※死ネタ注意


たとえば初夏の匂いを漂わせる鮮やかな新緑の木々だとか、たとえば少しばかりグラデーションがかった淡青の空だとか、俺がいま当たり前のように存在している世界はあまりにも多くの色で彩られているというのに。あの日、そんな色彩豊かな世界の中から追い遣られたきみが今、こうして佇んでいるのは気味が悪いくらいに白一色の空間。白い壁、白いベッド、白いカーテン、白白白……ああ、そっか。黒色もあったね。きみのその、混じり気のない艶やかな、ずっと触れてみたいと思っていた黒髪。だけどそれでもこの一室は限りなく白一色に近くて、そして俺にとってはなにより異質すぎた。俺だけじゃない、きみだって同じでしょ?だって俺もきみも、こんな場所には一生涯無縁な人間、だったはずだから。

今日も今日とて飽くことなく外の景色を眺めているきみの唇は、柔らかな弧を描く。犬の散歩をしているお姉さん、下校中の小学生、手を繋いで歩く老夫婦。その全てに敏感に反応しては、ひとつ、またひとつと綺麗な笑みを重ねていく。“今日も元気だね。”会話は大凡その一言から始まる。何が、なんて聞かずとも知っている俺は、そうだねと相槌を打つことを忘れない。ああ、蝉の鳴き声が喧しい。
いつだったか、彼女に問われたことがある。夏だけの命だから、蝉はあんなに鳴いているのかと。まあ俺という一介の人間が蝉の気持ちはおろかライフスタイルなど知る訳もないので、その質問に対して適切な答えを提示することは敵わなかった。うーん、俺は蝉じゃないからなぁ。すると、彼女は微笑んで云うのだった。

「キヨが蝉じゃなくて良かった」
「どうして?」
「だって、キヨが蝉だったらわたしより先に死んじゃうでしょ?」

彼女が口にした“死”という言葉が怖いくらいリアルさを帯びて伸し掛かってくるもんだから、俺は微笑みを返事代わりに彼女の手を取った。そしたら彼女は空いた方の手を重ねてくるから、俺は更にその上にもう片方の手を重ねる。乗せられるものが無くなると、彼女はちょっぴり悔しそうに笑った。そのあどけない笑顔を目にした俺は、学び舎で彼女と過ごした日々を、あのありふれた、けれど幸せに満ち足りた毎日を、つい昨日のことのように思い出したんだ。そうして今日もまた展開される他愛ないやり取りの中で、ナマエは再び“死”という単語を口にした。キヨは、死なないでね。ナマエは泣きそうな顔をしていた。その表情は酷く歪んでいた。何云ってんだよ。キヨは、ってなんだよ。なんで俺だけみたいな、そんな云い方するんだよ。

「だってわたし、生きるから。これから何年、何十年って生きるんだから、キヨがいなかったら寂しいよ」


生きると云い切ってみせたナマエには、どんな犠牲を払ってでも達成したい目標があった。ナマエが所属し、二年にしてキャプテンに任命されたバスケ部を全国大会、果ては優勝へ導くのだと彼女はかつて豪語したのだ。だからこんなところでくたばったりなんかしない。

その強い口調とは裏腹にナマエの見せる表情はぐにゃぐにゃとやはり不安定で、俺が取った行動はといえば彼女の体をきつく掻き抱くことだった。痛いだなんて訴え知るもんか。だってこの腕の力を緩めたら、きっとナマエは消えてしまうだろ?俺は己の無力さを呪った。ナマエを病室という籠の中から解放することも出来なければ、病魔と闘う彼女を救うことも俺には出来ない。それ以前に俺は、ナマエが病魔に蝕まれていたことにすら気付いてあげられなかったのだ。じゃあ今の俺にはナマエの為にしてやれることが何か一つでもあるのだろうか。模索してみても自分を納得させられるだけの答えは得られず、それから一週間後にナマエは亡くなった。藻掻き、苦しみ、生きたいと声にならない声で必死に叫びながら、ナマエは息を引き取った。ナマエのお姉さんは噎び泣いていた。ナマエによく似たまだ幼少の妹は「お姉ちゃん寝ちゃったの?」なんて無邪気に訊ねていた。ナマエのお母さんは、慟哭するあまりたったの一言も返してあげられなかった。俺は呆然と立ち尽くしながら、主治医と看護師の遠ざかる足音を聞いていた。

七月某日、天気は快晴。今日もこの世界のどこかで、自ら命を絶っていく人がいる。あんなに生きたいとただそれだけを願った人間がそれを叶えられずに死んでいくのに、その一方で命を粗末にする人間が後を絶たない。ねえ、そんな事をするくらいならその魂をナマエにちょうだいよ。そしたら死にたい奴はお望み通り死んで、生きたいと哀願したナマエは生きられるでしょ?

病院の外に出ると蝉の抜け殻が落ちていた。軽く踏んでみるとぱりんと割れる音がして、俺は周囲の目なんて気にも留めずに何度も踏み潰した。何度も何度も踏み潰すと、抜け殻は粉々になった。その間アスファルトにできた染みは、間違いなく俺の涙だった。



「……今日も元気だね。蝉が?そう。蝉が」

ナマエのいない夏なんて一瞬で終わってしまえばいい。俺は高く昇る太陽に手を伸ばし、握り拳を作った。この暑くて哀しい夏を殺すように、強く強く。

title:hmr

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