自室で分厚いテキストを開いていた白石は、ふと傍らのスマホに一瞥をくれる。返信はない。この様子だとおそらく、数分前と変わらず既読すら付いていない。もう自分のことなんて、どうでもいいのだろうか。いや、そもそも自分はなぜ、そういう心境にいるのだろうか。自分のことながらに、不思議でしょうがない。
あの日を境に、なまえとのやり取りは不自然なくらい減っていった。こちらからラインを送ることはせず、来てもするのは返事のみ。食事を共にすることもなく。突然のそっけない態度に、さすがのなまえも訝しんでいるかもしれない。あのとき感じたモヤモヤは彼の中から出て行く様子もなくむしろ広がる一方で、どこか体の調子が悪いのかとさえ疑ってしまうほどに、白石は自分が自分でないような感覚に陥っていた。胸の中に巣食うモヤモヤ、ざわつき。一体なんだというのか。相手はたかが、計画性のない年上のダメ女だというだけ。ただそれだけのはずなのに。白石はシャーペンを置き、スマホに手を伸ばした。ラインを開く。案の定、既読にもなっていない。もはや日課とも云えるなまえとのやり取りを突然断絶するというのはかえって気味が悪い気もしたため、一昨日、しょうがなくこちらからラインを送ったのだが。この通りだ。心配になって部屋のチャイムを鳴らしたが、寝ているのか、不在なのか、なんなのか。それが、昨晩の出来事。正直腹が立つくらい気になって、学業に集中できない。本当に、腹が立つ。

ピンポーン、チャイムの音が部屋のドア越しに白石を呼び、いそいそと席を立つ。時刻は19時を回ったところ。なまえでないことは、脳みそを働かせなくともわかりきっていた。なぜなら今日は、来客の予定があったからだ。その後もいやがらせよろしく連打で響くチャイムにはいはい、と苦笑を浮かべつつ、玄関のドアを開ける。その先に立っていた金髪の男は、近所迷惑という白石の立場も考えず、バカでかい声で彼の名を呼んだ。

「白石ー!久しぶりやなー!」
「お久しぶりっすね、白石部長」

旧友である忍足謙也と、もうひとり、その後ろで表情ひとつ変えず気だるそうに突っ立っているのは財前光だった。それぞれ引っさげている買い物袋からは、沢山の缶チューハイやつまみの類が顔を覗かせている。最後に会ってから、約一年ぶりの再会となるだろうか。一年会わないだけでも人は随分変貌するものだが、謙也の金髪といい、財前の五輪ピアスといい、変わらないことがこんなにも嬉しいだなんて。その歓心が表情に出ていたのか、なにニヤニヤしてはるんですキモいっすわ、と辛辣な一言を繰り出す財前。彼のその、歯に絹着せぬ物云いにも立腹するどころか懐旧の念を感じながら、まあ上がってや、白石はそう声をかけて二人を室内へ上げるのだった。

△▼△

たとえ男オンリーの飲み会だろうと、室内がとっ散らかることを白石は許さない。空き缶やゴミはこまめに片付けながら、アルコール効果で徐々にヒートアップしていく謙也のマシンガントークに耳を傾けていた。本日のメインはというと、もっぱら彼の別れ話だ。なんでも半年交際していた彼女が同時進行形で二股をかけていたそうで、開始早々止まらない愚痴を肴に、お酒の進むこと進むこと。謙也の顔はほんのりを通り越してすでに赤々としている。お酒にプラスして、活火山のごとく噴火した怒気がそうさせているに違いない。

「せやから俺は云うてやったんや!お前、お前、そんなんやったら一生幸せになんかなれへんからなって!!」
「その前に謙也さんツバ飛ばさんでくれます」
「どないな理由があっても浮気はあかんなぁ〜それはただの言い訳にしかならへんし」
「せやろ!?白石もそう思うやろ!?」
「だから謙也さんツバ」
「あ、ああ堪忍な。ついエキサイトしてもうた」

自分を落ち着かせるかのように、さきいかを二、三本口に突っ込む謙也。その隣で仕方ねえ奴だなと云わんばかりに尖った視線を送りながら、財前はチューハイを流し込む。次いで彼は袋の中を物色し始め、眉をひそめた。

「謙也さん、もしかしてスミノフ忘れました?」
「えっ?……あー!すまん忘れた!」
「ほな買うてきてくださいねいますぐ」
「ほんまか。やっぱ買わなあかん?」
「さっき俺あんだけ飲みたい云うたやないですか。それでよう忘れますね。不思議でしょうがないっすわ」

ま、酔い覚ましにもなるしちょうどええんちゃいます、財前はそう云って謙也に財布を手渡した。これでスミノフ以外にも好きなもん買うてきてください、彼のその太っ腹な発言にお前っちゅーやつはほんまええ奴やなぁ、なんて謙也が思ったのもつかの間、渡されたのが自分の財布と分かると勢いよくカーペットの敷かれたフローリングに叩きつけた。ってこれ俺のやないか!!ツッコミの早さも健在である。

「スピードスターの謙也なら余裕やろ」
「いや待って、いま走ったら絶対出る。間違いなく出るわ」
「あかんやつっすね」
「せやろ。まあ急いで買うてくるから待ち」

叩きつけた財布をジーンズの尻ポケットに押し込み、云うが早いかリビングを離れる謙也。ここから最寄りのコンビニまで、普通の速度で歩いたとして往復かかっても十分くらいだろう。かつてスピードスターの異名を轟かせた彼ならば、もう少し早く戻ってこれるかもしれないが。

「相変わらず騒がしい人っすね、ほんま」
「せやなぁ。まあそこが謙也のええとこでもあるやん?そういう財前は最近どうなん」
「別にどうもこうもないっすよ。講義もだるいっすけど単位落とさん程度には行ってますし」
「好きな子とかおらんの?」
「今はいないっすね。まあ、今は恋愛って気分でもないんで」

こうしてお互いに最近はどうしたこうしたと近況報告をして、次の再会までまた同じだけ時間が過ぎて、そうしてまた同じように近況報告をする。この繰り返しで人はみな、ひとつ、またひとつ歳をとっていくのだろうか。いややわーあっちゅー間におっさんになってまうやん、白石は密かに肩を落とした。ぐいっとハイボールをあおり、そうなんや、と言葉を紡ぐ。部長はどうなんです?ややして吐き出された財前の問いかけに白石は首を傾げた。どう?どうと云うと、どうなんだろう。

「彼女とかできてへんのですか?気になるやつとか」

気になるやつ。そのときほわんほわんと頭の中に浮かんだのはなまえの顔だった。いやいやいや。なまえはただのお隣さん。それ以上でも以下でもない。はずなのに。なぜか彼女の存在が脳裏にこびりついて離れず、白石は思わずカウンターキッチンに置かれたスマホに視線を飛ばした。まあ、先ほどと変わらず、だろう。その一瞬の視線で察したらしい財前は、それはそれは愉しそうに口の端を吊り上げる。

「同い年の人っすか?」
「は?いや別に気になる人とかいてへんて」
「その顔は気になるやつがいない人の顔とちゃいますよ。それにさっき、スマホちらっと見たでしょ」

財前の中ではもう、自分は恋をしていると確信しているのだろう。昔から侮れない後輩ではあったが、勘の鋭さは相変わらずのようだ。さてここからどう返したもんか、困ったように頭をかいて苦笑いを浮かべると、玄関が途端に騒がしさに包まれる。ドアを開ける音、スニーカーを脱ぐ音、廊下を歩く音、全てにおいて抜群に喧しい。予想していたよりもはるかに早い、スピードスターのご帰還のようだ。リビングと廊下を隔てるドアを開けるや否や、謙也は驚いたような、それでいてニヤついたような、数多の感情を含んだなんとも形容しがたい面持ちで「なんやねんお前!」と云った。それが白石に対してなのか、財前に対してなのか。二人は顔を見合わせる。

「お隣さん、いま帰ってきたみたいでなんか挨拶されてん。めっちゃイイ女っちゅー感じの人!お前ずるいわ!なんやねんほんま!」

なんやねんとはなんやねん。むしろなんでやねん。理不尽もええとこやろ。羨望の声を訴える酔っ払い謙也に、まだ対して酔っ払ってもいない白石はいささか呆れ気味。ずるいも何も、別にこちらから頼んでお隣さんになってもらったわけではないのに。まあ酔っ払いの戯言を気にする必要はないだろうが。というか、今頃帰宅?白石の意識はもはや、目の前の謙也からなまえの方へ向いていた。仕事、忙しいのだろうか。返信がないのも、そのせいだろうか。せやけど、謙也は続ける。せやけどなんや、えらいげっそりしとったで。ようわからんけど、ちゃんと飯食うてんねやろか。心配に堪えないような顔付きでレジ袋を財前に手渡す謙也に、せやなあ、白石はそう返すにとどまった。
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