路面にできた幾つもの水溜まりを踏まないよう、足元を気に掛けながら歩く仄暗い帰路。ちらちらと雨に混じって雪が降っているようにも見えるが、今年もまた、降雪量は少ない。それでも全身に染み渡る寒さは、この時期らしいものだった。

「幸運を呼ぶピンク色の猫?」

この立海大附属中学校内に妙な噂が流れ出したのは、今からおよそ一ヶ月程前のことだ。第一発見者が誰だったか、具体的にどこで見付けたのか、子細なんてものは最早覚えていないが、とにかく放課後になると校内に猫が現れるのだという。優しげな鈴の音と共に。それが、今立海生を騒がせている“幸運を呼ぶピンク色の猫”だ。幸運を呼ぶという大層な修飾語が付属する所以は、文字通りその猫に遭遇すると、以降願ってもない幸せが舞い込んで来るからである。身内の病気が治った、恋愛が成就した、学力が向上した、お小遣いがアップした、エトセトラ。そしてその雄だか雌だか知らない猫を、彼らは思い思いの名で呼んでいるのだ。ハッピーくんだの、ピンキーちゃんだの。

「へえ。また現れたんだ」
「しかも今度の発見者はジャッカルだってさ」
「ふーん。で、ジャッカルは何か良いことがあったの?」
「さあ、そこまでは聞いてないから」

なんてまあ馬鹿馬鹿しい。噂話を口にする幸村もわたしも、当然そんな非現実的な話を初めから信じちゃいない。幸運を呼ぶ呼ばない以前に、まずピンク色っていうのが有り得ないよね。だって仮にその猫が実在していて、本当にピンクの毛色をしているんだとしたら、ぶっちゃけそれって虐待の類じゃない?身勝手で残虐な大人、あるいは子供がそんな色にしたのであって、それをわたしたち人間が「幸運を呼ぶ」だなんて都合良く解釈しているだけでしょ。はあ、ついにジャッカルまで。彼はそのテのゴシップに一切無縁のまともな人間だと思っていたのに。今頃ブン太や赤也辺りが食い付いてそう。あの二人、結構そういうの好きだからね。

「うあーさっぶ」
「寒いって云えば余計寒くなるだろ。もっと熱くなれよ!なんちゃって」
「松岡修造乙」

幸村は、それほど親しくない人間の前ではあまり冗談を云わない。容易に気を許すこともないし、人当たりは良くてもその実警戒心が非常に強い男だということを知っているのは、わたしやテニス部のメンバーくらいだと思う。だから女の子たちがわたしと彼の会話を耳にしたら、さぞかし驚くことだろう。えー、幸村くんってそんなこと云うんだ!みたいな。なんちゃってとか可愛くない?みたいな。まあそれで優越感に浸るわけじゃないけど、でもやっぱり嬉しいなあと思う。わたしの前では素でいてくれてるんだなって、実感できるから。
ただし残念なのは、幸村にとってのわたしはあくまで「友達」でしかないということ。いや別に性的な目で見てほしいとかじゃなくてね。そうじゃなくて、わたしはただ一人の存在として幸村が好き。じゃあ幸村は?ってなった時に、熟考しなくても答えなんてとっくに出ているわけで。わたしが告白に至らないのは、振られることが初めから分かっているから。たとえば告白に向かったとして、それで予想通り玉砕しても、幸村はきっと友達でいてくれる。でもわたしは百パーセント無理。エスカレーター式で高校も一緒だから嫌でも顔を合わせるんだし、そんなの死ねって云われてるようなもんだ。だったら今のままでいいかなって。ジレンマも苦しいけどさ。

「幸運を呼ぶ、か」
「え。幸村信じてるの?」
「いや、そうじゃないけど」

二つ目の角を曲がり、もうじき自宅に着くというところで、幸村は息を吐くように呟いた。そうじゃないなら、一体どうしたんだろう。“けど”の続きが気になりはしたものの、何も云ってくる気配が無かったからつっこむのはやめにした。幸村って、急に何考えてるのか分からなくなるから怖い。病床に伏した時もそうだったし。

「じゃね、幸村。気をつけて帰って」
「ああ、ナマエも転ばないようにね」
「この距離で誰も転ばねっつの」

部を引退する以前から、幸村はよく下校時にわたしを家まで送り届けてくれる。男テニの方がずっとずっと練習もハードで、まっすぐ帰宅したいだろうに、本当柳生並の紳士だ。門を開け、中に入ったらすぐに閉じる。そうして門越しにやる気なく手を振り、彼の背中を見送った。相変わらず女の子みたいな後ろ姿。どっちが男だか分かんないわ。そういや、幸村のタイプってどんなんなんだろ。あーあ、可愛くなりたい。

翌日のHR前、偶然ジャッカルがわたしのクラスを訪ねてきた。なんてグッドタイミング。わたしは廊下に出た彼を呼び止め、猫を目撃したという話の詳細を伺うことに。にしても、彼の表情がやけに明るく見えるのは気のせいだろうか。頭部の光沢も、心做しか増しているような。

「ねージャッカル、猫見たって本当?」
「え?ああ、俺も夢見てんじゃねえかって最初は思ったけどな」

練習が終わり帰宅する前、忘れ物を取りに校内へ戻った際、噂の猫に遭遇した。彼が云うにはそういうことらしい。その猫が自分の目の前を横切った瞬間咄嗟に「あ!」と叫ぶと、猫は驚いて逃げ去ることもなく、逆に立ち止まったそうな。そうして黄檗色の双眸は、じいっと自分を見上げる。まるで、願い事を口にするのを待っているかのように。やがて願い事を聞いた猫は、現れた時同様鈴の音を響かせながら走り去っていったという。

「俺、冗談のつもりで云ったんだ。親父が昇給しますようにって」
「そしたらマジで給料上がったって?」
「ああ。その日親父がやけに上機嫌で帰って来たから、理由を聞いたらそうだって」

あんた今も夢見てんじゃないのって、笑い飛ばすことはできなかった。ジャッカルの目があまりにも真剣そのもので、わたしをからかっているとは到底思えなかったからだ。いやいやだけどあり得ないでしょ。まさかジャッカル、薬でもキメてる?ってんなわけないか。「わり、そろそろ戻るわ」もうすぐHRが始まるからと彼を解放し教室へ戻れば、案の定噂話がクラス中をひっきりなしに流れていた。

「ナマエちゃん、もし猫に逢ったら何お願いする?」
「え?いやわたしは別に……」
「わたしは切原くんと結ばれますようにとかお願いしちゃおっかな!」
「えーなにそれ狡くない?だったらわたしは仁王くんとってお願いするし!」

わたしは丸井くん、じゃあわたしは幸村くんと嬉々として語る彼女たちにはただただ苦笑いだ。着席したわたしは頬杖をつき、窓の向こうに広がる凍て空を仰ぐ。席が暖房の傍にあるおかげで、かなり快適に過ごさせてもらっている。幸運を呼ぶ猫に願い事、か。わたしだったら、何をお願いしてたんだろ。「(…いや、だからそんなのいないっつの)」かなりの人間が噂を信じているもんだから、わたしもうっかり“もしかしたらいるのかも”なんて錯覚を起こしそうになる。だけどいないいない、そんな猫は存在するはずないって。





「あー終わった!」

その日の放課後、図書室にて。数日宿題をサボタージュしたらどえらいことになった為、溜まったそれの処理に努めていた。放課して間もなくはそれなりに人もいたけど、あれから二時間以上も経っているのだ。もはや人っ子一人いない。一通り片付けて図書室を出たわたしの足は、まっすぐに昇降口へと向かう。室内と廊下とでは温度差が激しく、ひんやりとした空気に体内の熱が根刮ぎ持っていかれそうだった。

チリン、不意に耳を掠めた鈴の音。まさかと思い立ち止まって前方を凝視していると、やたらと髪を盛った女の子が一人、携帯を弄りながら通過して行った。彼女の手元から鈴の音が聞こえてきたってことは、ストラップか何かか。だよね、一瞬もしかしてとか考えちゃったけど。思い違いと分かり、止まっていた足は再び動き出す。すると数歩進んだところで、またしても鈴の音が聞こえた。チリン、チリン、リン。さっきの子のはずがなかった。だってあの子はとっくにここから姿を消しているんだし、それに、音が違う。今聞こえた鈴の音はさっきのそれよりもっと透明で、なんだか心の奥深いところまで響いてくるような、そんな感じがしたから。わたしは振り返り、背後に何もいないことを確認。そして向き直った時、

「……あっ」

薄桜色の小さな猫が、少し先で、捕まえようと思えば捕まえられそうな距離で、わたしを凝視していた。寝惚けてるんじゃないかと、思わず目を擦ってみる。あ、やばいマスカラ取れちゃった。でも、幻なんかじゃないらしい。

「あ、わたし、は」

女の子たちの会話が甦る。切原くんと結ばれますようにとか、仁王と、丸井と、幸村と。もし今ここで“幸村と結ばれますように”ってお願いしたら、噂通りその願いは叶っちゃうのかもしれないね。だけど、

「わたしは、幸村に幸せになってほしい!」

そんなこと、お願いなんてできなかった。だって恋愛ってお互いが同じ気持ちを抱いて、それで自然と結ばれるものなのに、こんな形で無理やり恋人になったってちっとも嬉しくない。他の人はそれで良くても、わたしは嫌だ。それだったらわたしは、好きな人の幸せを願いたい。難病に冒されて苦しんだ分、幸村には幸せになってほしいから。

「俺がなんだって?」
「ぎゃっ!」
「うわ、なんだよその顔」

まさか幸村が後ろにいるなんて考えてもおらず(ていうかさっきは誰もいなかったし!)、随分と色気のない声を出してしまった。しかもこのパンダな面まで見られる始末だ。おいこらこの野郎と半ば八つ当たり気味に猫のいた辺りを見遣れば、猫は既にいなくなっていた。

「で、ナマエ。俺がなんだって?」
「気のせいだと思うよ。わたし幸村なんて云ってな」
「俺がなんだって?」
「うぐ、すびばせん」

ドメスティック幸村は笑顔でわたしの首を絞めてきやがったから、渋々告白した。ゆ、幸村に幸せになってほしいって。そうすれば、供述したらしたで今度はその訳を訊ねてくる。なんで、俺に幸せになってほしいの?家族でも女友達でもテニス部の奴らでもなくて、なんで俺に幸せになってほしいと思ったの?なんて。

「そ、そんなのあんたが好きだからに決まってんでしょ!」
「ふーん。それなら、ナマエにはいてもらわないと困るな」
「はい?」
「ナマエがずっと傍にいてくれたら、俺は幸せになれるんだけど」

クランベリーの吐息

あれから数ヵ月が過ぎ、プリティーちゃんを見掛けたという目撃談はまったく耳にしなくなった。今は違うところで、幸運を運んでいるのだろうか。この立海で沢山の人たちに、そうしてくれたように。

20120207

るかさまリクエストで幸村くんのお話

「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -