お試しとはいえゲンジと付き合いだしてからというもの、なまえの部屋と会社を往復するだけの日々は次第に変化していった。お互い忙しくはしていても合間を縫って会うようにしたり(誘ってくるのは主にゲンジの方だが)、相手を不安にさせないよう連絡はマメにすることを心がけ。
ゲンジはとにかくやさしかった。一見するとオラオラ系にも見て取れる風貌だが、いつも穏やかで、笑いの引き出しもまた常に豊富で、一緒にいる時間は笑顔が絶えない。そして何より、身構えず自然体でいられることがなまえには大きかった。なにゆえこんなにいい人がフリーなんだろうか。ひょっとして、実は性格に難ありとか。なんて、考え出したらキリがないのだけど。

「あ、なまえ〜わたしにもコーヒーお願い」
「はーい。ブラック?」
「うん。おおきに」
「あ、みょうじさんいま東京本社から電話きて、商品コード抜けてるから送ってって〜」
「了解でーす」
「あと流通の渡邉さんから連絡あったさかい折り返し電話頼むで」
「げ、渡邉さん……いややわーまたいじめられる」

給湯室に移動し、コーヒーメーカーにフィルターをセットする。次いで粉と水を分量通りに入れ、コーヒーを落とすそのわずかな時間。そういうときにふと、思い出すのは白石の顔だった。忙しくして、忙しくして、出てこないようにしていても。そうすればするほど、頭の中に現れてしまう。考えれば考えるほど、苦しくなる。自分の取った行動は、正しかったのだろうか。自分はこれで、本当にいいのだろうか。知らず知らずのうちに、だれかを傷つけてはいないだろうか。疑問は浮かび続けるのに、自分を納得させられるだけの答えなんかひとつとして出てきやしない。

デカンタに落とされたコーヒーの前に、マグカップを二つ並べる。ネイビーのが自分ので、ドット柄のが静香のもの。コーヒー好きのチーフにも淹れてあげよう。新たにマグカップを並べ、コーヒーを注いでいく。こうして一息いれるのは好きだけど、いまはそんな時間、本当はない方がいい。考えすぎると、頭が痛くなってしまうから。

「はい、チーフのも淹れました」
「おーーさすがみょうじ!おおきに」
「ほな来月の給料アップで」
「無理やわ〜飴ちゃんで勘弁して」

飴ちゃん二個で手を打ちます、なんて笑いかえしながら自分の席に再び腰を下ろす。そうしてパソコンと向き合えば、向かいの席から静香がひょこっと顔を覗かせた。

「なぁ、今日の夜ご飯食べに行かへん?」
「今日?ええけど」
「静香さまが特別に奢ったるわ」
「えーほんま?どないしたん?言うとくけど誕生日ちゃうで」
「わかっとるよ。付き合うてもらうお礼」

無駄遣いを減らしたおかげで今月はいつもより遥かに余裕がある。従って奢ってもらわなくとも自分の分は支払えるしむしろ逆にご馳走することだってできるが、ここはひとつ先輩の好意に甘えるとしよう。やったーなに食べよっかなー焼き鳥もええなーせやけど焼き鳥食うたらビール我慢でけへんしなー。退社までまだまだ時間はあるというのに、早くも夜のことで頭がいっぱいのなまえ。あ、と思い出したようにスマホを取り出し、ラインの画面を開いた。ゲンジくんに報告しとかな。ホウレンソウやな、ホウレンソウ。報告、連絡、相談。メッセージを送り終えると再びパソコンに向き直り、キーボードを素早く叩いていく。




『え、お姉ちゃんついに彼氏できたん?!相手はあれやろ、白石さんやんな?おめでとー!』

電話越しのひなたの馬鹿デカイ声に、そっとボリュームを下げる。これじゃあ他のお客さんにも丸聞こえじゃないか。いつから?どっちから?デートした?矢継ぎ早に繰り出される妹からの問いかけに、口を挟むに挟めないなまえはひとまず質問の嵐が止むのを待つことにした。

退社後、あれこれ候補を挙げた中でやっぱり焼き鳥(+ビール)を堪能したいという結論に至り、なまえは一人会社近くの焼き鳥屋で席を陣取っていた。一旦着替えに戻りたいところだったが、まあクリーニングに出せばええしと今回は諦め、終電には間に合うようにほろ酔い程度で帰ろうと自分自身に言い聞かせ。実際明日も仕事なわけで、終電を逃せばタクシーか徒歩しか選択肢はない。タクシーを使えばいくらかかるかわかったもんじゃないし、徒歩なんて論外である。なんとしてもそれは避けなければと、少し遅れるという静香を待ちながら心中強く誓っていた最中、かかってきたのが妹からの電話だった。

「えっとな、相手は白石くんちゃうねん」
『え?なんで?』
「ええ?なんでってなんで?」
『お姉ちゃん、好きなんとちゃうの?白石さんやって絶対気ィあるやろ」

気ィあるやろ、と言われましても……。お冷やを口にしながら、なまえは言葉を濁した。気があるかないかは白石本人しかわからないだろうし、告白されたわけでもないのにそんなの自惚れもいいとこだ。そもそも、白石が自分を好きなんてあるわけがない。せいぜい世話の焼けるしょうもない隣人、そんなところだろう。こんな、年上のくせにダメダメな女。自分で言ってて悲しくなるが、事実は変えられない。

「ほなこれから会社の人とご飯やから、またね」
『あっちょ、お姉ちゃん』

店に入ってきた静香の姿を捉えたなまえは、半強制的に通話を終了した。「お疲れー」と声をかけ、おしぼりを持ってきた店員に生ビールを二つ注文。ひなたと電話している間にも客が続々と来店していたようだが、その大半がスーツを着たサラリーマン、OLの類だった。仕事終わりのビール、大して素晴らしい。二人してメニューを覗き込みながら、最初の一杯を待つ。「ねぎま」「塩がええな」「ぼんじり」「タレ」「ハツ」「せやなぁ、タレで」「レバーは?」「うええ、レバー苦手やねん」なんてやっていると、目の前にはお待ちかねのジョッキが運ばれてきた。そのまま適当に注文し、乾杯のためにジョッキ同士を小さくぶつける。ゴクッゴクッ、と喉を鳴らしながら、キンキンに冷えたビールの炭酸が喉の奥を刺激して通過していく。

「ぁ〜〜っうまい!!」
「ほんっまにおっさんやな、なまえ」
「せやかてうまいもんはうまいねん」
「そら仕事終わりの一杯に勝るものはあらへんからな」
「せやろ。この一杯のためなら仕事頑張れるわ〜」

へらりと笑うなまえを、静香は頬杖をつきながらジィッと見つめる。

「元気ないなぁ思っとったけど、なにかあったん?」
「……へっ?」
「なんか話したいことあるんちゃうかなーって、なまえの顔見て思っててん」

お通しの白菜の漬物を咀嚼しながら、なまえはうん、あのな、うーん、と意味をなさない言葉をぽつりぽつりと繰り返す。そうか、今日誘われた理由はそれだったのか。だとしたら、大層気を遣わせちゃったかもしれないなぁ。ジョッキを持ち上げビールを流し込むと、ほぼ空に近い状態になっていた。それなりに親しい仲とはいえ、申し訳なさはやはり感じるもの。アレだ。わたしは話すとき、いつも無駄が多いような気がする。話は簡潔に、簡潔に……。

「ほら、ゲンジくんと付き合い始めた言うたやんか。そやけど、わたし別の人が好きかもしれんねん」
「うん」
「その気持ちも好きっちゅーもんなんかようわかれへんくて、なんかずっとモヤモヤしよる」
「うんうん」
「せやからどないしたらええかわからんくてウワァァってなっててん」

たぶん、ゲンジとこのまま交際を続けていたら、いつかは本当に好きになる。なまえにはそんな自信があった。それだけ彼は、魅力に溢れた人だから。けれど今、白石のことを想い胸の仲を渦巻くこの気持ちはなんなのか。仮にも彼氏がいるくせに隙あらば白石のことを思い浮かべてしまうのは、やっぱり白石が好きだから?もしそうだとしたら、このままゲンジと付き合い続ける自分は彼を傷つけるだけの、ただの最低でずるい女。でも、お隣さんのことをそんな風に思ったことはない。思ったこともなければ、そんな目で見てきたつもりも自分にはない。だからこそ余計に、気持ちの正体がわからなくて頭の中がこんがらがってしまうのだ。

「お待たせしましたーねぎまとぼんじりです」テーブルに運ばれた焼き鳥にすかさず手を伸ばし、熱々のそれに恵比寿顔の静香。表情はそのままに、ほんならさ、と言葉を紡ぐ。

「好きかもしれんって思うんならさ、その気持ちどこまでも突き詰めてみたらええんやないの」
「突き詰める?」
「そ。やってゲンジくん、お試しでええからって自分で言うたんやろ?せやったらその気持ちハッキリさせて、好きちゃうかったらそのまま付き合い続ければええし、ほんまに好きなんやったらゲンジくんのことフッたらええやん」
「えええ……そんなんアリなんかなぁ」
「全然アリやろ。結局ようわからんままにして付き合い続けてる方がよっぽどゲンジくんにも悪いやんか」

それぞれ二杯目を頼み、空になったジョッキをテーブルの隅に並べる。なまえは引き続きビールで、静香はレモンサワー。すぐさま二杯目がテーブルに乗せられ、女二人、豪快な飲みっぷりを誰ともなしに見せつける。

「人生ひとりじゃ生きていかれへんねやから、誰かと関わっとる時点で迷惑かけへんように生きるとかムリムリ。大体自分の気持ちを自分が大事にしたらな、誰が大切にしてくれる思ってるん?」

わたしはさ。アルコールスイッチが入ったのか、静香のグラスの中身は急スピードで減っていく。酒豪っぷりならなまえにも負けず劣らずのレベルだ。甘辛い絶妙な味付けのぼんじりを頬張りながら、なまえは二の句が紡がれるのを待っていた。

「単純で素直で、前向きないつものなまえが魅力的やと思うで」

華の二十代、存分に楽しまなあかんよ。早くも空になった二杯目のグラスを先ほどと同じ位置に置くと、静香はにっこり笑った。

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