早朝、掴みの正門を数歩過ぎた辺りで生徒手帳を拾った。躊躇いながらも中身を拝見させてもらい、落ちていたところにそっと戻したわたしを目撃した生徒は誰もいないだろう。
神様、素通りさせてくれませんか。何も普段のわたしは落とし物を発見しておきながらそれを持ち主に返さないような心の狭い人間ではない。今こうしてわたしが葛藤している理由は、この生徒手帳が財前光くんの物であるということにあった。
財前くんといえば、強者揃いのあのテニス部で二年にしてレギュラーの座を勝ち取ったという、クールでイケメンな男の子。わたしは彼が苦手だった。まあわたしが一方的に苦手意識を抱いているだけで本人はまさかわたしのような一介の女子生徒を知りはしないだろうし、勿論そうであってほしいとは思う。彼の何が苦手かって、あの鋭い目付きや態度や物言い。以前2組の前で同じくテニス部の忍足くんや白石くんと雑談している姿を見掛けたことがある。仲が良いんだなーと何となしに耳を欹ててみたら、終始タメ口で話すわ毒舌だわで憮然としてしまった。先輩を敬うという概念が財前くんには些か欠けてしまっているのかもしれない。ただそこはわたしの知るところではないし、そもそも知りたいとさえ思わない。その瞬間からわたしの中で財前くんは怖い人という認識が為されたのである。

そういう訳で、わたしはほとほと困り果てていた。周囲に人がいる気配はないし、今ならこの手帳の存在に気付かなかった振りをして校舎へと歩みを進められる気もする。けれどなんと云うか、俺を無視してんじゃねーよと持ち主によく似た刺すような眼差しで凝視されているような感覚に襲われて、素通りすることはとてもじゃないが出来そうもなかった。仕方ない。観念したわたしは手帳を拾い上げる。どうにかして財前くんに渡そう。うん、どうにかして。テニスコートのある方向を見遣ると、テニスにあるまじき轟音が聞こえてきた。きっと石田くん、かな。今行って渡してしまおうか。でも、朝練に水を差すのはなんだか申し訳ないし。とぼとぼ歩いていたら、やにわに閃いた。
そっか。直接渡さなくてもたとえば下駄箱に入れておくとか、或いは机の中にしまっておくとかすればいいんだ。でも、待てよ。わたしは、自分が思っている以上に愚鈍だった。よくよく考えたら下駄箱も座席もどこか知らないじゃんわたし。それでどうやって返すっていうの。
昇降口で靴を履き替えながら、ああでもないこうでもないと策を練っていると不意に人一人分の脚が視界に映る。まさかのまさか、朝練中のはずの財前くんが目の前にいて心臓が大きく跳ねた。

「すんません、それ」

財前くんの視線はわたしの手元、彼の生徒手帳に注がれている。あ、あの、これ。さっき正門の側で拾って。目を泳がせながら手帳を差し出すと、財前くんはにやりと意地悪く笑った。

「あんた、一瞬スルーしようとしはりましたよね」
「……え、」
「俺、触れただけで物の心が分かるんすわ」

へえそうなんだすごい特技だなぁ、と一瞬感心しかけてしまったけれどそれってただの中二病じゃ。心の声として留めておいたはずがもろに口に出してしまっていたらしく、財前くんはこれでもかと云うくらい眉間にぐっと皺を寄せて、不機嫌アンド不愉快アピールをしていた。後悔先に立たず。さあどうやってこの場を切り抜けよう、そればかりに頭を働かせる。
ちゅーか、あんた。下駄箱に手をつきその中にわたしを閉じ込めることで逃げ道を奪うと、財前くんは表情を変えずに云った。あんた、ほんまおもろいわ。それはそんな厳めしい形相で云う台詞ではないような……暴言を吐かれるよりははるかにマシだけど。

「なんで暫く付き纏わせてもらいますわ」

は?思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。ちょっと待って、面白いからそれがどうして付き纏うことになるの。というかそんな堂々とストーカー宣言されても正直困る。あ、あの財前くん。付き纏うってどういうことですか?聞く耳持たずな財前くんはわたしの声など華麗に無視すると、去り際にこう一言。

「そういうことなんで、よろしく頼んますわ。ミョウジ先輩」

どうしてわたしの名前を知ってるの?足早にコートへ戻ってしまった財前くんに問い掛けることは敵わなかった。まさか、冗談だよね。HR中、彼の科白が脳内で何度も何度も反芻される。財前くんって年上をからかうの好きそうだし、だからさっきのも本気で云ったんじゃないよね。うん、きっとそうに違いない。そう信じることでわたしは徐々に落ち着きを取り戻していった。
「ミョウジせんぱーい」
のに、これはどういうことでしょう。休憩時間になり、次の授業の準備をしていると聞き慣れない声がわたしを呼んで。それが財前くんだということは彼の姿を認識することで即座に理解出来た。でも、なんでわたしがこのクラスの人間だって知ってるの?名前を知ってることといい、謎ばかりで心が置いてきぼりを食らったような気分だ。千歳くんと同じクラスだからひょっとして彼から聞いたのかとも思ったけど、普段ろくに教室にいることのない彼がわたしの存在を把握しているとはあまり考えられなかった。なんなの財前くん怖い。ついでに云うと皆の視線も。

そうして宣言通り、財前くんはストーカーさながらに付き纏い始めた。休憩時間の度に教室へ出向いては、「今なんの授業やったんすか?」「ここ教えてもらえません?」の繰り返し。昼休みは必ず拉致られ、一緒にお昼ご飯を食べる。天気が良ければ屋上だし、悪ければ視聴覚室や空き教室。おかずを摘まれることなんてしょっちゅうだった。狙われるのは大抵手製の卵焼き。俺好みの味っすわ。そう云って卵焼きを頬張る姿がちょっとだけ可愛いとか思ってしまった。奪われると分かっているのに、気が付けばお弁当箱の中にはいつも卵焼きが顔を覗かせるようになった。財前くんはいろんなことを聞かせてくれた。忍足くんはただのへたれだとか、白石くんはただの変態だとか。賛同していいものかは分からない。千歳くんがジブリ大好き人間だというのには驚いた。それからいろんな音楽も教えてくれた。ボーカロイドの曲とか、海外のインディーズバンドの曲とか。知らない世界に触れるのは楽しかった。それに、あんなに怖いと思っていた財前くんの目付きも口調もわたしといるときはすごく優しく感じられて。単なる思い込みかもしれないけれど。
そんな日々が続くこと数週間。わたしの日常の中には財前くんがいる。ふとやって来たかと思えば、わたしをきらきら輝く未知の世界へと案内してくれる。それが普通になっていた。

「今日は来ないんかね、財前くん」
「……分かんない」

だから、財前くんが突然姿を現さなくなったことにわたしの胸はぽっかりと穴が開いたようだった。苦しい程の空虚感。もう、飽きてしまったのだろうか。いくら待っても、財前くんは教室に来てくれない。わたしの名を呼ぶ、やる気のない気怠げな声も聞こえない。気になって彼の教室にこっそり様子を見に行けば、ばちと目が合ったのにあからさまに無視されて。涙が溢れた。ぼとぼとと零れ落ちる大粒のそれは、拭っても拭っても頬を滑っていく。泣くほど怖かった?泣くほど嫌だった?違う、泣くほど財前くんのことが好きになってしまったんだ。気付いたときには遅いだなんて、あんまりだよ。ふらふらと覚束ない足取りで向かうは視聴覚室。だって今日は雨が降っているから。財前くんとの軌跡がすっかり体に染み付いていて、それが余計に涙を誘った。ここや屋上で過ごした時間は決して幻なんかじゃないのに。なんだか夢を見ていたみたい。あんな、冷たい財前くんを目にしたら。好き。好きだよ財前くん。ぺたりと座り込み、わたしは噎び泣く。お願いだから、もう一度優しく微笑みかけてよ。ねえ、財前くん。

「あ、やっぱりここにおった」

薄暗い視聴覚室に光が差し、現れた財前くんにわたしは目を見張った。捜してほしいと、見付けてほしいと心のどこかで期待はしていた。でも、本当にそうしてくれるとは思っていなかったから。どうしよう、わたし今、泣きすぎて顔ぐちゃぐちゃ。不細工な表情を見られたくなくて咄嗟に顔を隠すと、容赦なく腕を掴まれてしまう。痛いよ、財前くん、

「えらいことなってはりますね、先輩の顔」
「だ、だって財前くんが、」
「そないに好きやったん?俺のこと」

やっぱり財前くんは意地悪だ。わたしの気持ちなんて、云わなくても分かってる癖に。こくりと小さく頷けば、掴まれていた腕が解放された代わりに抱き寄せられた。
「俺も好き」
財前くんの匂いに、囁くような声に、頬に添えられた掌に、眩暈がする。あんなに怖いと思っていた人を、こんなに好きになるなんて。密着する肌と肌。そっと重なる二人の唇。くちゅりと舌を絡め取られ、官能的な空気に脳髄が痺れを起こした。
「先輩のことが気になっとったから、あん時わざと生徒手帳落としたんすわ」

好きになりすぎて気が狂ってしまいそうだよ。ああだけど、財前くんになら溺れてしまってもいい。

君は僕を惑溺させる//hmr
20110402

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テーマ「人外ファンタジー」
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