自分の気持ちを自分が大事にしなければ、誰が大切にしてくれるというのか。本当に、静香の云う通りだとなまえは仄暗い夜道を黙々と歩きながら、一昨日の夜について振り返っていた。この歳にもなって、誰が自分の心を守ってくれる?もう子供ではないのだし、誰かのせいにもできやしない。自分自身でどうにかしなければ、自分を取り巻く世界なんて何も変わるはずなんてないのだ。けれどこの気持ちを優先させれば、きっとゲンジを傷つけてしまう。いや、どっちつかずのこの現状がすでに、彼を傷つけてしまっているかもしれない。どう転んでも今の自分は相手を苦しめる、そんな存在でしかないのではないか?

「(要するに息するのもアウトっちゅーことやねんな)」

なんて、しょうもないことを考えてみたり。顔の周りをチラつく虫たちを鬱陶しげに手で払いながら、一人歩くこの時間は通常の退社時刻を悠に過ぎている。昨日今日とスーパー残業が続き、いつも以上に疲労困憊している自分の体。それというのも、きっと頭が余計なことばかりを考えてしまい、その結果作業に身が入らず非効率的な仕事をしてしまったためだろう。無駄な残業。無駄疲れだ。

苛立つほどに蒸し暑い夜。なまえの額にはうっすらと汗が滲み、早くスーツを脱ぎたい、脱ぎたいどころじゃなく化粧から髪の毛からすべてから開放されたい、その一心で帰路を目指していた。もうすぐだ。もうすぐで家に着く。パンプスで走るのはさすがに辛い上にそんな気力も残されてはいないから、精一杯の早歩き。やがてなまえの瞳がぼんやりと佇むアパートのシルエットを捉えると、最後の力を振り絞り、ゴールを目指すそのスピードを速めた。

ドン、ドン、と漬物石でも乗っかっているような、そんな重たい足取りで階段を上がっていく。お隣の部屋からは柔らかな光が見え、白石がまだ起きていることが窺えた。
「(今日も実習やったんやろなぁ。ほんま、毎日大変やわ)」

毎日、学生とはいえ毎日大変なのに。彼はいつも、こんな自分を助けてくれた。しっかりしやんと、そう叱ってくれたり。いつもは飲みすぎと呆れられるビールを出して、甘やかしてくれたり。怒っていても、笑っていても、こんなどうしようもない自分を白石は、いつも見放さないでいてくれた。たかが隣人、されど隣人。白石がなまえにとって大きな存在であることだけは、紛れもない事実で。自分を好きでいてくれる人と、自分が好きかもしれない人。愛される方がきっと幸せなことなんて、もうとっくに分かっている。けれどその選択に、悔いは残らないのだろうか。こんな形で遠くなっていく白石との距離に、自分は本当に納得しているのだろうか。ただ、自分が大人であることを理由に割り切ったふりをしているだけだとしたら?悩めど悩めど、答えは出ない。

パンプスを脱ぎ散らかし、ベッドにダイブする前にスーツを脱ぐとそのままカーペット上に放り投げた。いいんだいいんだ。次の休みにクリーニングに出すから。次いで適当な部屋着に着替え、洗面所へ向かうところで、バッグの中のスマホが静かに着信を報せた。画面に表示された名前に、心がはねる。

「こ、コンバンハ。どないしたん?」

白石からの着信。しかしなぜか、応答がない。おーい。もしもーし。白石くん?しーらいしくーん!どれだけ呼んでも、やはり返事はなかった。ただ通話口から聞こえるのは、テレビのニュースを読み上げるキャスターの声だけ。なんやろ、おかしいな。胸の中に妙なザワつきを覚え、なまえは玄関へ向かった。クロックスを履き、隣の部屋のベルを鳴らす。が、待てども待てども住人は出てこない。電話の応答がないくらいだから、出てこないのも当たり前か。そっとドアノブに触れると、ガチャリ、扉が開いた。え、開いとる。

「は、入るで〜……」

泥棒でも潜んでいたらどうしようか。武器になるものを手にしていないから、もしものときはどう戦えばいい。そんな不安とともに、白石がいるであろうリビングのドアをゆっくり開けていく。ゆっくり、ゆっくり……

「…白石くん?」

眠っているのか、白石は左手の甲で目元を覆いながら、ロータイプのソファーに横たわっていた。しかしよくよく見れば、荒く、苦しげに肩で息をしているのがわかる。明らかに、様子がおかしい。いくらなまえとはいえ、気づかないわけがなかった。

「白石くん?どないしたん!?」

横たわる白石の傍に駆け寄り、顔を覆う左手をそっと下ろす。途切れ途切れに、自分の名前を呼ばれたような気がした。そうして頬にさす異常なほどの赤みに、手を少し汗ばんだ額に当ててみれば、なまえの口からは「ほんまか」という一言が飛び出した。

「待って待って、えらい熱やんか…」

こういう時って、どないしたらええん?冷えピタ貼っとけっちゅーわけにもいかへんやろし、やっぱ救急車呼ばなあかんかな?どう考えても38度、あるいはそれ以上ある感じやし……。せやな、救急車や!ええっと、何番やったっけ…。狼狽しつつも自分のスマホを操作し出したなまえに、白石は小さく首を振った。

「救急車とかアホなことせんといてください……ちょっと横なったら動けなくなっただけなんで…」
「あ、アホって、アホは白石くんやろ!こないなるまでどんだけ頑張るねん。ほんま、白石くんはアホやで……」
「心外ですね……なまえさんに、アホ云われる筋合いありませんよ…」
「もー病人は黙っとき!」

待ってて。なまえはおもむろに立ち上がった。自分の冷凍庫にアイスノンがあったはずだ。それをタオルに包んで枕代わりにすれば、いくらか気持ちも良いだろう。バタバタと部屋を往来し、まずはこのソファーの上から彼を寝室へ移動しなければ、ちゃんとベッドに寝かせなければと、なまえは白石の上体をゆっくり起こした。その移動こそが、なによりも大変なことなのだが。

「(女の底力を見せる時がきたわ)」
「無理ですって…そない華奢な腕で男一人動かせるわけあらへんでしょ」
「平気や。よっしゃ、いくで」

ソファーから下ろし、ドアまで向かうのに、一歩、一歩、クタクタの体で踏ん張るなまえ。が、やはり女である彼女には大の男一人を抱えて寝室まで歩くほどの力はなく、意識朦朧としている中、ほぼ白石自身の気力体力でベッドまでたどり着くことができた。しかし本人はそれをおくびにも出さず、なまえに謝辞を述べれば、なまえは少しだけ安堵したように表情をゆるめる。

「ご飯は?お粥作ろか?あとポカリな。コンビニで買ってくるから待っとって」

サイドテーブルのおしゃれなランプだけを点けると、云うが早いか、返事も聞かず寝室を後にするなまえ。アイスノンと一緒に持ってきておいた財布を手に、コンビニまで全速力。仕事の疲れはどこへ行ったのやら、そんなことを思いながら。何度も何度も脱げそうになるクロックスでコンビニまでひた走ると、ポカリやアイスを忙しない手つきでカゴに入れ、会計が終わるや否や再び全速力でアパートへ舞い戻った。階段を駆け上がれば、息切れと、激しく脈打つ心臓に、忘れかけた疲労がずっしりとのしかかってくる。なんだか自分が本当にオバサンのようで嫌になる、なんて。

「待っててな、今お粥作るさかい」

白石の部屋に戻ってきたなまえは、寝室の彼にそう声をかけると、ポカリとグラスを置いてキッチンへ向かう。

「たまご粥、食べれるやろか」

普通のお粥がええかなあ。たまご粥も美味しいねんけどなあ。うーん、どないしよ。

「今回は普通のお粥にしとこか」

ちょうどよく炊飯器の中にご飯があった。お鍋にご飯と水を入れ、中火で煮込んでいく。湯気で化粧が落ちそうだ。木べらでやさしく混ぜながら、途中で塩、ほんだしをひとつまみ入れ、コトコト、コトコト。白石くん、大丈夫やろか。思えば、白石のこんな弱った姿を目の当たりにするのは、初めてのような気がする。

「白石くんでも風邪、引くんやな……」

まあ、当たり前やけど。人間やし。
食器棚を開け、白石らしくキチンと、等間隔で収納されたお皿の中から小さめの丼を取り出す。そろそろええかな。鍋の中を確かめればいい塩梅に仕上がっており、やさしい香りが広がっていく。少しだけ丼に持って、梅干しを一つ、お粥の上に。よし、できた。

「白石くん、寝とる?何か他に欲しいものある?」

ソファーの上同様、苦しそうに肩で息をしている白石。小さく首を横に振り、大きく深く、息を吐き出した。サイドテーブルにトレーごと乗せて、なまえは何もしてやれない無力さに肩を落とす。子供だったら、親や周りの人がいつも看病してくれるだろうに。こういう時、頼れる相手が近くにいないって辛い。

「なまえ、さん」
「ん、どした?なにか持ってくる?」
「……すきです」
「え?」

白石は薄く目を開き、なまえを見つめる。聞き間違いやろか、なまえの頭上にははてなマークがひとつ、ふたつ。そんな彼女の様子に、白石は小さく笑ってみせた。

「聞き間違いとちゃいますよ。俺、なまえさんが好きです」
「えええ……大丈夫なん白石くん」
「大丈夫やないですよ。ほんま、自分でもどうかしとるって思います」
「なんや、軽くディスられてへん?」
「横なったら動けなくなってしもて……ちょうどそのとき、なまえさんが帰ってくる音が遠くに聞こえて、それで……なまえさんに来てほしかったさかい、電話繋げたんです」

なまえさんの、顔が見たかったから。
なまえさんに、会いたかったから。

なまえはまだ、信じられないような表情で、白石の熱で潤んだ瞳を見つめ返すことしかできなかった。二人でコンビニへ行ったあの夜、白石が密に想っていたのがこのことだったのなら、なんとなく合点はいくけれど。そんなことがあるはずない、こんなどうしようもない女を彼が好きになるわけがない。そう思っていたなまえには、この事実を素直に呑み込むことは難しかった。

「けど俺、困らせたいわけとちゃうんです」
「うん……分かっとるよ」
「せやから、忘れてください。俺も、忘れられるよう努めますから」
「……白石くん、」

ほんま、変なこと云うてごめんなさい。なまえさん、彼氏いてるのに。白石は、そっと目を閉じる。忘れてください、そう告げた声が震えていたのも、いま、疑いようもなく胸が張り裂けそうなくらい痛くて苦しいのも、この瞬間の景色も、記憶も。

わたしの頭の中から、消えてなくなるように。忘れる。すべてを、空っぽに。

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