先輩が好き。その気持ちは誰にも云わずに、ずっとずっと、心の中で温めてきた。心持ちとしては親しい友人に打ち明けたって構わなかったのだけど、実際今日までそうしてこなかったのは仮にカミングアウトしたとして、周囲で黄色い声を上げている子たちと程度が同じだなんて認識されるのが嫌だったからだ。どこが好きかなんて聞かれても挙げたらキリはないけれど、たとえば人望の厚さだとか、周りをもそうさせる前向きなところだとか、多分先輩に惹かれた一番の理由はわたしに無いものを沢山持っているからだ。どんなに欲しても、決して簡単には手に入れられないものを。
先輩との接点を持たないわたしにとって、この片思いは所詮遠くから眺めているだけで終わるものだと思っていたし、高望みをするだけ無駄だと最初から理解していた。ただ、校内ですれ違ったりその声を聞けるだけで、それだけで充分だったのだ。

「謙也のあほー!」

担任に仕事を頼まれるのが常だった。その日の昼も受験に関するプリントを配布するようお願いされ、山積みのそれを抱えて職員室から戻る途中。先輩らしき女の人の怒号を受け、豪快な足音と共に階段をかけ降りてくるのは謙也先輩で。今日は良い日だなぁなんて喜んだのも束の間、頻りに階上を気にしている様子の謙也先輩は降りた先にいるわたしに気付かなかったのか、先輩が向き直った瞬間勢いよく衝突してしまい、両手から逃れた大量のプリントははらはらひらりと宙を舞った。

ど、どうしようこれ……

「ご、ごめん!怪我してへんか!?」
惨事を前に硬直していると、瞬時に状況を把握したのか謙也先輩が血相変えて謝ってくる。だけど頭にプリントを乗せたその姿があまりにもおかしくて、わたしはつい噴き出してしまった。

「え、お、俺なんかしてもうた?」

理由を訊ねてくる先輩に説明をしようとしても、お腹の底から込み上げてくる笑いの渦が邪魔をして言葉にならない。どうにかこうにか“上”と絞り出した単語を口にすれば、頭を動かしたと同時に落ちてくるプリントで納得した先輩は失笑を浮かべた。

「ちゅーかプリントばらまいてもうてほんまにごめんな」
「だ、大丈夫です。時間はあるのでゆっくり拾いますから、」
「いや、ここは浪速のスピードスターが一瞬で集めるさかい、えっと……名前なんて云うんやっけ?」
「あ……ミョウジ、ナマエです」
「ほなナマエちゃんはそこで待っとって!」

半ば追いやられるようにして散らばるプリントの中から抜け出たわたしは、本当に手伝わなくて良いのかと若干狼狽しながらも謙也先輩を見守る。すると目にも留まらぬ速さでプリントを拾い始めた先輩に、見守ることを忘れただただ唖然。そうして言葉通り一瞬でその全てを拾い終えた先輩は、トントンとプリントを丁寧に手で揃える。あ、あの。お礼を云おうとしたわたしは、数秒前のやり取りをふと思い出した。名前、聞かれたんだ。覚えてもらえたら、いいな。

「何組?俺も一緒に持ってくで」
「えっ、あ、大丈夫です!」
「そやけど女の子一人で持って行くのは大変やろ」
「ほ、本当に大丈夫です。あの、わたしこういうのは慣れてるので、」
「さよか……ほな、俺行くな」

結局ありがとうを伝えられずに謙也先輩は去って行ってしまう。あんな断り方をして先輩が怒ってしまったらどうしよう、そんな懸念やちゃんとお礼を云えなかったことに心残りを感じながらも、プリントを受け取った際に触れた指先が心なしか熱を帯びているような気がして、わたしは胸の高鳴りを感じながら、プリントをきゅっと抱き抱えた。

それから数日後の放課後。ジュースを買って帰ろうと、わたしは売店の側にある自動販売機の前で足を止めていた。何にしよう。コーヒー牛乳も良いけどいちごオレも美味しそうだし、でも普通の緑茶にしようかなぁ。優柔不断すぎるあまり決めあぐねていると、わたし以外誰もいない筈のそこに床を鳴らす甲高い音が聞こえた。

「あ、謙也先輩……」
「ナマエちゃん。この間振りやな!」

“ナマエちゃん”その声が、心に響く。先輩、ちゃんと覚えていてくれたんだ。嬉しさのあまりはにかんでいると、どないしたん、と顔を覗き込んでくる謙也先輩。ジャージ姿ってことは、練習前に飲み物を買いに来たとか、そんなところかな。そこでわたしはハッと思い出す。そうだ、この間のお礼まだできていないんだ。

「あ、あの、良かったら飲んでください」

先輩より先にと慌てて買ったスポーツ飲料を差し出せば、きょとんとした顔で、その表情ひとつで先輩は訳を訊ねてくる。数日前にプリントを拾ってもらった時のお礼だと告げれば、“律儀やなぁ”と深く感心しながらも眩しいくらいの笑顔でそれを受け取ってくれた。

「そういやナマエちゃんって財前と同じクラスやねんな?」
「あ、はい。めったに話さないですけど……」
「この前のプリントの話したら、財前がナマエちゃんのこと頭ええ人や云うてたで」

自分の知らないところで自分の話題を出されるのがこんなにも恥ずかしいなんて。なんだか無性に照れ臭くて、そんなことないです、と否定する言葉も消え入りそうになってしまう。先輩はどんな風に話をしたんだろう。財前くんがそう云ったら、先輩はどんな言葉を返したんだろう。笑っていたのかな。それともあの断り方に怒っていたのかな。気にはなるけど聞けない疑問を、心の中にグッと押し込んだ。「あかん、そろそろコートに行かな白石にどやされるわ」ほな、またな。くるりと踵を返す先輩を、わたしは咄嗟に呼び止めてしまう。だけど、

「…練習、頑張ってください」
「おおきに!ナマエちゃんも気ぃ付けて帰りや」

云えなかった。云えるはずがなかった。もっと沢山話がしたい、だなんて。名前を覚えてもらえた今でさえ幸せすぎるくらいなのに、わたしはこれ以上何を望むというのだろう。友達になりたい?彼女になりたい?高望みをするだけ無駄だって、解っていたはずなのにね。

凍え刺すような冬の寒風に、鼻までマフラーを押し上げる。辺りは一面クリスマスカラー一色で、まだまだ先だと思っていたイブは思いの外早足でやって来た。イブもそうだけど、今年は一気に冬が来たんじゃないかしら。ああ寒い。クリスマスソングが流れる商店街を黙々と歩くわたしの、鞄の中でガサガサと存在を主張する小さな赤い袋。練習も兼ねて、先輩にミサンガを編んでみたのだ。先輩がきっと好きなんだろう黄色と、赤色と、それから緑色の信号色で編んだミサンガ。彼女でもなければ況してや友達ですらないわたしに堂々と渡せる勇気はないし、そもそもそう都合良く会えるかどうかも分からない、だけど作るだけなら誰にも迷惑はかからないし、と思って。結局のところ、あの放課後以降謙也先輩とかち合うことはほとんどなかった。それでも会えば気軽に話し掛けてくれるのに、上手に言葉が返せなくていつもいつも残るのは後悔ばかり。だから今日、もしも先輩と話ができたなら、もう少しまともに会話ができるよう頑張らなきゃ。あとはそう、苦手なツッコミがちょっとでもできるように。心中で一人意気込むわたしの足はいつしか商店街を抜け、もう間もなく学び舎に到着しようとしていた。

「おはよ……?」教室に着くと、なんだろう、男子は普通なんだけど女子は皆やけに騒々しくて。ただ単にクリスマスだから?わたしは小首を傾げ、それから近くにいた仲の良い友達に声を掛けた。

「ねえ麻里ちゃん、何があったの?」
「あ、ナマエちゃんおはよう。あのね、遥ちゃん昨日忍足先輩に告白されたんやって!」
「え……?」

途端鈍器で頭を殴られたような衝撃に襲われ、力を失ったわたしの右手は、鞄を呆気なく手放してしまう。遥ちゃんが、昨日、謙也先輩に、告白された?遥ちゃんが、昨日、謙也先輩に。嘘だと云ってほしかった。そんなの、麻里ちゃんの意地悪な嘘だって。だけど女子たちを見れば、愛良ちゃんも涼子ちゃんも瑞季ちゃんも皆、遥ちゃんを囲んで楽しそうに話をしていた。どんな風に告白されたん?遥ちゃんが羨ましいわ!今日はデートせえへんの?って。そこで中心にいる遥ちゃんは照れ臭そうに、わざとらしく言葉を濁したり。その様子を見れば、それが嫌でも現実なんだと教えられる。謙也先輩と遥ちゃんは、正真正銘恋人なんだと。

「わ、わたしちょっと具合悪いから保健室行ってくるね」
「え、大丈夫?一緒に行こか?」
「ううん、平気」

遥ちゃんと同じ空気を吸っていたくなくて、覚束ない足取りで教室を出れば、廊下は廊下でクリスマスムードに包まれ非常に賑やかだった。苦しいよ。どこでも良いから、今すぐ静かな場所で一人っきりになりたい。行き場を探し、まるで絶望しきった面持ちで歩いていると、注意力散漫なせいで向こうから来た人の肩にぶつかってしまう。す、すいません!慌てて顔をあげれば、ぶつかった相手は謙也先輩だった。どうして。どうしてこういう時に限って謙也先輩なの?会いたい時には会えない癖に、どうして一人になりたいって時に謙也先輩に会ってしまうの?今顔を見たら、泣かないでいられる自信なんかないよ。

「ナマエちゃん、どないしたん?めっちゃ泣きそうな顔しとるけど……」
「……謙、也先輩、」

先輩、知ってますか?遥ちゃんって、ついこの間までは白石先輩が好きだったんですよ。だけど白石先輩に彼女ができたから、じゃあフリーの謙也先輩にって鞍替えしたんですよ。遥ちゃんは先輩の良いところなんて、絶対何も解っていないのに。きっと容姿が良いから、ただそれだけで先輩を好き好き云っていたのに。どうして、よりによって遥ちゃんなんですか?どうして謙也先輩の選んだ相手が、先輩のことを大して想ってもいない遥ちゃんなんですか?それだったらわたしの方が、ずっとずっと謙也先輩を想っています。あんな子よりもわたしの方が、謙也先輩のことを。

「…おめでとう、ございます」
「へ?」
「遥ちゃんも同じクラスだから、さっき、付き合うって聞いて」
「あ、そか……遥も同じやったもんな」

“遥”彼女の名前を紡ぐ先輩の優しい声色は、わたしの胸をきつく締め付ける。あんなこと、云えるわけがない。思っていることを全て打ち明けたら、先輩はわたしを軽蔑するに決まってる。性格の悪い女だって、もう二度と口すらきいてもらえなくなるかもしれない。そうなるくらいなら、いっそこのままでいい。先輩に嫌われるくらいなら、わたしは自分自身を欺くよ。

「遥ちゃんは、優しくてほんとにいい子だから……幸せに、してあげてくださいね」

謙也先輩は愛情深い眼差しで、おん、と頷いた。その瞳がどれだけ自分のことを想ってくれているのか、遥ちゃんは知りもしないだろう。

先輩と別れ、その後ろ姿を見送るようにぼんやりと見つめる。やがて他の人たちに紛れ、見えなくなっても尚廊下に立ち尽くしていると、誰かがわたしの頭をポン、と叩いた。

「ざ、財前くん?」
「あいつのどこがええ子やねん。あないミーハー女が好きとか謙也さんも見る目なさすぎやろ」

俺は、分かっとるから。財前くんのその一言に、わたしは目を小さく見開いた。と同時にじわじわと涙が溢れそうになってきて、顔を背け、強く瞑る。泣けばええやん。財前くんはそう云うけど、わたしは首を横に振り、堪え続けた。一度泣いてしまったら、自分の力ではその涙を止められなくなってしまうから。それなのに再びわたしの頭を叩く彼が妙に優しく感じられて、今は財前くんだけが味方でいてくれているような気がして、涙腺は締まる気配を見せない。格好悪いなぁ、わたし。たとえばここで、或いはどこか別の場所で泣いてしまったとしても、二人の前では絶対に笑っていよう。謙也先輩も遥ちゃんもわたしの気持ちなんて知らないし、そしてこの先もずっと、知らなくていい。

「(……ミサンガは、捨てておかなきゃ)」

ガラスケースのように小さな世界で

それでも何年、何十年が経ったって、謙也先輩ただ一人を想ったこの恋の苦しみを、忘れることはないだろう。

20111228
凛花様リクエストで謙也くんの切ないお話

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