近頃の天気はなんとも気紛れだ。三日前は晴天で一昨日は雨天、昨日は快晴でかと思えば今日はつい先程まで豪雨に見舞われていた。今年の桜は開花が遅れているとかで、土砂降りの犠牲にならずに済んで良かったなぁと心底思う。だって満開になる前に散ってしまったらすごく悲しいじゃない。
ぽつり。ひっそりとした教室にはわたし、ただ一人。雨粒が滑る窓の向こうを見下ろせば、学年という垣根を越えて抱擁や言葉を交わす生徒たちでごった返していた。白石は、謙也は、テニス部のみんなは。あの雑踏の中から捜し出すのは、ウォーリーを探せと同じくらい困難を極める。第一わたしは視力が悪い。これまで裸眼でなんとか頑張ってきたのは、眼鏡をかけるのもコンタクトという異物を目に入れるのも嫌だったから。それにしてもこの光景はあれだ。ムスカの「見ろ、人がごみのようだ」という台詞を思い出させる。

ふっと笑みを零したら、丁度良いんだか悪いんだか分からないタイミングで誰かがわたしを呼ぶ声が聞こえた。時折床を鳴らす甲高い足音は徐々に近付いてくる。隣の席に腰を下ろしたのは財前くんだった。何してはったんですかと訊ねてくる財前くんに、わたしはんーとする必要もないのに考える素振りを見せてから、窓の外を眺めてたのと返す。だって、実際のところそれしかしていない。
隣り合う財前くんの耳元はぎらりと鈍い光を放つ。カラフルなピアスは相変わらずで、卒業式くらいは外すよう担任から注意を受けなかったのだろうかと、ちょっとした疑問が脳裏を過ぎった。すると財前くんはわたしの視線で察したのか、外せ外せ云われたんすけどめんどかったんで、と教えてくれたのだった。ピアスを外すという動作が面倒だというのなら、しつこい担任をあしらうのは面倒じゃなかったのかな。まあでも、財前くんらしいや。

わたしたちは沈黙を間に断続的な会話を繰り返した。卒業記念に何か奢ってよと云えば即座に拒否されるし、後輩を叱咤激励する意味で善哉奢って下さいよと云われれば即座に拒否をする。謙也に奢らせればいいんじゃないあいつ金持ちなんだし、と口から飛び出そうになったその無責任この上ない言葉をわたしはぐっと飲み込んだ。以前も確かおんなじことを財前くんに云ってその結果とんでもない事件に繋がってしまったので、再び謙也を巻き込むのはさすがに可哀相だった。テニス部がオフの日に白石と謙也とマネージャーのユキちゃんとわたしの四人でサーティワンへ行こうとして、それを知った財前くんがついてきて、更に一氏くんや小春ちゃん、遠山くんたちも同行することになって、最終的にほぼ全員分を奢らされる羽目になった謙也は自分の分だけ買うことが出来なかった。というのがそのとんでもない事件の全貌だ。遠山くんなんか最初はたこ焼きがいいって散々駄々を捏ねてたのに、ちゃっかりトリプルを奢ってもらってたんだっけ。無自覚なえげつなさって恐ろしい。あの時食べたストロベリーチーズケーキとロッキーロードのダブルは美味しかったなぁ。そういやあそこのサーティワンが潰れちゃったのっていつだったっけ。確か、

「ナマエ先輩」
「ん?」
「俺」
「ん、」

諦めてませんから。
ああ、そうだ。財前くんに告白されたのと同じ頃だったな。あのときは他にもお母さんが病気になったりとか、色んな出来事が最悪なまでにぴたりと重なって、絶望していたわたしを救ってくれたのも財前くんだった。
ごめんね、財前くん。ごめんなさい。それがわたしの返事だった。財前くんのことは勿論好き。だけど、特別な意味での好きじゃない。こんなわたしを好きになってくれてありがとう。そうすると財前くんは云うのだった。俺、諦めませんから。たった今彼が発した台詞と同じそれを、口角をにやりと吊り上げて。今とあのときとで決定的に違うのはその表情。財前くんの瞳は微かに不安を宿していた。高校へ進学するわたしには、新たな出逢いだったり可能性だったりが待ち受けていて、一歩ずつ一歩ずつ、彼が知るわたしから遠ざかっていってしまう。そんな未来を怖れているからだろうか。

せんぱい。無言のわたしに財前くんは問い掛ける。抱き締めてもええですか。本来なら断るべきその要求を、彼の望み通り呑んでしまったわたしは大した小悪魔だ。ううん、ひょっとしたら悪女かもしれない。

「ごめんね、財前くん」
「……何がですか」
「財前くんの気持ち、分かっててこんなことさせてるから」
「俺がしたい云うたんですから先輩は謝らんといてください」

ほとほとと涙を零すわたしに気付かない振りをしてくれる財前くんは、いま、わたしをその胸に抱く彼自身の体温と同じくらい優しくて温かかった。普段は低体温の癖にね、こういうときばっか謀ったようでなんだかずるいよ。それに、知ってたのかな。本当は、わたしがこうして泣きたかったのを。その涙の訳は二つ。一つは財前くんに対しての罪悪感からくるもので、もう一つは。

「……卒業、した、くないな…っ」

わたしだってそう。わたしだってそうなんだよ。皆が別々の高校へ進んで、知らない誰かと出逢って。夢を持って、各々の道を行く。変わることも離れることも避けられないのに、卒業したくないだとかずっとこのままでいたいだとか、どうしようもない我が儘ばかりが浮かんでは消え、浮かんでは消え。
たとえば教室。
おっぱいの話で盛り上がるわたしと謙也に、白石がナマエは女の子なんやから乳やのうて胸かおっぱいかバストって云いやとオカンみたいなことを云ってきたり。
たとえば廊下。
わたしの前に座る謙也が授業中鬱陶しいくらいペン回しをしてたから消しカスを大量に送り付けてやったら倍にして返されて、その倍にしてプレゼントフォーユーしてやったら更に倍にしてプレゼントフォーミーされて。先生に怒鳴られ挙げ句廊下に立たされたわたしたちを、体育の授業から戻る途中だった小石川くんが思いきり同情の眼差しで見てきたっけ。
たとえば屋上。
たまのサボりで千歳くんと搗ち合えば、給水タンクの上でジブリトークを繰り広げたりトトロの都市伝説を無理矢理聞かせて虐めたこともある。にしてもよく嫌われなかったなぁ、わたし。
たとえば食堂。
お弁当が主だったわたしが食堂を利用することは年に数回程度しかなかったけど、テニス部のみんなが一緒だと笑いすぎて箸が思うように進まないことがほとんどだった。小春ちゃんと会話をすれば、俺の小春に何すんねんヌワァァと一氏くんが暴走モードに突入したりとかね。
たとえば休日。
部活終わりのユキちゃんと繁華街に出掛けては、この服が可愛いあの服はナマエちゃんに絶対似合うよなんて呆れるくらいお互いを褒めちぎったり。財前くんだけじゃない。皆、みんな優しかった。温かかった。その感覚に触れられなくなってしまうのかと思うと、涙はとめどなく頬を伝い財前くんの制服にじわりじわりと透明な染みを作る。白石も謙也もユキちゃんも石田くんも、みんな卒業を惜しんではいても泣いていなかった。だからわたしも泣かなかった。なんだか場違いな気がして。泣いたらみんなを困らせてしまう気がして。もしわたしがこの叶うはずのない我が儘を口にしていたら、みんなはいったいどんな反応をしていたのだろう。

「待っとってくださいね。ナマエ先輩」
「……え?」
「高校生になる頃には、俺もまた見違えるくらい格好よくなってるんで」

わたしは笑った。泣きながら笑った。ちょっぴり不満というか不服というかまあそんな表情をしていた財前くんも、やがてわたしに釣られるように笑った。そういう自信家なところ、素敵だなって思うよ。ぐちゃぐちゃな顔のままそう云えば、彼はもう一度宣言したのだった。俺、先輩のこと諦めませんから。必ず好きにさしたりますわ、と。口角は強気な様を表すかの如く吊り上がっていて、その瞬間わたしの中で今までとは違う感情が芽生えたような気がした。

「あ、見て財前くん」
「なんすか?」
「虹、出てたんだね」
「…ああ、ほんまですね」

赤、青、黄と空に架けられた色鮮やかな虹。外にいる生徒の何人かも空を見上げている。そういえば中国では虹に雄雌があってとか色彩学上虹は七色なんだけどアメリカではこうドイツではこうとちょっとした雑学を話し始めると、先輩ってどうでもええことばっか知ってはりますよねと小馬鹿にされてしまった。ど、どうでもいいかもしれないけどさ!小突こうとするわたしの右手をひょいと容易く躱した財前くんは、机から下り皆との合流を促す。教室を去り際に一度だけ振り返り窓越しに空を見遣れば、虹は一瞬にして薄れてしまっていた。同様にいつの日か記憶の中から薄れやがて消えて無くなったとしても、今日こうして財前くんと過ごしたこの時間だけは絶対に忘れない。

オフィーリアは涙に沈む//melt.

20110318

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