初めて謙也の優しさを実感したのは、私たちが年中さんくらいの頃だったかな。
その日は父親と散歩に出掛けていて、途中立ち寄ったおもちゃ屋さんで可愛いうさぎのぬいぐるみを買ってもらったんだ。今の私の手より少し大きい、リボンの付いた愛らしいぬいぐるみを。
ミョウジ家の大黒柱は365日24時間忙しくしていて、家にいること自体めったにないような人。休日も然り、一週間に一度会話ができれば良い方だった。だからその日は動物園に行ったわけでも水族館に行ったわけでもないけれど、限りある時間を父親と過ごせたことが本当に嬉しかった。

「ぱぱ、きょうのごはんはなんだろうね」
「そうだな…ナマエの大好きなハンバーグかな?」
「はんばーぐ?やったあ!」

帰り道には私の我が儘でバスに乗り、ちょっとだけ遠回りをして家路を辿る。
走る、停まる、また走る。せわしなく変化する街並みに夢中になっていた私は、車中でぬいぐるみを手放したことを忘れ、そのままバスを降りてしまったのだ。それに気が付いたのは、バスが私たちの前を去った直後で。

「ナマエのうさちゃん……」
5歳の私にまさか『バス会社に電話をすればぬいぐるみが戻ってくる』なんて知識がある筈もなく。あのうさぎちゃんは、二度と戻って来ない。せっかく、父親が買ってくれたのに。二重の悲しみにしゃがみ込んだ私がわーわーぴーぴー泣いていると、そこへたまたま通り掛かったのは自転車に乗った謙也と謙也のお母さんだった。

「ナマエちゃん、どないしたん?」
「けんやくん……」

買い物帰りらしい謙也は、牛すじキャンディなる不味さに定評がありそうな飴の袋を手に自転車から降りると、私の頭をよしよしと撫でる。あのね、ナマエね。しゃくり上げながらもぬいぐるみをバスに忘れてしまったことを告げると、謙也は少しの間真顔になり、あっ、と何かを思い出したのかお母さんのエコバックに手を伸ばした。

「これ、ナマエちゃんにあげる」

エコバックから顔を出したのはこれまたよく分からないぬいぐるみだった。ねこでもうさぎでもイグアナでもない、強いて云うならにしこくんやせんとくんのような何かのキャラクターらしい、なんともシュールなそれ。

「けんやくん……ありがとうっ」

お世辞にも5歳児の私にはあまり可愛いとは思えなかったけれど、さっきまでの涙はどこへやら、私は一瞬にして笑顔を取り戻した。
謙也のおかげなのか、そのへんてこりんなぬいぐるみのおかげなのか。あの時感じた、胸がくすぐったいような感覚。今になれば分かる。謙也の優しさが私に笑顔を思い出させてくれて、あの瞬間が恋の始まりだったのだ。

私と謙也は幼馴染みだけど、幼馴染みだからいつも一緒にいたわけじゃない。謙也が好きだから、彼の隣を歩いてきた。もしも謙也が好きじゃなかったら、いくら幼馴染みだからってずっと一緒になんかいたりしない。謙也が好きだから、ただ一人の男の子として。

「ねえ謙也、ちっちゃい時のこと覚えてる?」
「ちっちゃい時?」
「ほら、私がぬいぐるみ忘れて泣いてたことあったでしょ?」
「あー、あん時な!俺がまさおくんあげた時やろ?」
「あれ、まさおくんって云うんだ…」

日直当番の私を気遣って、黒板掃除を手伝ってくれる謙也。スピードが命や!とかなんとか云って思いきりチョークの粉で噎せているその背中を見、毎日眺めているつもりでも随分大きくなったんだなぁ、としみじみ思う。

幼馴染みの良いところは相手の手の内を知り尽くしていることだと、いつだったか云われたことがある。それって、本当に利点なの?だって、どんなに人より長く付き合ってきても、人より多くを知っていても、寧ろ知りすぎているからこそ、無条件に恋愛対象から外れてしまう。幼馴染みという関係そのものが、越え難いハードルになる。

どれほど彼を想ったところで、この気持ちは届かない。報われない。叶うことなど、決してない。だから今、私とこうして過ごしている時間も、いつか誰かのものになる時は訪れる。謙也の中から、私が薄れていく。当の私はそれを受け入れることも、幼馴染みの壁をぶち破ることもできないまま、どっち付かずの状態で眺めているしかできないのだろう。

「謙也はすごいよね。だって魔法が使えるんだよ」
「魔法?…急にどないしたん?」

謙也は本当に素晴らしい魔法使いだ。優しさという彼の魔法は、私の涙を忽ちのうちに笑顔に変えてしまう。落ち込んでいる私を一瞬で元気にしてしまう。今日という日まで、私はいつも謙也の魔法に助けられてきた。きっと、彼自身が知らないところでも。

「……謙也の彼女になる子が、羨ましいよ」

無駄だと分かっていても謙也を想ってしまう浅ましい自分に、思わず涙が零れた。こんなに苦しいのに気持ちが膨らみすぎて、もう自分ではどうしようもできない。ねえ、謙也。どうせ叶わないのなら、あなたを忘れる魔法をかけてよ。

「俺は、ナマエになってほしいんやけど」
「……え?」
「俺が優しくしたいのも、笑わせたいのも、幸せにしたいのも、ナマエだけやねん」

あの時から、ずっと。

そう云い切るや否や、再び涙が頬を滑り、ぽたりとスカートに染みを作った。どうしよう、涙が止まらないよ。私、泣き虫なんかじゃないのに。でも、でもね。この涙は消さなくていいの。だってきっと、嬉し涙だから。

だから、もうちょっとだけ待ってね。うんと泣いて、気が済むまで泣いて、そして泣き止んだら、私もこの想いを伝えるから。

スローモーションロマンス

「俺が魔法使いなら、もうひとつだけナマエに掛けたい魔法があるんやけど」

どんな魔法?そう聞き返す前に私の唇を塞いだ謙也は、真っ赤な顔をして云ったのです。ずっと俺だけを愛してくれる魔法、と。

20120520

まゆ様リクで謙也くんのお話。にしこくんはキングオブシュール

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