※設定捏造


小学五年生の夏のことだ。田舎の祖父母の下を訪れた際、裏の小さな公園で一人の少女と出逢った。彼女は当時の俺と同い年で、この辺りに住んでいるのだという。すぐ傍には母親と思しき、その目元に優しさを携えた女性が佇んでいた。彼女はあまり健康ではないのだろう。一目見た瞬間に、俺はそのことを察知した。病的に青白い顔や、妙に痩せ細った姿がそれを物語っていたのだ。だが、彼女は弱々しげな外見に反し非常に明るい性格の持ち主だった。人見知りの“ひ”の字も知らなそうな彼女だったからこそ、俺たちはすぐに打ち解けることができた。名前は?から始まり、どこに住んでるの?そこはどんなところ?学校は大きい?運動は何かやってるの?と、とにかく質問の嵐だったのだが、俺は途中で回答を止めたりはしなかった。目を輝かせて問うてくる彼女に、俺の知る世界を出来うる限り教えてあげたかったのだ。それで彼女の世界や未来が少しでも広がるなら、と。単純な話だ。

「蓮二くん、今日は何して遊ぶ?」
「今日は公園に咲いている向日葵やアサガオを写生しない?」
「しゃせい?」
「絵にするってことだよ」
「うん。いいよ!」

祖父母宅に滞在している期間の大半を、彼女と公園で過ごす時間に費やした。軽くではあるがテニスも一緒にやったし(やはり激しい運動は禁止されているようだ)、彼女が苦手としていた逆上がりの特訓にも尽力した。それから時には場所を変え、祖父母宅の縁側で風鈴の繊細な音色を聞きながら、瑞々しいスイカを頬張ったりも。美味しいね、と心からの笑顔を浮かべる彼女が、今も記憶の中で鮮明に生き続けている。俺がここにいるのはほんの一週間にすぎず、彼女との別れは瞬く間にやって来てしまったが、神奈川に戻ってからは手紙でのやり取りを始めた。所謂、文通というものだ。しかしそれも、僅か二、三通で途切れてしまう。最悪の状況を覚悟していた中で彼女が亡くなったことを知らされ、俺はその時初めて、大切な人間を喪失する深い哀しみを経験した。

あれから三年半の歳月が流れ、中学三年の春。高校受験の為のカリキュラムが本格的に開始される大事な時期に、転校生はやって来た。自己紹介でミョウジナマエと名乗った彼女を見、俺は自分が錯覚を起こしてしまったのではと思わざるを得なかった。彼女のその生き生きとした表情や名前そのものが、三年半前に亡くなった彼女と全く同一だったからである。いや、しかしそんな非現実的な現象が起こりうる筈がない。彼女が亡くなってからというもの長期休暇には必ず墓参りに行っているが、夢枕にすら立つことのなかった彼女がこうして突然目の前に現れるなど、到底あり得ないのだ。仮に輪廻転生だとしても、一般的な魂で五百年はかかるとされるところを三年半で生まれ変わるなど。では彼女は何者なのか。稀少なデータを元に分析した結果、俺は“偶然の産物に過ぎない”という結論を導き出した。そしてそれは、この柳蓮二を確かに納得させるものであった。

「柳くん、さっきの問いで分からないところがあったんだけど、教えてもらえないかな?」
「ああ、構わないが」

勤勉で努力家なミョウジはその熱心さや裏表のない性格を教師、生徒問わず多くの人間から評価された。俺自身もその一人である。また、二週間前に行われた席替えで彼女が隣になってからは、言葉を交わす回数がクラスメイトと比較しても圧倒的に増えた。おかげでどこから嗅ぎ付けたのか、精市には「ミョウジさんとは付き合っているのかい?隅に置けないね」などと云われる始末だ。まったく、敵わないな。

「柳くんのいるテニス部ってすごいんだね。全国大会で二回も優勝してるんだ」

教師不在の自習中、彼女はペンを滑らかに走らせながら、矢庭にそう切り出してきた。自習とあって雑談や居眠りをしている人間が多い中、その姿勢はやはり彼女らしい。彼女の真面目な一面は勉学以外の分野にも向けられ、廊下に飾られているトロフィーの数々で立海の部活動、取り分けテニス部の歴史を学んだようだ。『常勝』と付くだけあって負けは許されないこと、全国大会三連覇を目標に掲げ日々練習に励んでいることを説明すれば、彼女の口からは再び、すごい、の三文字が感嘆の溜め息と共に吐き出される。

「……私も、テニス部に入ってみたかったな」
「それなら高校に進学したら入部してみるといい。高校からでも決して遅くはないからな」
「そう、だね」

歯切れの悪い返答に引っ掛かりを感じたが、これといって追及はしなかった。ミョウジは微妙な時期に立海へ転校して来たのだ。恐らく進路のことで苦悩しているのだろう。事実、進路希望調査表と睨み合う彼女を俺は度々目にしている。従って、85%の確率で割り出されたその結論以外に訳などある筈がないと、俺はそう信じて疑わなかった。

そして、あの夏。俺たちは青学に敗北した。試合終了のホイッスルが鳴り響くと同時に青学サイドから歓声が湧き上がるのに対し、これだけの応援団がいるにも拘わらず、立海側からは赤也の啜り泣く声しか聞こえない。丸井も、仁王も、柳生も、ジャッカルも、皆無言で、自分たちが敗北したのだという現実と向き合っていた。勝負は勝負、勝つ者がいれば、当然負ける者もいる。生憎俺たちは、前者になれなかった。それだけのことだ。会場を後にする俺たちに、精市は「ありがとう」と呟いた。この三年間共にしてきた苦楽の、全てが込められた謝辞だった。そこで赤也が再び泣き出すと、丸井や仁王が「泣き虫赤也ちゃん」とからかって弄ぶ。二人が笑えば赤也も自然と笑い、三人が笑えば俺たちも釣られて笑う。そうして俺たちは、この夏の終わりを噛み締めながら、各々の家路を辿った。

大会から一夜明け、翌日の逢う魔が時。ミョウジは唐突に自宅を訪ねて来た。「…今、少しでいいから時間ある?」彼女が一瞬だけ見せた表情に只事ではないと理解した俺は、母に適当な理由をつけて外へ出た。日中に比べれば幾分か涼しいとは云え、盛夏の暑さが汗を誘う。彼女に従い黙々と歩いて行けば、やがて近所の公園に到着した。ミョウジは中に入り四、五歩程進んだところで漸く足を止め、俺の方へと向き直る。

「昨日はお疲れ様。残念だったね」
「…見に来ていたのか」
「うん。私、見てたよ。ずっとね」
「そうか」

三連覇を成し遂げるどころかとんだ負け戦を見せてしまった。些か情けなく思っていると、ミョウジは首を横に振り、そして笑んで云う。「本当に素晴らしかったよ。最後に、あんな最高の試合を見せてくれてありがとう」最後に?俺が聞き返すよりも早く、彼女は公園内に設置された水道まで駆けて行った。その手に持っている物で粗方推測はできたが、どうやらここで花火をするつもりのようだ。

「急に押し掛けて来たかと思えば花火かよって、馬鹿かこいつって呆れるかもしれないけど」

水を含んだバケツを引っ提げ戻って来た彼女は、申し訳なさそうに花火を一本、差し出してくる。俺は黙ってそれを受け取り、彼女のマッチで火を付けた。今はただ、ミョウジのしたいようにさせておこう。

「綺麗だね……蓮二くん」火花は勢いよく飛び散り、様々な色の光を放つ。“蓮二くん”俺をそう呼ぶ彼女の声にどこか懐かしい響きを感じた。火花を頼りにミョウジを見遣れば、彼女はうっすらと涙を流している。ああ、やはりそうだったのか。

「蓮二くん……私だよ」
「…ナマエ、なのか?」
「良かった。ちゃんと、覚えてくれてたんだね」

やはり彼女は四年前、あの小さな公園で出逢った少女その人だった。忘れるわけがない。俺が初めて失った大切な存在、そして何より、俺が初めて好意を抱いた相手なのだから。暗がりの中できらり光る涙を拭うと、ナマエは火の消えた花火をバケツに小さく投げ入れる。そしてそのまま二本目にはいかず、音もなく揺れる水面をただただ凝視していた。

「俺は、お前が転校生としてやって来たあの日、夢を見ているのではと思った」

だがこれが夢などではなく現実で、転校生があの公園で出逢ったナマエと同じ人間だというのなら、何故彼女はこうして現れることができたのか。俺は俺自身を充分に納得させられるだけの論理的証拠が欲しかった。しかしそれを得ることは敵わず、故に俺は、彼女が同一人物かもしれないという可能性を否定したのだ。ナマエではない。ナマエである筈がないのだ、と。

「私も信じられなかった。でも、神様っているんだね」

曰く、ナマエは死後、天国とも地獄とも呼べない暗闇の中を彷徨っていた。誰もいない、声も響かない真っ暗闇の中を。やがて一筋の光が差し込み、ナマエは藻掻くように懸命に手足を動かした。距離感さえ掴めない闇の中において、果たして自分は一歩でもその光に近付けているのか。不安に駆られながらも、とにかく死に物狂いで手足を動かし続けた。すると光は忽ちのうちに大きくなり、彼女の体を容易に包んでしまう。目が覚めたら、

「目が覚めたら、蓮二くんがいたの。中学一年生の時かな?それからずっと、私は蓮二くんを見守ってきた。云ったでしょ?ずっと見てたよって。だからあなたがどれだけ三連覇を成し遂げたかったのかも、私はちゃんと知ってる。本当は、全部知ってたの」

奇跡とでも称するべきか、不思議な出来事はその後に起こったらしい。死後初めて、ナマエは自分以外の声を耳にしたのだ。恐らく自分と同じ側にいるのだろう、何者かの声を。それが神様だとナマエは信じているようなので、彼女の云う通りその声の主を『神様』として話を進めよう。神様は若くしてこの世を去った彼女を哀れみ、一つだけならば、と願いを叶えてくれた。その時、ナマエが願ったこと。それこそが、彼女が現世に戻ってこれた理由だったのだ。

「全国大会を見届けたいって、そうお願いしたの。そしたら私、この世に戻ってきてた」

また違う花火に火を付け、色鮮やかなそれに喜色を浮かべるナマエ。だが笑んだかと思えば彼女はふっと睫毛に影を落とし、小さく呟いた。もう、時間なんだけどね、と。彼女が俺を訪ねてきた時点で、本当は俺もまた、そのことに気付いていたのかもしれない。彼女が故人で、その御霊は本来この世にあるべきではない。それは、どう足掻いたところで歪曲しようのない事実なのだ。

――私ね。ナマエはすっとしゃがみ込み、線香花火を取り出した。マッチの火によって花は咲き、小さく命を燃やす線香花火を愛おしげに見つめながら、彼女はぽつり云う。

「私、蓮二くんと出逢えて良かった」

線香花火とは、なんと儚いものだろう。その命はすぐに、燃え尽きてしまった。そしてそれがナマエのようだと、俺は思ってしまったのだ。蓮二くん。燃え尽きた花火をバケツの水に浮かべると、ナマエは立ち上がり、矢庭に俺の目許を隠す。彼女は何も云わない。息づかいしか、聞こえてこない。それから稍あって彼女の唇が頬に触れる感触をとらえ、と同時に、俺は彼女の気配そのものを感じなくなった。

もうそこに、ナマエの姿は見当たらなかった。

―――――――――

五日後、俺はナマエの墓参りに田舎へと赴いていた。ご両親のおかげだろう、彼女の墓はいつ訪れても落ち葉一つ無い非常に綺麗な状態に保たれている。まずは墓石に水を掛け、掃除の最後に雑巾で水を拭き取る。それから買ってきた菊や百合の花と一緒にスイカを供え、粛々と線香を上げた。このスイカは、彼女の墓参りに行くことを知った祖母が持たせてくれたのだ。祖母の記憶力の良さにはつくづく感服する。真っ赤に熟れた、夏の風物詩。ナマエはまた、美味しいね、と笑ってくれるだろうか。

「俺も、ナマエに出逢えて良かった」

手を合わせる俺に、彼女の姿は見えない。今この瞬間に、彼女が俺の傍にいるのかも、或いは、雲の上で俺を見下ろしているのかも。俺には何も、視えやしない。だからどうか、笑っていてくれ。お前が笑ってくれさえしたら、俺はそれでいい。

まぼろしに消える夏

20120114

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