残夜は誰も殺さない

わたしが今いる場所に侑くんが現れたのは、電話から五、六分が経ってから。侑くんの家がどこにあるかは知らないけど、とてつもなく急いで来てくれたってことは、大きく肩で息をするその様子から窺えた。雑貨屋の軒先に佇んでいたわたしに、侑くんは「アホ!」と人目も憚らずに叱りつけ、わたしを困惑させる。

「こんな時間になに一人でほっつき歩いてんねん!しかも制服やし、変なおっさんに襲われたらどないするん!?」
「…え?あ、ごめん……」
「ごめんやないやろ!何かあってからやと遅いんやで!?」

ぐっと力強く掴まれた肩に痛みが走る。道行く人たちはみな、見世物小屋の商品でも見るかのような視線をわたしたち二人に注ぎ、去って行く。さすがに人通りの多い道だと目立つことを考慮してか、侑くんはわたしの右手を強く握り、人気の少ない路地に移動してくれた。その手に込められた怒りがどれだけのものか、言葉になんかしなくたってちゃんと伝わってるから。

「すみれちゃん」
「…ごめんなさい」
「もう謝らんでもええから。俺の話聞き」

心もとない街灯の下に、侑くんのどうともとれない表情がぼんやりと浮かび上がる。まだ怒ってるみたいな、だけど少し悲しそうな。目を合わせられないわたしは、侑くんのおへそ辺りに視線を落とした。

「すみれちゃんは俺が本気やないって思っとるかもしれんけど、俺は本気やで。中途半端な気持ちなら、こんなに心配して怒ったりせえへんよ」

「なんでこんな時間に出歩こうとしたん?」真意を聞き出そうと、侑くんは容赦なく追及してくる。「なんで」が多い知りたがりな侑くんの瞳は、やっぱり獣みたいだと思った。やさしいフリをして、わたしの心を丸裸にしようとするんだから。ウソをついたって、きっとごまかせない。本音を明かすまで、彼は逃がしてくれないだろう。

「ちょっと寂しかってん」

慣れたつもりでも、こうして耐えられないときが定期的に訪れるのだ。あの家に独りでいるのが辛くて、どうしても現実から逃げたくなる瞬間が。ちょっと、ほんのちょっとだけどね。明るい口調で笑って返すけど、侑くんは険しい表情を向けるばかりでちっとも笑ってはくれない。重たいって思われたくなかったから、平気な顔して答えたのに。笑ってよ、侑くん。

「両親は何も言わへんの?」
「うち、父親いてへんねん。小さい頃離婚して、それからお母さんは毎日夜遅くまで仕事仕事」

ここから先は思い出したくもないことばかりで、口にするのも本当は嫌だった。自分の過去を振り返れば、先になって蘇ってくるのはいつもいつも悲しい記憶ばかりで。だからわたしは捨てるんだ。子供の頃の写真も、昔買ってもらった誕生日プレゼントも、酒に溺れて母親を殴りつける父親の後ろ姿も、ただ息を潜めて寝たフリをするしかできない、幼い日の自分の涙も。全部、なかったことにするために。

「一応姉ちゃんいてるんやけど、ほとんど帰ってこぉへんの。たぶんわたしと同じで、あの家に戻っても辛い記憶ばっかやから嫌なんやろな」

わたしだって、できるなら戻りたくない。でもわたしは、何をどうあがいても未成年だし、学生だし、結局何もできやしない。何にもなれないのだ。それに、たとえどんなに周りのモノを切り捨てても、母親まで捨て去ることはできないから。捨てられたら楽なのかなって、考えたことはあるけど。母親まで捨てたら、きっとわたしはわたしでなくなるだろう。

「俺が言えた立場やないのわかっとるけど、辛いときは辛いって素直に言うてええんやで」

侑くんのスニーカーが、じゃり、と音を立てて地面をこする。顔を上げたわたしは、肺に空気を送り込んで、吐息を漏らすように「ごめんな」と呟いた。その昔、一度だけ過去を告白したことがある。そしてその一度でわたしは、もう二度と打ち明けないと心に誓ったんだ。今思うとあれは、相手のことが本気で好きで、信用してたからそうしたのかもしれない。記憶と一緒に置いてきちゃったそんな気持ち、もう知らないけど。

「でも言うたってなんも変わらんし、基本的には慣れとるから心配いらんで」
「アホ。すみれちゃんの大アホ。そんなことに慣れてどないすんねん、このアホ美ちゃん」

暗がりの中で動いた侑くんの右手が、わたしの額にデコピンを食らわす。痛いし、そんな何回もアホアホ言わないでよ。そうしてそのまま肩を引き寄せられて、わたしの体は侑くんの腕の中にがっちりとホールドされてしまった。さわさわと触れる髪の毛がくすぐったくて、ふふ、と笑いがひとりでに溢れ出る。そうすれば、なにわろてんねん、ととんがった声が降ってきた。どんだけ心配したと思ってるんだって、言いたそうな硬い声。でも見上げた侑くんのさっきまで険しかった眉が、少し解けたのがわかった。

「ちゅーか、大声で怒鳴ってごめん。怖かったやろ」
「ううん。びっくりはしたけど……でも、なんか、うれしかった」
「なんで?すみれちゃん、実はドMなん?罵られて喜ぶタイプ?」
「そんなわけないやろ。もー空気読んでや侑くん!」

腕の中に収容されたままの体で怒りを表現すれば、侑くんは体を揺らして笑った。それからまた、ごめんごめんって、大して悪びれた風でもなく謝ってくる。侑くんの「ごめん」は信用ならない。でも今のわたしは、心のどっかで侑くんのことを信じたいって、思ってるんだろう。きっと。

「そうやなくて、わたしのこと本気で怒ってくれたの、侑くんが初めてやったから」

怒られれば誰だって嫌な気持ちにはなる。でもそれは、自分を叱ってくれる人がいて初めて成り立つこと。わたしには、わたしを本気で叱ってくれる人がいなかった。だから、うれしいんだ。

「ほな、もう二度とせえへんって約束してな」
「うん。あれやろ、約束破ったら六甲山で身投げするんやろ?」
「六甲山は遠いからなぁ。やっぱポートタワーにしとくわ」

不思議なくらいよく響く、侑くんの声。体を密着させたまま、目くばせをして笑い合う。それからややしてするりと腕がほどけ、自分の体に自由が戻ってきた。駆け足で濃くなっていく夜の色が、全身に重たく覆い被さってきて。そろそろ、帰らなきゃいけないよね。わかってる、だけどまだ、一人にはなりたくないなぁ。

「すみれちゃん、ちょお来てほしい場所あんねんけど」

相変わらず想察が得意な侑くんは、言うが早いかわたしの手を引いて、夜の帳の中をゆっくり歩き出したのだった。
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