はじめて捨てた心臓が還る場所

「ごめん侑くん、ちょお先行っててもろてもええ?」
「え、どないしたん?トイレ?」
「ううん。高木にまた用事頼まれてもうてん」

お昼前の授業が終わって、今日も嬉々とした表情で席を立つ侑くんにそう告げれば、侑くんは一瞬キョトンとした表情でわたしの瞳を覗き込んでくる。「ふーん」といやに低い声を上げる彼には絶対見透かされてそうな気もしたけど、ここで目を反らしたらウソだと言ってるようなもの。怯まずに見つめ返し続けたら、侑くんは「わかった」と素直に引き下がってくれた。風呂敷に包まれたお弁当箱と炭酸飲料を手に教室を出て行く侑くんを見送り、姿が完全に見えなくなったところでわたしもある場所へ向かった。


「…梶先輩、ですか?」

向かった先の中庭で約束通り待っていたのは、わたしをここへ呼び出した張本人、テニス部主将の梶先輩……で間違いないだろう。だってわたし、この人の顔知らないから。顔も知らない、もっと言えば名前も知らないこの人にここへ来るようお願いされたのは今朝の話。侑くんが朝練を終えて教室に姿を現す数分前、同じクラスの仙道くんにこの件を突然伝えられて、わたしは即お断りをしたのだ。付き合ってる人がいるから中庭には行けないよって。でも仙道くんは「部活のキャプテンやし俺から断るとかできひんねん」とどこまでも頑なだったから、渋々ここに来たというわけ。これが侑くんにバレると快晴もたちまち曇天になりかねないし、さっさとお断りして戻らなきゃ後が怖い。

「用件なんですか?」
「俺と付き合うてほしいねん。俺、すみれちゃんのことめっちゃ好きなんて」
「ごめんなさい。わたし彼氏おるんで」
「知っとるで。バレー部の宮侑やろ?」

わたしの発言に梶先輩は表情をピクリとも変えない。相手があの侑くんだということにも、動じている様子はまったく見られなかった。むしろそれがどうしたという感じに、薄く笑っている。

「あいつもどうせ遊びで付き合うてるだけやで。あんなやつのどこがええの?」

あいつ"も"。先輩はそう言った。あいつもということは、わたしも遊びで付き合ってると先輩は思い込んでるらしい。別に周りにどう思われようと構わないけど、その言い方はなんか鼻持ちならない。この人は、侑くんの何を知ってるんだろう。わたしのことはともかく。

「別に遊ばれとってもかまへんです。わたしは彼が彼やから好きなんで」
「けど、あんなやつより俺の方がすみれちゃんのこと幸せにさす自信あるで」
「先輩とおってもわたしは幸せになんかなりません」

あの日想いを告げて、少しずつだけど、これでいいんだって思えるようになってきたわたしたちの恋。幸せにしようなんて意識しなくたって、今のわたしは侑くんが傍にいてくれたらそれで幸せだから。無理なんかしなくていい。程々でいい。でもそれは、侑くんでなければ意味がないのだ。こんな人といても、幸せなんてきっと感じない。
わたしの反論が余程癪に触ったのか、先輩は青筋を立ててわたしの二の腕を強く掴んできた。遠慮のカケラもないその掴み方に身を捩って抵抗するものの、やっぱり男の力にはそうそう勝てない。

「なんやねん自分、ちょっとモテるからって調子のんなや」
「……引き際がわからん男ほど見苦しいものはないですよ」

いま、おんなじことを言おうと息を吸い込んで、でもわたしよりも少し早く、この呆れた気持ちを代弁するような声が飛んできた。振り返れば、物陰から姿を現したのは侑くんで。いいタイミング、だけど、あれは絶対怒ってる。先輩にも、わたしにも。つかつかと歩み寄ってきた侑くんは先輩の右手を引き剥がし、わたしをその背中で隠してくれた。その後ろ姿からも、怒気が立ち昇っている様がありありと感じられる。

「言うときますけど俺、ちゃんと本気なんで。ほなどーぞ、お引き取りください」

ぴしゃりと言い放つ侑くん。背後にいるわたしには表情こそ分からないけど、その有無を言わさぬ物言いには先輩も口をつぐむしかなかったのか、舌打ちを残して足早に去っていった。足音が聞こえなくなった辺りで「侑くん」と彼の名を呼べば、振り向いた彼の、一見穏やかに見えるその眼差しに、思わず肩がひくりとした。

「ごめん、侑くん」
「それは何に対してのごめん?」
「……隠しとったこと。朝、侑くん教室に来る前に仙道くんに言われてん。そのとき断って言うたんやけど、俺からは断れへんからって」
「ほー。そんならなんで素直に言うてくれんかったの?」
「それは……気分悪なるやろなと思って、」

でも、冷静に考えれば隠される方がもっと気分は悪くなるだろう。なのにわたしは、判断を誤り嘘をついてしまった。侑くんが次に発する言葉が分かっているから、わたしの、空気に一瞬で溶けてしまうようなか細い言い訳のほとんどは、きっと侑くんの耳には届かなかったに違いない。

「……ごめんなさい」
「今度からはなんでもちゃんと教えてや。あと、俺が怒ってるんはそれだけとちゃうで」

侑くんは口を閉ざし、わたしの腕に触れてくる。さっき、先輩に掴まれた右腕に。また強く掴まれるんじゃないかって反射的に体をビクつかせてしまうけど、侑くんは「せぇへんよ」って一言で、わたしの中から恐怖心を取り除いてくれた。

「あんなやつにすみれちゃんの体触られたんも、正直おもろないねん」
「ごめん。振りほどこうとしたんやけどできひんくて」
「ちゃう、俺の嫉妬や。俺が勝手にヤキモチやいて、勝手に怒っとるだけ」

包み込むようにしてわたしを抱き締める侑くん。とっさに離れようとしたけど、見越した彼がそれを許さなかった。…だって、ここどこだと思ってるの。学校だよ。マンモス校だよ。そこの窓から誰かに目撃される可能性だって十分にある。てゆうかもう見られてる気しかしない。もっとも、侑くんは他人の視線を気にするタイプじゃないし、むしろ見られれば燃える方だろうし、スイッチが入ればもう止められないことは分かってるけど。

「はっきり言うてくれたんはうれしかったで。先輩とおっても幸せになんかなれません〜て。けど、隠すんはやっぱあかんよなぁ」

嫌な予感。少しニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる侑くんがいま何を考えているのか、大方見当はつく。どうせチューしてとか、好きって言うてとか、あれはわたしを辱しめるための手段を思案してる時の顔だ。案の定侑くんの口から紡がれたのは「チューして」という言葉で、そしてわたしは常套句のように「誰かに見られるかもしれへんやん」と言い返す。その言葉が無力なのを知ってて。

「逆に見せつけるんやって。ほんなら誰もすみれちゃんに近づいてこぉへんやろ?」

ほら、すみれちゃん。侑くんは腰を屈めて顔を近づけると、はよしぃやとでも言うかのように目を閉じた。これ、絶対あれでしょ。一瞬だけ唇重ねて済ませようとしても、離してくれないんでしょ。知ってる。侑くんの考えることなんて、お見通しだよ。でもいまのわたしには、いずれにしろキスをする以外の道はない。おそるおそる顔を近づけ、唇まであと数センチのところで瞳を閉じかけたとき、侑くんの目が突然ぱちりと開いたことで、わたしの脳は動作をストップしてしまった。

「ええなぁ。すみれちゃんはやっぱキス顔もかいらしいわぁ」
「……っ!ひどいわ侑くん!」

いつもそうだ。わたしがどんなに先読みしても、一枚上手な彼に結局転がされるのはわたしの方。今まで付き合ってきたのは、いつもわたしの意見を一番に尊重してくれる、よく言えば従順な人たちだった。でも侑くんは違う。ずるくて、ひどくて、意地悪な人。なのにそんなところも本当は嫌いじゃなくて、むしろ居心地がいいと思ってる自分がいる。だからこそ、余計に悔しいのだ。

「それよかすみれちゃん、はよせんと昼飯食う時間もなくなってまうわ」
「あ、忘れとった!はよいこ!」

このままだとご飯も食べられないまま五限目を迎えることになってしまう。慌てて校内に戻り、この際教室でよくない?って聞いてもやっぱり譲歩しない彼と屋上へ急げば、「宮くん!」と唐突に女の子が仁王立ちして足止めをしてきた。また修羅場だったらどうしよう。めんどうだなぁ。そんなことを考えながら相手の子をじいっと見つめて気づく。あ、この子、練習試合の時に治くんと話してた子だ。そうしてその"治くんと話してた子"は何を思ったのか、侑くんのお腹に突然グーパンを一発かましてきた。うわ、結構キョーレツ…。侑くんは「おぐっ」と情けない悲鳴を上げる。

「ほんま信じられへんわ!言うたわたしがあかんけど、けど、治くんに言わんでええやん!宮くんほんま人でなしや!!」

もう一発おまけにお見舞いして、彼女は走り去って行く。修羅場にならなくてよかったと胸を撫で下ろしつつも、嵐のように現れて嵐を巻き起こしていったあの子が侑くんに何の恨みがあるのか、気になってしょうがなかった。

「侑くん、今の子は治くんの彼女?あ、ちゅーか大丈夫?」
「あの子は治のクラスメイトのねぼすけちゃんやで。治がモーニングコールで起こしてあげとるらしいねんけど」
「ふーん。で、その子が怒っとるのはなんでなん?」
「あとで話すわ。ちゅーかすみれちゃん、普通は先に大丈夫?って心配するもんやないの?」
「後でも先でも一緒やん」
「一緒ちゃうで!もーほんま冷たいわぁ」
「……でも、そんなわたしのこと好きなんやろ?」

階段を上りきり、侑くんがドアノブに手をかけたとき。彼はそれはもう心底びっくりしたように、首をばっと動かしわたしを見下ろしてきた。そんなこと言うの、ホントはめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど、だってほら、たまには出し抜いてみたいじゃない。でも彼が驚いたのは最初だけで、すぐにまたニヤリと笑って口を開く。

「おん。好き。めっちゃ好き」

ドアを開ければ、済みきった空の青さが鮮やかに飛び込んでくる。いたずらに笑う侑くんに結局またわたしばっかりドキドキさせられちゃって、ごまかすようにつま先立ちで精一杯のキスをした。悔しいなぁ。でもそんなところも好きになっちゃったんだから、やっぱり侑くんには到底敵わないのかもしれない。


end
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -