家を飛び出した私に、狭い世界でしか生きてこなかった私に、行く宛も頼れる人もいなかった。携帯は捨てて、握りしめたのは財布ひとつだけ。そうして流れ流れて東京までやって来たのはいいものの、ホテルに宿泊できるほどのお金なんて残されていなかった。

東京は雨だ。私は公園のブランコに座り、ぬかるんだ地面をただただ眺めている。雨具なんて当然ない。傘の一本くらいなら買うことはできたが、勿体なくて止めた。雨を凌いだって、明日がどうにかなるわけじゃない。
右足で地面を抉ると、煙草の吸い殻が姿を現した。二本、三本と。ここでこうして、何かに行き詰まったり、路頭に迷ったりした人間がいたのだろうか。まるで今の私と、同じように。

「自分、何しとん」

俯き、濡れた前髪を垂らしていた私は顔を上げる。透明なビニール傘を差した端正な顔立ちの男の子が、私を物珍しそうにじっと見下ろしていた。彼の名前は、ひかるくん。行く宛のない私を拾ってくれた彼の名前を知ったのは、彼の住むアパートに着いてからだった。

「自分、名前は?」
「……ナマエ、です」

ひかるくんから渡されたタオルで全身を拭き、靴をきちんと揃えて廊下へ足を一歩踏み入れる。通されたリビングからは、男の子の部屋だなぁという印象を受けた。事実、彼は男の子なんだけど。あとは、お洒落だなって。

「腹は?」ひかるくんは冷蔵庫を開け、物色を始める。明らかスーパーやコンビニで買ったような惣菜しか入っていない。空いてるかってことなのかな。私は恐る恐る、減ってないです、と呟く。
するとひかるくんは物色を止め、リビングを出て行ってしまった。何をしに行ったのか分からず、そのまま立ち尽くしていると、彼はすぐに戻って来る。その手に持っているのは彼の衣類、さっきまではなかったTシャツとハーフパンツ。それを私に差し出すと、浴室はあっちやから、と目だけを動かして云った。

「バスタオルは風呂場にあるやつ適当に使て」
「あ、はい……ありがとうございます」

いそいそと浴室へ向かう。財布は、いいか。お金なんて、いくらも入ってないんだし。盗まれて困るようなものなんて、何もない。
一応と浴室のドアを閉め、ワンピースのファスナーを下げる。水分を含んだそれを脱いだら、体がすごく軽くなった気がした。どこに置いておけばいいか分からなかったので、とりあえず畳むことにした。下着は、ワンピースの間に挟んで。

シャワーを浴びながら、今のこの状況について思考を巡らせてみる。彼は私がどこから来たのかも、私はひかるくんが普段何をしているのかも、そしてお互いがどういう人間なのかも全く知らない。唯一確認した名前がもたらす情報なんて、たかが知れている。少なくとも、携帯も何も持っていない私にとっては。

もし、ひかるくんが殺人犯だとしたら。もし、ひかるくんが何らかの目的の為に私を保護したのだとしたら。恐怖心はあるけど、逃げようという気はない。あのまま家に縛られているくらいなら、ここで死んだ方がマシだ。きっと今頃は、騒ぎになっているだろう。躍起になって、私を捜索しているに違いない。身震いがする。

「…あ、そか。下着、これしかないんだった」

さすがにノーパンノーブラというわけにもいかないので、さっきまでつけていた下着をドライヤーでざっと乾かし、再び着衣した。それからひかるくんが貸してくれた服をすぽっと被り、電気を消してリビングに戻る。

「…お風呂、ありがとうございました」

退屈そうにテレビを眺めているひかるくん。私が戻って来たのを確認しても、小さく頷くだけで何をするでもない。私、どうしたらいいんだろ。一先ず部屋の隅っこに座り込み、テレビに視線を送る。あ、この番組一度見てみたかったやつだ。

片隅で小さくなっている私に、ひかるくんはくつと笑った。クッションをぽんと叩き、こっち来たらええやんって。改めて思う。こんなに格好良い男の子を見るのは、初めてかもしれない。笑い方も、様になってるっていうか。そういうシチュエーションではないけど、今更ドキドキしてきちゃった。

隣にお邪魔すると、ひかるくんは冷蔵庫からペットボトルのお茶を出してくれた。

「あ、ありがとう、ございます」

さっきから私、それしか云ってないや。でも、他に何を喋ったらいいのか分からない。

「賞味期限過ぎとるけど」
「えっ」
「ウソ。大丈夫やから」

クールなひかるくんでも、冗談を云ったりするんだ。私は自然と笑った。そしてその瞬間、気が付いたのだ。ひょっとしてひかるくん、私の緊張をほぐす為に冗談を?
自惚れだっていうならそれでもいい。ひかるくんが親切で優しい人であることに、変わりはないのだから。こんなに誰かの優しさに触れたのだって、初めてかもしれない。




テレビを見ている間の沈黙は、不思議と痛くも気まずくもなかった。それどころか、心地よい気さえする。肩と肩が触れ合いそうな距離も、彼の静かな息遣いも。
暫くすると、そんな心地よさがどこからか睡魔を引き連れてきた。時計を見れば、時間はまだ九時を幾分か過ぎたばかり。さ迷い歩いたせいで、ドッと疲れがでたんだろう。噛み殺し切れなかった欠伸を一つ、手で隠す。

「眠い?」
「…あ、と、ちょっと」
「寝るなら俺の部屋使てええから。ただし部屋の中は漁らんといてな」
「でも、ひかるくんは……」
「俺はこっちで適当に寝るから」

部屋に上げてもらっただけでも感謝しきれないのに、そんなの図々しすぎる。私はひかるくんの好意を素直に受け取れないでいた。
そうしてでもでもと渋っている私の頭をポンと叩くと、ひかるくんはええから、と柔らかいトーンで促す。ごめんなさい、ありがとう。何度目かも分からないお礼を云って、後ろ髪を引かれる思いで私はリビングを出て行った。

カチ、カチ、カチ。時計の音だけが響く寝室。眠いのに、眠れない。私は上体を起こし、時間を確認する。あれから、そんなに経っていない。ひかるくんも寝たのだろう。リビングの明かりは、オレンジ色の薄暗いそれへと切り替わっていた。

やっぱり、だめ。こんなんじゃ、だめだよ。

私は足音を立てないよう寝室を抜け、リビングへ向かう。静かな寝息を立てて眠っているひかるくん。彼の傍まで来ると、

「……何、してるん」

物音で目が覚めたのか、ゆっくりと起き上がったひかるくんは吃驚した面持ちで私を凝視する。当然だ。寝に行った筈の女が全裸で目の前にいたら、普通は誰だって驚くに決まってる。

「だって私……これくらいしかお礼、できないから…」

夏の夜と云っても、今日は少し肌寒い。乳房を隠すように両手を持ってくると、私は視線を落とした。なんとまあ馬鹿な女なんだろう、私は。こんな形でのお返ししか思い付かなかったなんて。考えれば、いくらでもあっただろうに。

黙って見ていたひかるくんは、ふわりと薄い毛布を私の体に掛け、呆れたように溜め息をついた。

「ええって云うたやん。ほら、風邪引くで」

その一言に、涙がじわりと溢れて。静かに涙を流す私を、ひかるくんは優しく抱いてくれた。眠りに落ちるまでの間、ずっと。

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