その日は珍しく仕事も練習もなくて、このところの疲労困憊具合も相当なものだったから、きっと正午過ぎまで目が覚めることはないだろうと想定していた。のに、十時をちょっと廻った頃にはすっかり冴えてしまったというのは実に予想外だ。普段よりおよそ四時間程度遅い起床で済んだのである。
二度寝しようにも眠れない。むくりと起き上がってみたところ、昨晩まで感じていた怠さは綺麗さっぱりとはいかないもののさして残っていなかったので、まあ無理に寝る必要もないかと素足のまま洗面所へ向かった。ほんの数時間長く睡眠を取ったぐらいで日頃の疲れがこうも解消されるだなんて本当に不思議だ。二十ウン年生きてきたけれど、いまだにそう思う。鏡越しに自分の顔を見てみると、相変わらず肌荒れが酷かった。やっぱりあの化粧水合わないのかな。奮発したのに…。肌のトラブルで悩むことなんてなかった少女時代が懐かしい。

洗顔と歯磨きを済ませ、少々遅めの朝食を拵えることにした。と云ってもスクランブルエッグとウインナー、それからトーストにコーヒーというなんとも簡単且つ質素なものだけど。ニュースをぼんやりと眺めながら、焼きたてのトーストに苺ジャムを塗りたくってかじりつく。

さて、今日一日何をしよう。丸一日オフの日はあれがしたいこれがしたいと願望ならいくらでもあったはずなのに、いざこうしてその欲求が叶えられるとなるといったい何から手を付ければ良いのか分からないのだ。うーん、どうしよう。口の中に放り込んだウインナーをもぐもぐと咀嚼しながら考えること数十秒。今日は天気も良いし、買い物がてら外へ出てみようか。新しくオープンした雑貨屋さんにも行ってみたいし。それかドライブもいいな。エステにも行きたいんだった。ああでも、いい加減部屋の掃除もしたいんだよな。ずっとやるやる云って放置してきたから、そろそろ綺麗にしないと埃まみれになっちゃう。買い物、ドライブ、エステ、掃除。熱いコーヒーを飲みながら、心の中でどれにしようかなとルーレットは選択を開始する。
よし、決めた!今日は掃除の日にしよう。そうと決まれば早速着替えなきゃ。洗った食器をシンクに片付けると、わたしは寝室のクローゼットからジャージを引っ張り出した。このジャージ、中学生の頃から愛用してるけどまだまだ余裕で着れそう。あ、身長伸びてないじゃんとか云わないでね。
コンポの電源を入れ、お気に入りのジャズを流しながら手始めにリビングの床の雑巾掛けに取り掛かる。何年振りだろ、こんな本気で雑巾掛けなんてするの。ソファもテーブルも動かし隈なく拭いていくと、掃除開始時には真っ白だった雑巾も立ち所に汚れてしまった。見てよこの埃!わたしはマスクの存在を思い出し、埃を吸い込まないよう注意しながら慌てて装着した。
それにしても、忙しさにかまけてこんな汚い環境で生活していたなんて恐ろしいにも程がある。いつまでもものぐさな性格でいた為に結婚できなかったらどうしよう、なんて。まあ四の五の云わずに直せって話だよね。床掃除が終われば今度は窓拭き。マンションの六階に住んでいるだけあって、ここからの眺めは頗る良いのだ。遠くに映る満開のソメイヨシノに、わたしは改めて春の到来を実感した。月日はあまりにも目まぐるしく過ぎて行くから気付かなかったけれど、いつの間にかこうしてちゃんと春を迎えていたんだね。綺麗だなぁ、桜。窓拭きをしながら視覚で春を感じていたわたしは、不意に視線を窓辺の卓上カレンダーに向けた。今日は四月十四日。あれ、今日って何かあったような……。そんな気はしても、わたしにはその“何か”の正体は掴めなかった。何だろう、大事なことを忘れてるような気がするのに。

「よし、こんなもんかな」

見違えるくらいにとまではいかないが、掃除前と比較すれば大分綺麗になったリビング。床に始まり窓、テーブル、テレビボードと片っ端から拭いていけば既に三十分という時間が経過していた。
ソファに腰掛け、ジャズの心地好い音色をバックミュージックにミルクティーでふうと一息。あとは部屋の要らない物を片付けて、トイレとお風呂を掃除して、燃えるごみを出して……と。あ、昨日やり残した仕事も今日中に片付けておかなきゃ。じゃないとあの禿げ課長にまた叱られるし。それからヴァイオリンにもちょっとは触れておきたいな。なんだかんだ、やることって次から次へと出てくるのね。休みなんて、きっといくらあっても足りないくらいだ。
ミルクティーを一気に飲み干すと、わたしは寝室へ向かった。要らない物とは云っても、リビング同様この部屋も長い間ほったらかしにしていたのだから、寧ろ要らない物の方が圧倒的に多い気もする。さて、と。まずはどこから片付けよう。クローゼットに眠ってる物から処分していこうかな。ごみ袋片手にどかりと座り込むと、中に押し込まれていた衣類という衣類を手当たり次第に出していく。
このシフォンワンピース、買ってからまだ一度も着てないんだよね。捨てちゃうのも勿体ないからしまっておこう。ああ、このバギーパンツは確かもう小さくなっちゃってはけないから捨てようと思ってたんだ。じゃあこれはごみ袋行き。このブラウスもかなり汚れちゃったし要らないな。あ、このチュニックは可愛いから残しとこ。これは要る、これは要らない、これは要る、やっぱり要らない。そうして次の衣服を掴もうと伸ばした右手は、それとは違う硬くて分厚い何かを発見した。どうして洋服の中に紛れ込んでいたのか、見付けたのは中学時代の卒業アルバム。懐かしむあまり、作業の手はぴたりと止まってしまった。

「うわー……みんな若いなぁ。金ちゃんちっちゃ!」

そういえばこの頃は謙也も金髪だったんだなぁとか、ユウくんの小春バカは相変わらずだなぁとか、想うところは色々あるけれど。アルバムの中に挟まっていた一枚の写真を手に取り、わたしは目を細めて微笑んだ。それは蔵とわたしが二人で映っている、まだ恋人になるほんの少し前の写真。
わたしたちが付き合い出したのは中学卒業からちょうど一週間後で、別れたのは高三の夏祭りの日。二年とちょっとの、決して短くはない付き合いだった。あ!思い出した。わたしはリビングから携帯を持ってくると、電話帳から蔵を探す。そうだよ、今日って蔵の誕生日じゃん。元彼だし、別れて何年も経つからって仮にも二年付き合った相手の誕生日を忘れるとか、わたしってば本当に薄情なやつ。
電話帳のさ行から彼を探し出し、メールを打とうとしたところで躊躇いはわたしに問い掛けた。蔵はもう結婚しているのだ。その彼に、安易にメールを送ったりして大丈夫だろうか。わたしのメールが原因で、喧嘩にでもなったりしたら。どうしよう。ここはやっぱり止めておくべき?一度はそう決意しかけたものの、結局メールを送ることにした。他人任せで申し訳ないとは思うけれど、万が一何かトラブルに発展してしまったとしても、蔵なら上手く鎮めてくれるだろうし。それに、どうしても「おめでとう」と伝えたかったから。

蔵とわたしが別れたのは、片方が浮気したからとか嫌いになったからとかじゃない。各々の夢の為に、別々の道を進むことを選択したからだ。蔵はプロのテニスプレイヤーに、わたしはヴァイオリニストに。決して平坦な道ではないことを知っていた。だからこそ、わたしたちは互いの足枷にはなりたくないという想いから決別したのだ。
これでほんまに良かったん?そうしつこいくらい聞いてくる謙也に、わたしも蔵も意思を曲げることは一度だってなかった。だけど、今でも思い出す日があれば考えてしまう。あの時わたしたちが選んだ別れは、果たして正しい選択肢だったのかと。その答えはきっとこの先も見付からないままで、けれど一つだけ云えるのは、あれが不器用なわたしたちなりの最善の選択だったということ。
今では立派なプロテニスプレイヤーになった蔵を見ない日はない。テレビ、雑誌と気が付けば蔵はそこにいて、あの頃よりも随分と大人びた笑顔を向けている。まあ大人なんだし当然か。それから案の定というか、モデルのオファーも一時期は物凄かったらしい。あの容姿じゃ無理もないよね。謙也の話だと、テニスにのみ集中したいからというのを理由に全て断ったそうだけど。蔵らしいっちゃらしいよ。
そんな彼が結婚したのはつい二年前のこと。去年には女の子を授かって、今は幸せの絶頂なんじゃないかと思う。一方のわたしはまだまだ夢の途中で、OLをやる旁らレッスンに明け暮れる日々を送っている。一歩ずつは前進しているはずだ、と云うより正直そうとでも思わなきゃやっていられないという気持ちもあった。だって諦めることは簡単だから。もう駄目だと思えばそれまでだし、投げ出そうと思えば容易く投げ出せる。そうやって時に挫折を感じながら、今もこうして続けていられてるのは蔵がいたからだ。いつか誓ったプロになるという夢を実現してくれた、それがわたしにとって大きな糧となっていた。逆を云えば、もし蔵が夢を諦めていたら、わたしも諦めていたかもしれない。恋愛感情を抜きにしても、わたしにとって白石蔵ノ介という人間はそれだけの影響力を持った存在だった。

文字を打つ手が心做しか震える。誕生日おめでとう。たった八文字を打ち込むのにこんなに時間が掛かるなんて。打っては消して、打っては消しての繰り返しで一向に進まない。何を緊張する必要があるというのだろう。友人にメールを送る、ただそれだけのことなのに。きゅっと目を閉じ、送信ボタンの上を往来していた親指はやがてゆっくりとボタンを押した。正常に送信されたことを報せる画面の表示に、わたしはホッと胸を撫で下ろす。エラーになって返ってくるのではと、そんな気もしていたのだ。
携帯を手放し、再びリビングに戻ったわたしは立て掛けておいたケースの中からヴァイオリンを取り出した。顎当てに顎を乗せ、そっと弓を引く。奏でるのはバッハのG線上のアリア、蔵が好きだと云ってくれた曲だ。今だからこそある程度形になっているけれど、あの時の音色なんてとても聞けたもんじゃない。それでも蔵は、わたしの弾くG線上のアリアが好きだと褒めてくれて。その言葉があったから、わたしは今もこうして弾き続けている。いつもそうだ。付き合う前も、付き合っている時も、別れた後も。いつだってわたしを支えてくれたのは蔵の言葉だった。時に大きな原動力となってわたしを突き動かす、それはまるで呪文のようだった。ナマエなら出来るとあの時背中を押してくれたから、だからわたしは今もこうやって頑張れているんだよ。

蔵、ねえ蔵。
大好きだと云ってくれたこの曲をあなたの前で奏でることも、あなたが直接耳にすることもきっと二度とないでしょう。だけど、どうか時々は思い出してほしい。今は二番目でも三番目でも、あの頃のわたしは誰よりもあなたを愛していたことを。

追憶の箱庭で逢えますよう//獣

ハッピーバースデー白石!
20110414


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