店内に流れるメロディアスなBGMに、ダートの的に刺さる音が重なる。その横には円柱のエアレーション水槽が設置されており、青色のLEDライトが暗い中で輝く様はいつ見ても幻想的だ。平日は客足が少ないおかげで、こうして周囲の目を気にすることなく酔いどれになることができる。普段のわたしなら勿論自分のキャパを把握しているので、飲むとは云っても冷静さを保てる範囲内に留めているけれど。今日だけは、どうしても酔い潰れたかったのだ。カウンター越しにマスターが見守る中、本日何杯目だかも最早定かではないアルコールをぐいっと飲み干す。

死にたいなんて言葉、軽々しく口にしていいものじゃない。だから今のこの心境を別の言葉に言い換えるならば、疲れた。なにもかもに、寧ろ生きること、そのものに。いっそのこと、無断欠勤でもしてやろうか。あの二人の仲を修復不可能なくらいめちゃくちゃにしてやろうか。彼女たちの制服を切り裂いて、恐怖のどん底へ突き落としてやろうか。すべては思うだけ、思うだけ。
一般的に成人した人間というのは、どんな事柄においても善悪の判断や分別ができるとみなされる。何が常識で何が非常識か、ということも。だからわたしがいくら被害者ぶったところで、第三者からすれば当然の結果だと受け取られるのがきっとごく普通のこと。たとえ知らなかったとしても、世の中には知らなかったじゃ済まされないことがいくらでもあるし、今回のケースも例に漏れずそうであるはずだ。しかしながら、この仕打ちはないだろう。あんまりすぎやしないか。良いことは長続きしないのに、悪いことに限ってはどうしてこうも芋づる式に起こってしまうの?涙が流れる気配はない。悲しいとか悔しいとか、今のこの心情はそんな一言に纏められるような易しいものじゃないからだ。
モスコミュール、ジントニック、テキーラサンライズ。飲みに飲んだアルコールたちが逆流してしまいそうだったので、わたしはふらりと立ち上がった。そろそろ帰ろう。こんな調子でちゃんと帰れるかは分からないけれど。会計を済ませて店を出れば、生温い夜風が頬を撫でた。バーから自宅のあるマンションまではそう遠くない。本来なら歩いて十五分程度で辿り着く距離にある。が、千鳥足で向かう分には果たして何分掛かることやら。ああ、気持ち悪い。歩行を諦めたわたしはガードレールに凭れ掛かり、きゅっと目を閉じた。明日は二日酔い確実だ。これで上司の怒声が飛んで来ようものならお茶出しの際にとびきり熱いものを運んでやろうか。

「お姉さん、どないしたん?」
細やかな復讐を目論んでいると、人気のない通りに少し低めの、それでいて妙に色気を孕んだ声が響いた。お姉さん、お姉さん。ああ、呼ばれていたのはわたしか。ぐわんぐわんと重く揺れる頭を上げれば、そこに立っていたのは制服に身を包んだ男の子。暗がりでも分かるくらいの綺麗な顔立ち、って違うそうじゃないでしょ。泥酔するあまり頭はほとんど働かないが、それでも制服を着ているということは彼は学生で、今は未成年が一人でほっつき歩いて良いような時間ではないということはかろうじて理解できた。えらい酒臭いなぁ。男の子は笑うけれど、こちらとしては呑気に返事などしていられない。

「きみ、高校生…?こんな時間に何してるの?」

呂律が回らなかったせいでかなり聞き取りにくかったとは思う。それでもどうにか伝わってくれたようで、男の子は目線を合わせるとこう答えた。「お姉さんこそそない酔い潰れて。何があったん?」質問に質問で返されるとは予想していなかった。そもそも今のこの頭では、予想するという行為それ自体が困難を極めていただろうけど。というか何故見ず知らずの少年に顛末を話さなければいけないのか。もしや新手のナンパだったり?咄嗟に睨みを利かせて警戒してみせたつもりだったが、まったく効果はなかったらしい。男の子は笑うだけだった。
「ほな、俺も徘徊しとる理由話すさかいお姉さんも教えてくれへん?」
反射的に縦に振りかけた首をわたしは慌てて横に振る。その要求を呑める訳がないことくらい考えられないのだろうか、この少年は。ここに長居することで万が一警察に見付かり、あらぬ疑いをかけられるなんて真っ平ご免だ。こんな路傍で酔い醒ましなどしていないで早々に退散しよう。ぎりぎりと云えども冷静な判断ができてるってことは酔いが足りないのかしら、とかなんとか思いながらもわたしは腰を上げる。
けれど少年はそれを許さなかった。彼は進行を阻止すると、わたしの手を強く握って云う。
「……独りにせんといてください」
その瞳はわたしに縋り付いて離そうとしない。独りにしないで、少年は確かにそう云った。つまり家にはいたくない、その癖独りにはなりたくない理由があることは明らかで。だからと云って知り合いでもなんでもないわたしが傍にいてやる義理なんてないし、もう一度繰り返すが下手に関わって警察のお世話になるような事態はなんとしても避けたい。それなのにこうしてまたガードレールに凭れ掛かろうとするのは正に矛盾、そのものだった。酔いの為にバランスを崩しかけた体を少年は腕を伸ばして支えてくれる。ああどうか、警察官が通りませんように。

「期待されるんが、怖くなってしもたんです」

曰く、彼は中学時代から何事においても完璧を極めてきた。勉学は勿論、二年の時から部長を務めたテニスに至っては尚のこと。故に周囲からはあらゆる眼差しを注がれてきたが、とりわけ期待のそれにはとかく必死に応えようとしてきたし、それなりに結果も残せてきたはずではある、と。
しかし高校生になった今、かつて同様のモチベーションを保てなくなったと云う。事後の反応を恐れるあまり、遂には自分自身を維持することも難しくなってしまったのだと。それでもこんな悩みを他人に打ち明けることはできず、本音を押し殺して少年は努力し続けた。決して怠ったりなどせずに。すると不安定な心は少年を完全に蝕み、コントロールできなくなった感情が爆発しその勢いもあって自宅を飛び出してしまったそうだ。誰かが笑っていると泣きたくなるし、理由のない怒りが込み上げてくる。ただ、話を聞いてほしかったのだ。できるなら、名も知らぬ誰かに。
泥酔状態だったはずがよくもまあ少年の話をしっかり聞き取れたものだと自分を褒めるのは後にして。わたしの手は無意識のうちに彼の体を引き寄せ、抱いていた。
「頑張ったね。苦しかったね」
後は何も云わず、彼の頭をそっと撫でる。強くあろうとするその姿に、わたしは胸が痛むのを覚えた。少年は、静かに泣いた。声を殺し、泣き続けた。時として重圧にも為り得る、期待という名の表裏を今だけは忘れて。どれだけの間そうしていただろう。やがてゆっくりと体を離した彼は、お姉さんやっぱ酒臭いわと少しぎこちない微笑みを携えて云うのだった。

「今度はお姉さんの番やで」

不思議な気分だった。先程までは何故見ず知らずの人間にと強い抵抗を抱いていた癖に、今は素直に打ち明けられるような気がしたのだ。見ず知らずだからこそ、というのはあるのかもしれない。他人でありながら彼がありのままを曝け出してくれたから、ということも。しかしひとつだけ躊躇するならば、こんな内容を恐らくは健全且つ純粋であろう少年に話してしまっても良いのだろうか。それを考えると、やはりこのまま胸の内に秘めておくべきではないか、と。
少年は云った。「どないな話でも引いたりしませんし、せやから云うてほしいんです。それでお姉さんが救われるんなら、俺に話してくれませんか?」まるで献身的な彼の優しさに、わたしの唇は怖ず怖ずと語り始める。

「わたしね、不倫してたんだ」

部署の違う上司の目に留まり、自分自身もまた彼に惹かれ、恋仲になるまでにはそう時間も掛からなかった。仕事でミスをし、上司からお前は何か一つを満足にもできないんだなと努力を否定されても、鬱っぽくなり泣きたくなっても、彼の「大丈夫だよ」という言葉で頑張ってこれた。
その彼がまさか既婚者だったなんて。どうして、どうして見抜けなかったんだろう。それを知ったのは今日、自分の職場でだった。ミョウジさんって方はいるかしらと奥さんが怒鳴り込んできたのだ。騒ぎを聞き付け飛んで来た彼に、わたしはアイコンタクトを介して真相を訊ねようとした。真相も何も、奥さんという存在が隠された全てを明らかにはしていたけれど。
彼は目を逸らし、わたしとの関係は本意ではなかったのだと告白したその瞬間の衝撃は図り知れない。奥さんの肩を抱き出て行く彼の背中から、わたしへの優しさや愛情を感じ取ることはなかった。惨めだった。心から愛した人にあっさり切り捨てられた自分が。保身の為に、愛を否定された自分が。その後は当然上司にどういうことなんだと手酷く追求され、同期、先輩問わず女子社員からは影で非難或いは嘲笑され、それでも解雇を免れただけありがたいとは思えなかった。知らなかったじゃ済まされないなんて、分かってる。でも、こんなのフェアじゃない。
二十年とちょっとの生涯、他人の目を気にすることはさしてなかった。周りに何を云われても、どう思われても、わたしはわたしと割り切ってきたし、囁かれる内容がわたしに非のあるものならそれを正せばいい。そうでないのなら無視すればいい。云いたい人間には云わせておけばいいのだと、生きていく上で特に重要であり厄介な人間関係の処理に困ることはなかった。けれど、今はただただ、明日が来るのが怖くて仕方がない。会社を辞める勇気も、しかしながら続ける勇気もわたしは持ち合わせてなどいなかった。
お姉さん。少年はわたしを抱き寄せた。数十分前のわたしが、そうしたように。

「ほんまに愛しとったんですね。その人のこと」

夜気に曝されているはずが温かい彼の掌は、わたしの頬を包み込む。伝わる温もりが、凍える心を暖めてくれるようで。大丈夫、大丈夫と囁く彼が、わたしにはずっとずっと、年上のように感じられた。
本当に愛していたんだ、わたしはあの人のことを。愛していた、ううん、きっと今もまだ、心のどこかにその愛は残っている。あなたが奥さんを選び、わたしへの愛を無かったことにするのならそれで構わない。だってわたしには、どんなに望んでもあなたと奥さんの仲をめちゃくちゃになどできやしないもの。それにそんなことをしてあなたを手に入れたところで、得られるのは所詮虚しさだけでしょう?だけど、わたしがあなたを愛していた記憶だけはリセットしないでほしいの。振り返らなくてもいいから、もう二度と微笑んでくれなくてもいいから。わたしは、ミョウジナマエはあなたを心から愛していました。それだけは、どうか忘れないでください。わたしは泣いた。涙なんて流れないと思っていたのに、みっともないくらい声を上げて泣いた。名も知らぬ少年の、染み渡る程優しい腕の中で。

真夜中のオデッセイ//誰花

20110411

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