※性的表現を含みます


決して越えてはいけない一線というものは確かに存在していて、今私が強いられているのがそれなんだということは十二分に理解しているつもりだった。だけど日毎膨らんでいくこの感情を抑えることは到底出来なかったし、第一私はその術を知らなかった。それは恋なんて純粋で綺麗なものじゃない。もっとぐちゃぐちゃで、醜い感情。
私は先生が好きだった。愛していた。きっとこの先何が起ころうとも、先生を嫌いになったりすることなんてないと云い切れる自信もあった。だからあの日、保健室で校医との情事を目撃してしまった時もショックだとか軽蔑、幻滅だとかそういう感情は不思議と湧いてこなくて。あの女が憎い。あの女さえいなければ、先生は私を見てくれるのに。先生の心を独り占め出来るのに。私を支配するのは校医に対する憎悪、ただそれだけ。
なんとか排除しなければ、そんな思いに駆り立てられた私は翌日から保健室を見張るようになった。張り込みをする刑事の気分だ。やがて私の行動は功を奏し、再び先生と校医は行為に及んだ。私の手にはインスタントカメラ。保健医の姿だけが特定出来るよう写真に収めると、直ぐさま現像して校内の至る所に貼り付けた。絡み合う二人が網膜に焼き付いて離れない。あの女の喘ぎ声が反芻して吐き気がする。だけどこれであの女を退けられると思えば何てことはなかった。ああおかしい。あの時の青ざめた顔があまりにも滑稽で、今でも笑ってしまう。

離任へ追い込まれた校医は数日で四天宝寺を去り、私は先生に接近を図った。気丈に振る舞っているつもりだろうけれど、その空虚な瞳を私は見逃さない。

大丈夫、大丈夫だよ先生。辛いのなんて今だけだから。私が忘れさせてあげるから。だから早く、私だけを愛してね。その煙草臭さを含み持った唇にキスをして、ねっとりと首筋に舌を這わせる。私と先生は体を重ねるようになった。先生の指は、ペニスは私をどこまでも乱した。滴り落ちる汗ですら計算されているようで、私は幾度となく絶頂に達した。
セックスの最中、私がいくら好きだと口にしても先生は何も反応を示さない。名前を呼んでと先生の背中に爪を立てても、先生が私の名前を呼ぶことはない。先生はいつも、ロボットのように私を抱く。行為に対しては何の感情も垣間見られないけれど、その癖先生の瞳は今もまだあの女を映しているし、あの女だけを求めている。

離任から一ヶ月近くが経った頃だった。動向が気になった私は、あの女の赴任先にいる友人に詮索を頼んだ。そしたらあの女、今度はその学校の先生とよろしくやっているみたいで。結局先生との関係は遊びだったってこと?穢らわしい。あんな女、とっとと死んじゃえばいいのに。

後輩の財前くんに告白されたのは、それから更に一ヶ月が過ぎた雨の日のこと。勿論私は断ろうとした。そしてそんな私を制したのは、他でもない財前くんだった。一番でなくてもいいから傍にいさせてほしいと、そんな彼の望みを結果的に私は聞き入れたのだ。
財前くんは優しかった。不器用で口下手なところもあったけれど、私を芯から支えてくれた。それなのに、私は嘘ばかりついた。好きと云われれば私も好きだよと返したし、俺だけを見てほしいと云われれば財前くんだけを見てるよと返した。実際私が見ていたのは先生ただ一人だったし、財前くんと付き合い出したからといって先生との関係が終わった訳ではなかった。財前くんは引き留めたそうにしていて、でも一番でなくても良いと云ったのは自分なのだからと口出ししてくることはなかった。そういう彼の優しさや好意に甘え利用しながらも、私はどうすれば先生が自分だけを見てくれるのかとそればかりを考えていた。思い付く限りの試行錯誤は悉く失敗に終わり、それでもきっといつかはだなんて根拠もない癖に余裕ぶっていた。
そうもいられなくなったのは、先生があの女と逢っていたという情報をキャッチしてから。今までは感じなかった焦りや苛立ちが私を襲う。先生、ねえ先生。先生のことを一番に好きなのは私なんだよ。だからいい加減、私だけを見てよ先生。何度せがんでも先生はやっぱり好きとは云ってくれないし、私の名前を呼んでもくれなかった。いつまでもそんな調子だからか、私が財前くんに八つ当たりすることもしばしば見られた。自分がここまで最低だなんて思わなかった。それでも私は、先生に縋り続けた。そしてあの日、先生はきっぱりと私を拒んだのだった。

「もうおしまいや、ミョウジ」

先生とあの女は遊びなんかではなく、あの女の離任を機に一度終わりを迎えた関係が戻ったのだと。俺が愛しとるのはあいつだけやからと、先生は私を突き放した。終わりだなんて云わないでよ先生。おしまいにするくらいなら一番じゃなくてもいいから、だから傍にいさせてよ。
どんなに縋ったところで、先生は私の願いを聞き入れてはくれなかった。私を拒絶する先生の瞳はそれでいて優しくて、ほとほとと涙が頬を伝う。どんなに頑張っても、どんなにあの女を遠ざけても無理なんだ。泣き崩れる私に先生はごめんなと、ただ一言。あの女との関係を暴いたのが私だということをきっと分かっている筈なのに、先生は責めも詰りもしなかった。その瞳には私に対する怒りの色なんてなくて、先生のそれは最後まで優しかった。

ああ、そうだ。
長い間見ていなかった先生のその瞳が、私は好きだったんだ。

「名前、呼んでください……先生」

ずるいよ、先生。だってこんな時だけ要求を聞いてくれるなんて、それじゃあやっぱり私には先生を嫌いになることなんか出来ないじゃない。ナマエ、ナマエ。先生が初めて私の名前を呼んでくれたのは、恋人でもセックスフレンドでもないこの関係が終幕を迎えた時だった。



「別れよう、光」

私が光に別れを告げたその日も雨が降り頻っていた。正直今ここで光まで失ってしまったら、私は立っていることすらままならないかもしれない。だけど光の想いを知りながら自分の身勝手さに付き合わせるなんて真似はもう出来なかったし、何よりこれ以上彼を苦しめたくなかった。
そうして忍び寄る孤独に暗暗裏に怯える私を、光はその腕に抱こうとする。独りにさせないように、寂しい想いをしなくて済むように。いつもそう。光が考えるのはいつだって私のことばかりで、それ故彼は多くの犠牲を背負うんだ。光には幸せになる権利がある。ただ、私が光の隣にいたんじゃ彼はきっといつまでも不幸のままだから。

「もっと利用したらええやないですか。せやから別れるなんて云わんといてください」
「光には……絶対にいる筈だよ。光のことを、幸せにしてくれる子が」

俺はあんたやなきゃ嫌や。あんたやなきゃ意味があらへんのに、どないして分かってくれへんのですか?光は全身で別れを拒んでいた。分かってる、分かってるから私は別れを選んだんだよ。こんなに近くにいるのに、どれだけ想いを伝えても自分だけを見てもらえない辛さと苦しさを私は知っている。光だってずっと辛かったでしょ?私はまだ先生のことが好きで忘れられないから、この先一緒にいたって傷付くのはやっぱり光なんだよ。
がんとして意思を曲げない私に対して、光はもっと頑なだった。嫌や、絶対に嫌や。そう訴える彼の瞳があの女だけを映し追い求めていた先生のそれと重なって、私の胸は張り裂けてしまいそうだった。私がそんな瞳にさせてしまっているんだ。じゃあもし無理に突き放したりなどしたら、彼はどうなってしまうんだろう。光の為を思えば、今ここで別れるのが最善の選択の筈なのに。私は意思を貫き通せなかった。だから了いには、あの日のように光の望みを聞き入れてしまったのだ。

ごめんね、光。弱くてごめんね。守られてばかりで、苦しませてばかりでごめんね。

「ごめんね……ありがとう」
「先輩、好きです」
「うん。ありがとう、」

好き、大好き。だけど一番じゃない。そして私も、先生の一番にはなれなかった。一言、ただ一言口にすれば済む話なのかもしれないのにね。どうしてかな。“嫌い”だなんて、その言葉だけは嘘でも云えないよ。

あなたのいない明日しか来ないのなら世界なんて消えてしまえばいいのに。

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先生=オサムちゃん

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