった。平然と、さもできて当然のようにあらゆる責務をこなして、望めば地位も信頼もなんだって得ることができて、無愛想で、口のきき方を知らなくて。わたしが必死こいて上がってきた坂道を悠々と上ってこれるような財前が嫌いで、羨ましかった。もっともっと認められたいのに。上にいきたいのに。結局、最後の最後でこの男に先を越されてしまった。

極めつけは、この一言。

「仕事出来すぎる女はモテませんよ」
いつかのプロジェクトで財前が初めて起用され、チームのみんなで飲みに行ったときにそう小馬鹿にされたのだ。確かに、確かにわたしは中高は部活に打ち込んで、大学時代はアルバイトに明け暮れていたから、恋愛なんて全然したことがないし、自慢じゃないが彼氏ができた試しもない。彼氏いない歴=年齢ってやつだ。今だって、たとえば男の人に尊敬こそされても職場恋愛とかには縁がなくて、自分はそういうのに不向きなタイプなのかもなー、なんて思うこともあるけれど。あのとき、あの言葉を聞いた瞬間、あぁこいつとは死んでも分かり合えないだろうなって。仮にも上司に向かってそんな毒を吐くような人間とは仲良くなれるわけがないって信じて疑わなかった。それが、プロジェクトの打ち合わせを通して幾度となく言葉を交わしていくうちに、角が取れたっていうか、財前に対する嫌悪感が驚くくらい薄れていって。今じゃこんな、不思議なくらい、

「……大好きなのに」

毎日顔を見られるだけで幸せで、だから仕事へ向かうのがこれまで以上に楽しくて、そういうプラスの感情がモチベーションを高めてくれるから、自分はまだまだ頑張れる気もして、職場恋愛をしている人たちの気持ちがほんのちょっと、分かるような気がしていた。生意気なところは相変わらずだし、年下のくせにいつもからかってくるけど、そういうのって案外悪いもんでもないんだな、って思ったりもした。今じゃこんな好きで好きで、仕事では切磋琢磨し合える仲になったのに。それなのに財前は、東京へ行ってしまう。想いを伝えることなく散ってしまう恋。あっけなさすぎて、涙も出ない。

「ようやく聞けましたわ、その言葉」

独り言のはずが、なぜかレスポンスが返ってきた。すると態勢はそのままに、財前は顔だけをこちらに向け、意地悪い笑みを浮かべている。え、寝てたんじゃないの。

「忍法、狸寝入りの術」
「なっ……」
「やってそうでもせんと、あんた素直に云うてくれへんでしょ」

俺のこと、好きって。
財前の表情に、乱れたワイシャツから覗く綺麗な鎖骨に、独り言だと思ってさっきまで呟いた言葉たちに、羞恥心がたちどころに集まってくるのを感じた。やっぱ最悪だ、こいつ。最後の最後まで、人をからかって遊ぶなんて。最悪、最低、人でなし。ああもう、今すぐここからいなくなりたい。やっぱりタクシーに突っ込んでくればよかった。

「仕事出来すぎる女はモテませんよ」
「し、知ってるわよ!」
「せやから、俺と付き合いません?」
「は、はぁ!?何云って」
「あんたみたいな負けず嫌いで仕事のできすぎる女、俺以外にもらってくれるやつおれへんでしょ」

せやから、俺がもろてあげますわ。
上から目線の台詞と、不意打ちのキス。「んっ……ちょ、待って…」後頭部を押さえ付けられ、逃げることは許されない。噛みつくような、だけど心まで溶かされてしまうような甘い甘い口付けに翻弄される。自惚れないでよ、とか調子乗ってんじゃないわよ、とか何か云い返したいのに、わたしにできるのはただキスの嵐を受け入れることだけだ。苦しい。息ができない。それから財前は求めるだけ求めて、唇をそっと離した。惜しむかのようなリップ音に、頭がくらくらする。芋焼酎やウィスキーなんかよりずっと、酔ってしまいそう。

「まあ遠距離にはなりますけど、絶対不安になんてさせませんから」

その自信はどこから出てくるのよ。なんて今の自分のとろけたような表情じゃ、何を云っても無駄なことは分かっていた。


爪先からプロローグ//誰花
メイ様リクエストで財前のお話

20130311


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