「……なまえ?おーい、なまえちゃん!」

遠くをさまよっていた意識が、パッとしゃぼん玉が弾けるように、戻ってくる。「ほれほれ、もうお昼やで」向かい側から怪訝そうに顔を覗き込む静香は、頭上の時計をくいと指差してそう告げた。キーボードに手を置き、画面を見つめたままの状態で果たしてどれほどの時間が経過していたのか。周りを見回せば、みんなこぞってランチだなんだと外出するところだった。

「お昼どないするん?」

静香のデスクの上には、先ほどまで開かれていたノートパソコンの代わりに、モスグリーンの弁当箱がひとつ。と、食後のデザートらしきプリンがちんまりと並んでいた。お昼。お昼か。なまえは腕時計を見つめながら考え込んだ。お腹はそんなに空いていないから、食べなくてもいいといえばいいけれど。そうなると退社するまでもたないし、具合悪くなりそうだし。とりあえず、何かしら胃袋に突っ込んでおくことにしよう。そう決め、一番下の引き出しからカップ焼きそばを取り出した。

「今日はこれでええわ」
「常備しとくの大事やね。ほな電話番しながら二人で食べよか」
「うん。せやね」

給湯室でお湯を注ぎ、麺が柔らかくなるまでの数分の間に、わかめスープを準備する。いつもは飲んだり飲まなかったり。でも今日は、なんとなく温かいものがほしい気分だった。それからお湯を切り、ソースと青のり、からしマヨネーズをよく混ぜて席へ戻れば。いつの間にか、隣の席に移動している静香があっと声を上げた。

「青のり、気ぃ付けんと。ちゃんと歯磨きするんやで」
「わかっとるよ。青のりの恐ろしさは経験済みやから」
「んでさぁなまえちゃん、また何かあったんやろ。顔にでかでかと書いとるで」

水筒のお茶を飲みながら、目線は別の場所を向きながら。静香はさらりと問いかけた。なまえとてこのお姉さんの前で隠し事など通用しないことはもう分かっている。それに隠す気だってそもそもないくらい、自分の顔は死んでいただろう。詳細を語る前に、焼きそばを口の中へ。か、辛い!そうして慌ててわかめスープを流し込む。あ、熱い!完全に一人コントだ。

「あんな、昨日しら……お隣さんに告白されてん」
「あらま〜やっぱそないな展開なっちゃったか」
「せやけど、忘れてくださいって云われた。俺も、忘れるように努力する、って」

焼きそばのいい匂いが充満するオフィスの中。ふぅん、忘れるねぇ……。と、ミートボールを頬張りながら静香はなまえをちら、と一瞥した。そもそも、なまえ本人はまだ好きだとはっきり言ったわけじゃない。聞いている身としては、それ好きってことなんちゃうんかい、なんて思ってはいるが。けれど、だとしても。人の感情が生み出すエネルギーは、自分たちが想像している以上に計り知れないもので。二人はまだ、それを真に理解できていないのだろう。

「(…アホ太郎にアホ美ちゃん。はじめから抑制できるようなレベルなら彼氏持ちのなまえに告ったりせえへんやろ。それに、)」

"そう簡単に忘れられへんから、恋って苦しくもあるんちゃうの?"

「どうでもええけど、って云うて話すことって、ほんまはどうでもようなくて聞いてほしいから話すんて。ちゅーことはな、ほんまは忘れとうないんよ」

そないあっさり諦められるんなら、それはただ単に恋愛ごっこなだけや。本物の恋ってな、きっと苦しくて切なくて時にはわっと泣いたりもがいたり、そやけど相手と一緒におるとやっぱりなんか嬉しくて、シアワセで、心地よくて。ただキレイでいつも満たされてる恋愛なんて、誰にもできひんと思うねん。人間やから自分をよう見せたくて取り繕ってしもうたり、汚い部分やってあるかもしれんし。そやけどその中で相手を理解して受け入れることで、いつかは自然体で背伸びの必要もない二人になれるんちゃうかな。

「と、静香ちゃんは思っとりますけど」
「……ハイ」
「ちゅーかな、フィルターかけるのはもうやめにしとき。素直に、率直に、単純に考えればええねん。忘れるって云われて、なまえはどう感じたん?」

そんなの、嫌に決まってる。今までの日々の記憶を忘れられるのも、自分が忘れるのも、平気なわけがない。でも、白石は確かに忘れると云った。ならば自分も、この気持ちに蓋をした方がいいのではないか。だって彼には、選択肢がいくらでもあるのだから。

◆ ◇ ◆ ◇

「急な誘いでゴメンな、なまえちゃん」
「ええの、気にせんといて」

なまえの前に置かれたアイスカフェオレ。グラスの中、ツートーンの海に浮かぶ氷は、からりと音を立てて動いた。ゲンジは自分に背を向け、キッチンで一人作業を進める。座ってていいとは云われたが、どうにも落ち着かない。というか、落ち着いていられるわけがなかった。
悶々としたまま過ごした数日間。その日、定時で仕事を切り上げ駅へ向かっていたなまえの足を止めたのは、ゲンジからの着信だった。『俺の部屋、こおへん?』突然の誘いに、なまえは大層困惑した。困惑したし、断るつもりだった。生憎こんな時に平然と彼氏の部屋に遊びに行けるほど、図太い神経を持ち合わせてはいなかったから。それに、自分もゲンジも子供じゃない。彼氏の部屋に行くすなわち、致してしまう可能性だって大いにあるだろう。それなのに、今自分はゲンジの部屋にいる。彼のやさしい声色に、結局断りきれなかったのだ。流されたというのか、優柔不断というのか。

スタンドライト、大きな観葉植物、ダークブラウンで統一された室内の家具。複雑な心境で初めて訪れた恋人の部屋は、アジアンで、それでいてモダンな、うまくは云えないが要するにオシャレを体現したような空間だった。

「ゲンジくん部屋もほんま綺麗なんやね。見習わな」
「ちゃうちゃう、なまえちゃんが来るからマッハで片付けてん。普段はめっちゃヤバいで」
「ウソや〜ゲンジくん綺麗好きっぽいもん」
「いやほんまやって。汚部屋選手権の世界大会で優勝したくらいやから」
「あはは、なんそれ。わたしもエントリーしよかな」

ストローを通っていくカフェオレのちょうどいい甘さに、少しだけ心がリラックスしたような気がした。それにしても、キッチンに立つゲンジの実に様になること。さすが普段レストランで働いているだけはある、となまえは彼の背中に視線を送りつつ、そんなことを考えていた。彼の隣に立つ人は、きっと贅沢なくらい幸せだろう。

「(って、それわたしやんか……)」

そうだ。はたから見たらわたしは、間違いなく幸せ者なんだ。だって彼はこんなにやさしくて、自分を想ってくれて、おもしろくて、なおかつカッコイイ。だとしたら、これのどこに不満をつけられるというのか。

「自炊はようするん?」
「せやな〜するようにはしとるで。けど俺、結構な頻度でカップラーメン食うてんねん。やっぱなんちゅーか、気力がまったくあらへん時ってあるやんか」
「わかる。何もでけへんよな」
「せやろ?やからカップラーメン様様やねんな。俺お湯入れるのうまいで〜」
「マジか。わたしも負けてへんで」

そんな冗談を云いながら、目の前に運ばれて来るスパゲティとトマトとクリームチーズのサラダ。ナポリタンのケチャップの香りが、なまえの食欲を増進させる。見た目からして、彼女が作るごちゃごちゃぐちゃぐちゃしたものとは違う、やはりそういうところで経験を積んでいるのがよく分かるものだった。まるで、なんとかキッチンを見ているよう。
テーブルには他に空のグラスが二つ、それから見たことのないラベルの瓶が一本。

「これお酒?」
「せやで、イタリアのヴィ、ヴィ……忘れた、なんちゃらビール」
「イタリアのビールっちゅーことは理解できたで」
「ゴメンな、すぐ忘れてまうねん。ナポリタンに合うようなビール探して酒屋で買うてきたんやけど、味はどないやろか」

栓抜きで蓋を外し、グラスにとくとくと注がれていくビール。琥珀色の液体に、思わずビーラーなまえはウズウズし始めた。お互いに注ぎあって、乾杯と、いただきます。

「あっうまい!!あかん、飲みやすくてめっちゃうまい!」
「ほんま?それならよかったわ」

ナポリタンも小さい頃に食べたような、どこか懐かしい喫茶店の味のようで。料理もお酒も今テレビの中で流れている番組も、なにもかもが完璧だった。それなのに、どうしてだろう。なまえはどこか、物足りなさを感じていた。

「(わたし、わがままなんやろか)」

自分にはもったいないくらいの恋人がいて、美味しい料理が並べられていて。なのに心の半分は満たされていても、もう半分は空っぽのまま。二人で行ったラーメン屋もテーマパークも、あの時間は確かに愉しかった。でも今の自分は、物足りないなんて思ってる。物足りない?違う、何かが違うのだ。それはひどく単純で、シンプルな答え。

食事の時間も終わり、今度はなまえがキッチンに立つ番だった。まさか客じゃあるまいし、後片付けまで彼一人にやらせるわけにはいかないだろう。洗い物しないと死ぬ病気にかかってる、と意味不明な理由でゲンジを強制的に座らせ、割らないように慎重に皿を持つ。

「せやから、忘れてください。俺も、忘れられるよう努めますから」
「フィルターかけるのはもうやめにしとき。素直に、率直に、単純に考えればええねん」


二人の言葉が、脳内に反芻する。どれほどの時間ボーッとしてしまっていたのか、不意に自分の体がふわりと包まれるのを感じた。目線をシンクから横の方へ移すと、それがゲンジの腕であることがわかる。「……ゲンジくん?」首だけを動かして後ろを見やれば、徐々に縮まっていく顔と顔との距離。

「まっ、待って!!」

とっさの出来事だった。キスされる、そうわかった瞬間。思わず、ゲンジの体を突き飛ばしてしまった。

「(わかるよ……もうちゃんと、わかっとるから)」

ごめん、ゲンジくん。頼りない声音で、なまえは呟いた。
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