きみは鳥じゃない。
大地に足をつけて歩いて欲しい。
つらいことがあっても、その先には未来がある。
時はいつだって、記憶の消しゴムだから。



「ミョウジさん、今日掃除当番代わってもらえない?」
「あ、う、うん。いいよ」
「ありがとー!いつもごめんねほんと」
「う、ううん。大丈夫だよ」

俺はミョウジナマエというクラスメートの少女があまり好きではない。云い換えると、彼女に対する感情は「嫌い」に限りなく近い。常におどおどしていて、何かに怯えたような目をしている彼女。その癖口許は必死に笑みを作り上げている。まるで、笑っておけば攻撃される心配はないだろう、とでも云うように。何故そんなにも周囲に対して畏縮する必要があるのか。彼女の態度は俺を苛つかせる材料にしかなり得なかった。ミョウジ程のイエスマンはいないだろう、すくなくともデータを見る限りでは。事実ミョウジの口からは「大丈夫だよ」「分かった」といった肯定の言葉しか聞いたことがない。その時もまた、ぎこちない未完成の笑みを顔に貼り付けるのだ。ああ、本当に苛々させられる。

俺の知るミョウジは模範的な優等生だった。彼女と知り合った頃からそのキャラクターは微塵も変わらない。成績優秀なミョウジは考査では常に上位に名を列ね、運動は些か苦手なようだが別段音痴という訳でもない。ただ一つ言及するとすれば、彼女の「優等生」っぷりはあまりにも模範という範疇にはまり過ぎている為、またイエスマンであることも相まって、生徒からは勿論教師からも良い道具としてしか扱われていないようだった。いつ何時頼んでも掃除当番を代わってくれる、クラス全員分のノートの提出も代わりに行ってくれる、教材運びを文句一つ零さず手伝ってくれる。本人はおそらくそれを理解しているが、かと云ってそのことで口を尖らせる気配はない。奴隷或いはロボットさながらの彼女は、第三者にしてみれば惨めにも映った。

そんなミョウジは所謂学校掲示板というネット上の掲示板において、立海のスレッドを非常に賑わせているそうだ。云わずもがな賞賛等ではなく誹謗中傷で、だが。俺も一度、丸井だったか赤也にその掲示板を見せてもらったことがある。ミョウジナマエのイニシャルの後には決まって「キモい」の一言。他には「いる意味なくない?」やら「うざったい」やら「消えればいいのに」やら。注意する人間の不在がそのような対象の人物を容易に特定できる書き込みをエスカレートさせ、まるで本人に直接その言葉を浴びせているかのよう。目も当てられない程だった。
上記から赤也もミョウジナマエの為人が気になったらしく、彼女の下を訪れたことがある。いきなり友人でもない、況してや学年が下の人間に話し掛けられた彼女は普段以上におどおどしていて、その様子に俺はまた苛ついたのだが、苛立ちを示したのはどうも俺だけではないようだった。現場を目撃していた女子生徒は「どうして切原くんがあんなキモい奴と」と口を揃えて垂れていたのだ。なるほど、彼女たちの反感を買うのには充分過ぎたということか。
その日以降、ミョウジはただの便利な道具であるだけではなく、直接嫌がらせを受ける通称「いじめられっ子」に変貌を遂げた。上履きに始まり教科書、ペンケース、体育着と色々な私物が隠され、棄てられ、果ては切り刻まれた。いなくてもいい、寧ろいなくなってほしいと望まれる一方、いたらいたでぞんざいに扱われるミョウジにここまで憐憫の情を抱いたことはない。しかしながら嫌いな彼女を支えるでも虐めを非難するでもなく、俺はただ傍観に徹するのみ。


或る日の校舎に、俺と弦一郎は教師たちの息巻く姿を捉えた。どうやら屋上で煙草の吸い殻が発見されたそうだ。

「中学生で喫煙などたるんどる!」
「吸った人物が特定されるのも時間の問題だろう」

その日急遽開かれた全校集会の最中、俺は二通りの人物像を描いていた。前者は教師に絞られることを考えず校内で堂々と喫煙に及んだ大馬鹿者、後者は見付かる可能性を考慮した上で敢えて喫煙という違法行為に至った愉快犯。この歳で喫煙飲酒をしている者がいないとは限らないし、口を閉ざしているだけで彼らは案外自分の身近にいるものかもしれない。それにしても、規律を重んじるこの立海で吸い殻を捨て置くとは実に興味深い。

目を吊り上げた大人たちの巡回は日を追う毎に厳しくなっていった。サボりの常連である仁王や赤也もこの時ばかりは授業に参加していたのだが。これだけの労力を以てしても犯人を見付けられない愚鈍な教師たちはパトロールを怠るようになり、やがてはぴたりと止んでしまった。そうすれば仁王たちは再びサボタージュを始め、弦一郎の鉄拳制裁を喰らう日々も再来する。俺が放課後の屋上でミョウジを発見したのはそんな時だった。
彼女が屋上にいること自体が珍しく、だがその理由もすぐに明らかとなる。血管が浮き出たミョウジの掌には煙草が、足元には吸い殻が転がっていたのだ。そうか。彼女が件の犯人だったのか。俺に見付かった彼女は、だからと慌てて煙草を隠そうとはしなかった。安堵にも似た表情で、ふうと薄汚れた息を吐き出す。

「似合わないな」
「……だろうね」

初めて耳にしたと云っても過言ではない「大丈夫」「分かった」以外の返事。吸って吐いての仕草はたどたどしく、喫煙を始めてそれ程月日が経っていないことが窺えた。犯罪に手を染める、それが彼女なりのSOSだったのだろうか。他者の中の他者であるこの柳蓮二が明言することは敵わない。
結局のところミョウジの喫煙が教師たちに知られることはなく、俺自身もその事実を密告したりはしなかった。理由という理由がある訳ではないし、云おうと思えば云えるのだ。それこそ、煙草の火を消すよりも楽に。ただそうしなかったのは、俺の中でミョウジを見守りたいと、そのような行動に駆り立てる“何か”が確実に姿を潜めていたからである。好きか嫌いかと聞かれれば嫌い、正確には未だ嫌いな方ではあったが。

彼女は背筋をピンと伸ばし、両の手を広げフェンスの向こう側に佇んでいた。生温い風が彼女の背中に突き刺さり、スカートをはためかせている。脱いだ上履きをちゃんと揃えているのは、マナーを褒めてほしかったのか、それとも単なる当てつけなのか。仁王を捜しに来てみれば屋上にいたのはミョウジただ一人で。何をしているんだと問えば、「今から死ぬの」と生気のない声が返ってくる。そうか。なら勝手にすればいい。俺は止めなかった。止めたいとすら思わなかった。分かっていたからだ。ミョウジが死ぬ勇気など持ち合わせていないことを。否、それは勇気なんかではない。

びゅうと通り過ぎた突風に、ミョウジの躰がぐらつく。すると彼女はしゃがみ込み、自分自身を抱き抱えた。怖いのか。俺が訊ねれば、彼女は一片の迷いも見せずに応えた。怖いよ、と。つい今し方死ぬのだとその唇で断言したミョウジは、あっさりとそうすることを諦めたのだ。だが俺はそれを、そんなミョウジを意志薄弱な人間だとは思わない。

「凄いと思わないか」
「……すごい?」
「人は本当に脆い生き物だ。故に死のうと思えば簡単に死ねる。だがそんな人間は、死よりも辛くて苦しい毎日を生き抜いているんだ」

生きることの方が余程勇気のいることだろう。違うか?俺の問い掛けに、ミョウジは押し黙ったままうんともすんとも云わない。アスファルトに座り込んだ彼女は頭を垂れ、フェンスに片手を添える。やがてその手が痛々しいまでに柵を強く掴むと、鮮血が彼女の白い掌に色を付けた。

「……私なんて、いてもいなくても変わらないじゃない。私の代わりなんて、いくらでもいるでしょう?」

私なんて。私なんて。彼女の悲しみに満ちた言葉は、屋上に吹く風が冴え渡る大空へと運んでいく。恐かった。常に頑張っていないと、笑顔でいないと、存在を認めてもらえないのでは、そんな気がしてならなかったのだ。存在価値のない自分がそこに在る為には、優等生を演じ続ける他ないのでは、と。人に相談したくとも、迷惑を掛けて嫌われるのが恐かった。一人でいると苦しい癖に、一人でいることを選択してきた。口癖になってしまった「大丈夫」は、他でもない自分自身に云い聞かせているようなものだった。大丈夫、自分はまだここにいるよ。大丈夫、皆まだ私に目を向けてくれるよ。大丈夫、私はまだ頑張れるよ。頑張ることに慣れ過ぎて、時折苦しくなるのにそれでも頑張らずにはいられない。ミョウジは人知れず泣く日々を送ってきた。何かあっても、何も無くても。寧ろ自分に何も無いと思うからこそ、泣くことも多かった。心にぽっかりと開いてしまった穴がいつできたのかも、それをどうすれば塞ぐことができるのかも分からずに泣く時だって。

「お前のことは好きではない」
「……知ってるよ」
「だが、お前の描く絵は好きだ」

学校行事や展覧会を通して、美術部に所属しているミョウジの油絵を目にしたことが何度かある。彼女の風景画は、臨場感を抱かせた。彼女の人物画は、呼吸を感じさせた。精市も褒めていたな。ミョウジさんの描く景色や人物は、面白いくらいに生き生きしていると。

「それがどういうことだか分かるか?」
「お前だからこそそれができる。他の人間にできないことを、お前は為し得ているんだ」

こうも人に感動を与えられる人間がごまんといると思うか?要するに、お前でなければ無意味だということだ。瞬間、ミョウジの双眸からは大粒の涙が零れ落ちた。フェンスを掴んでいた血の滲んだ掌はするすると降下していき、地に辿り着けば今度は嗚咽する声が漏れ聞こえる。掃除当番を代わる必要がどこにある。ノートの提出を代行する必要も、決まって教材運びを手伝う必要も無いのだ。そんなに頑張らなくていい。お前はお前らしく、飾らずに生きればいい。理解してくれる人間は、必要としてくれる人間はちゃんといるのだから。昼休みの屋上に、咽び泣くミョウジの姿。俺はそれを、ただただ見守っていた。


ミョウジは変わり始めた。長いスパンで見れば、一概に「変わった」と過去形で語ることはできない。だから変わり始めたのだと、そう云わせてもらおう。ミョウジは掃除当番を頼まれても拒否するようになった。「大丈夫」も「分かった」も、あまり口にしなくなった。自己主張を徐々にするようになった。すると嫌がらせは相も変わらず継続しているが、彼女に話し掛ける人間が現れ出した。彼女を理解しようと、受け入れようとする人間が動き始めたのだ。あの学校掲示板においても、誹謗中傷の書き込みがあれば批判する者も出始めた。それは彼女への中傷を批判するものから、そういった低俗な書き込みをすることそれ自体を批判するものと、様々ではあったが。

「柳くん」

俺たちは鳥にはなれない。両手を広げたところで、翼の代わりになどなりはしない。空を自由に飛ぶこともできない。だが、俺たち人間には「手」がある。躓き転びそうになった時、地に手をついて立ち上がることができる。隣人が道を誤りかけた時、その手を掴み引き止めることができる。そして俺たち人間には「心」がある。だからこそ人に愛情を注ぐことも、その人から愛情を取り上げることもできる。

「ありがとう」

ミョウジは今、前を向いて歩いている。一歩ずつ、一歩ずつ。時に悩み、立ち止まり、振り返ることはあるだろう。しかし、彼女は絶対に引き返さない。今の彼女には、未来へと導いてくれる親友という存在がいるのだから。そう。苦しくも辛くもあるが、確かな光に照らされた未来へと。



どんなにつらいことも時が過ぎれば忘れられる。
一人で悩んでいないで誰かに打ち明けて。
それは勇気のいることかもしれないけど、きみはそんなに弱くない。


title&message:A/K/B48より

20110720

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